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学習障害・タブレット・「書き写してこそお勉強」文化

 

読み書き計算が苦手… 学習障害ディスレクシアとどう向き合う? #あさイチ - Togetter

タブレットワープロ使用でもいいじゃないか」の主張は以前からある。しかし、「ノートとりに難儀」と「それ故器具使用」との間に飛躍はないか?。間に「書き写してこそ勉強」文化有では?この「文化」も再考が必要

2018/01/26 01:06

 「ノートに書く、タブレット端末に入力する、それらが選べるといい」というコメントは、ブクマ元記事にもある。また、「タブレットありきではなく、その子に合わせた方法を」というコメントもある。

これらのコメントを否定するわけではない。ただ、「『ノート取りに難儀する』という障害が、個人に内在する」という方向だけで考えていいのか? 他の方向から考える必要もあるのでは? いきなり、ノートかタブレットかの2択に走るのは、まずいのでは? という思いを私は持っている。

では、他の方向とは何なのか? それは、私が「書き写してこそお勉強」文化と呼んでいるものと、関係がある。

この文化が重視されすぎている学校やそれに繋がった社会のありかたが、「障害」とよばれている状態をつくっている。そういう面はないのか? この文化の内実はどうなっているのか? これらについて再考していくという方向からも考えられないか? ということである。

 

この文化については、過去記事「書いて覚えましょうメソッド」との相性 - karotousen58のブログでも書いている。

  

私の周囲には、「書いて覚えましょうメソッド最強」信仰の人多し。私の場合、「ノートとり」と「見る・聞く」の同時進行がうまくできない。後者重視のほうが内容が頭に入るのだが、怠け者の言い訳と解釈されてしまう

「書いて覚えましょうメソッド」との相性 - karotousen58のブログ

  

・かといって、「書くことなんて無駄」と主張したいわけではない。断片的な事柄を知った後、それらの事柄がどのようにつながっているのか、書くという方法を使って考えていく。その後、自分なりにまとめる。という方法がやりやすい。断片的な事柄を知らない状態で「書いて覚える」ということは、私にとってやりにくい。

「そんな面倒なことをしなくても、先生様が丁寧に板書事項としてまとめておられるのだからそれを覚えるほうがずっと効率がよい。」という主張もよく聞くが、私には実感がわかない。

・「見る・聞く重視」と「ノートをとること重視」のどちらの方法が、自分にとって相性が良いのか? (或は、両方を同時に満たすことを、自分なりに身につけているのか?) 悩んだり実際に試したりしたことのある人は多いのだろうか? それとも、迷うことはなかった人のほうが多数派だろうか?

・私のブックマークコメント中の、「書いて覚えましょうメソッド」は、しばしば、「ノートの乱れは心の乱れ」という見解とセットで用いられる(特に、大人によって)。

・「書いて覚えましょうメソッド」って、実は、「勉強しましたという、雰囲気作り」と「机に向かうことによって、外で無駄なことをさせることを防ぐ」という目的も隠れているんじゃね―の? という疑念を、私は持っている。

・確かに、漢字を覚えようとする場合は、実際に書かないと、漢字全体のバランスを意識しないことになる。その結果覚えられないということはありうる。しかし、(携帯電話が出回る前の話ではあるが)よく電話をかける相手の電話番号って、いちいち書いて覚えたんだろうか? 疑問がある。

・「特定の時間内に、反復できる回数」は、どうしても、「書く」場合よりも「見る・聞く・声に出す」という場合のほうが多くなる。「断片的な事柄について知る」段階では、反復回数も意味を持ってくるのでは?

また、「どれか一つの方法だけをとる」以外に、「複数の方法を併用」も有効なのでは?

「書いて覚えましょうメソッド」との相性 - karotousen58のブログ

実は、私の場合、「内容が頭に入らない」という問題以上に「文字を書くスピードが遅いため、とても汚い字(誰も読めないほどの)しか書けなくなる。」という問題も大きい。

学生時代は、「友人が学校を休んだとき、慌てて別紙に授業ノートの内容を書き写してそれを友人に渡す」という状態だった。

また、大学時代、試験が不安だった。大学の試験は、論述問題が多い。採点者が読める字を書こうとすると時間がかかって、制限時間内に書けないこともあった。制限時間内に書こうとすると、どうしても速く書こうとすることになる。そうなると、もともと汚い私の字は輪をかけて汚くなる。仮に私が優秀な学生で立派な答案を作れる実力があったとしても、採点者が汚い字を読めなかったらお話にならない。「読めない字が原因で、不合格となる」ことになりそうで、不安だった。

私は理系出身だ。だから、数字とアルファベットで間に合う部分もあった。それらは漢字やかなよりも、読みやすい字を速く書ける。もしも文系なら、漢字かな交じり文の答案を作る必要性がもっと高くなっていただろう。もしも小論文入試だったら、大学進学はできなかったと思う。

 

それらのことを、「書き写してこそお勉強」文化支持者に話すと、次の言葉をよくかけられる。

「速く書こうとすると、誰でも字は汚くなるよ。発達障害とか学習障害とか大袈裟。」「キミはあれこれ考えすぎるんだよ。余計なことを考えなくても、先生様が丁寧に板書事項としてまとめておられるのだから、それを頭に入れることにだけ集中すればいいんだよ。見る/聞くのは受け身の態度。書くことは積極的な態度。だから身に付く。」という言葉を。

これは的外れな返答である。「言われたことをそのまま書く」という場合でも、他人には見せられない字でしか私は書けない。同じ課題を他の人がした場合、「私が解読できる文字」で内容も正しく書いている。そういう経験を何度も私は積んでいる。

 

どうやら、私の観測範囲内では、「勉強は書いてするもの。書かないと頭に入らないし覚えられない。それが普通。」という推論が日常的に行われているようである。

果たして、その推論は妥当なのだろうか? 「それが普通」という表現での「普通」の内実は? 実は、「どこにもいない平均的な人」をモデルにした「普通」だった。そういう可能性はないのか? 

そして、その可能性があるのなら、その「普通」は「多くの人を排除する危険性のあるもの」になりうるのでは? と私は思う。

 

「文字を書くスピードが遅い、ノートとりに難儀、速く書けるようになりたいのだが、方法を思いつかない。我流で練習したことがあるが、うまくいかなかった。」という類の発言、実は、2000年頃に存在した「成人発達障害系サイトやそこの掲示板」で、何度かなされていた。

大学時代に、「字を書くスピードが遅すぎて、ノートとりや試験が心配」のことを友人に打ち明けたことがある。

「ノートをとってる最中、自分も内容が頭の中には入ってないよ。後に試験対策として見るために書いている。あんたの言うとおり、『黒板を見る/話を聞く重視』のほうが頭に入る。」と告白した友人も少なからず存在した。また、「ノートを貸した人よりも、借りた人のほうが良い成績を取ることなんてザラ」ということは、大学ではよく聞く話だ。

「医師はカルテを英語やドイツ語で書く(注 昭和時代のこと)。その理由は、漢字かな交じりの日本語よりも速く書けるからだ。」と、大学時代に聞いたことがある。「やっぱり、漢字かな交じりという条件は大きいな。」とそのとき思った。

本当に、「書き写してこそお勉強」文化が多くの人と相性が良いのか? 書き写しの負担を減らして「見る/聞く」に集中するほうが相性がよいという人もいるのでは? 書き写しの負担軽減については、「タブレットワープロ使用」以外に方法はないのか? 

タブレットワープロが使えない場合もある。また、ノートとり以外の場面では、自分の考えやいろいろな事項とのつながりを、書いて考えてまとめる勉強が自分にとってやりやすい。だから、使えない場合の負担軽減方法も知りたい。」という思いが本人にある場合はどうか? これらも考える必要があると思う。

 

負担軽減の方向性として、次の2点を考えたことがある。

  1. 「漢字やかな」を、数字やアルファベットや各種記号などの「早く読みやすく書けるもの」に変える工夫
  2. 文字を書くスピードを上げる練習

1.について

名古屋→758、農業→Agri、ゆえに→∴、すなわち→i.e、略字を使って漢字を書く(例 議→言+ギ)、というふうに書き方を変える。その際、「ノートの罫から多少はみ出してもいいから、できるだけ視点を黒板に向けたままで、ノートをとる」ようにした。

(注 勿論、「他の人に読んでもらう必要のある文」に対しては、これらの書き方は使わない。漢字や文章を書く練習は後で別に行う。)

2.について

「行書(文字のくずし)を覚えたら、書くスピードが速くなるかもしれない。そういえば、『中学や高校の同級生で、成績優秀かつ文化資本の高そうな家庭出身の人』が行書っぽいくずしを使っていたな。」と思って、ペン字の本を使って練習したことがある。1日15分の練習を半年間続けた。効果は感じられなかった。今思うに、行書の練習よりも先に「とめ、はね、はらい、といったことを意識して丁寧に楷書を練習する」ことが必要だったのかもしれない。

数日前に書店で「ペン字練習本」の類を立ち読みしたところ、「ひじなどの体の使い方」「横線、縦線、曲線の練習」といったことについてもふれている本があった。これらも意識する必要があるかもしれない。

 

確かに見てくれは悪いかもしれない。しかし、1.のような書き方を使ったノートを子供がとることも認めてほしい。「ノートをとる」という負担が軽くなったら、家で「きちんとした文字を練習してみる」こともやりやすくなるかもしれない。(子供時分の私の場合、「ノートの乱れは心の乱れ」で片づけられ、「書く」こと全般に恐怖感を持っていた。)

漢字練習について検索したら、書かずに漢字を覚える方法! - 次世代型個別指導塾アチーブメント -Achievement-という記事が見つかった。この方法と相性の良い人もいると思う。

 

いきなり、ノートかタブレットかの2択に走るのは、まずいのでは? と思う理由は他にもある。

「図や絵を書いて情報を整理し、問題を解く」必要が出てくるケースもありうる(例1 物理の試験で、現象を図式化してイメージ。例2 マインドマップといわれるような思考法と本人との相性がよい場合)からだ。

また、試験等の場で、タブレットが使える環境が必ずしも準備されているとは限らない。「それらを諦めるという形で選択肢を狭める」ことにつながるとまずいのでは? と思うからだ。

 

「書き写してこそお勉強」文化の過剰重視によって、社会的に作られている面がある、「学習障害」。そういう認識も必要だと思う。この認識で重要なのは、「何を改善すればよいか」の焦点が違うものになりうるということである。

学習障害」とみなされていない人の中にも、

  • 「書き写してこそお勉強」文化との相性の悪さを感じている
  • 「書き写してこそお勉強」文化しかないと思っているから、そこから離れることを恐れる→「書き写さなければ、頭に入らないに決まっている。頭に入らないのは、自分がバカだから。」と思い込んだ状態にある

人がいる可能性はないだろうか?

もしもそういう人がいるのなら、「書き写してこそお勉強」文化の内実やそれに繋がる学校や社会のありかたについて考え直すことは、学習障害者以外も利することになりうる。(念のための注 本当に「書き写す方法のほうが、見る/聞くよりも自分に合っている」人の場合、書き写す方法で勉強すればよい。)

そして、情報の送り手と受け手。送り手側が「伝えたい」と思っている事柄と、受け手側が「受け取る必要がある」と思った事柄。それらがうまく繋がるにはどうすればいいのか?

ということについても、考え直すための一つの鍵となるかもしれない。