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その「発達障害啓発活動」、排除や疎外の拡大再生産を呼ぶ可能性もあるんじゃねーの? 2

 

あさイチ 発達障害グレーゾーンの特集に出演した中山秀征さんが炎上 #発達障害 #あさイチ - NAVER まとめ

中山氏の無理解というより問題提起と思う。発達障害を相互行為の中で捉えず、「彼(女)らの中の障害が原因、我々の『常識』を再考なんて不要」空気は無か?「社会性を育みながら能力開発」ではなく「同化を目標」?

2018/04/22 02:00

  

はてなブックマーク - あさイチ 発達障害グレーゾーンの特集に出演した中山秀征さんが炎上 #発達障害 #あさイチ - NAVER まとめ

「彼(女)らは私達とは別世界の、『偏りの激しい』子。専門家介入で様々な『歪み』をなくし、私達の世界を脅かさないよう、私たちの世界の枠組みの中に『収めて』あげなきゃ。」啓発。これを中山氏にも適用

2018/04/22 02:16

 

 発達障害啓発運動とは、どうやら、

 違和感や排除の意識を我々に抱かせる本人、対人関係に悩む私達、いろいろな場面で本人が起こす問題。それらへの打開策として持ち出された、「発達障害」というカテゴリー。専門家をはじめとするいろいろな人達が、「発達障害への、周囲による理解が足りない状態」と認識。→この障害への理解が高まり、症状軽減や問題解決がなされたらよい。

といった狙いを持ったものであるようだ。

では、この「発達障害カテゴリー」は、どのように構成されてどのように流通しているのだろう? 

 

発達障害というカテゴリーを、本人以外が支配している」のでは? そして、そのカテゴリーにくっつけられた「価値や意味」などと、あてはめられた本人が生活する現実との関係性はどうなっているのだろう?

その「発達障害啓発活動」、排除や疎外の拡大再生産を呼ぶ可能性もあるんじゃねーの? 1 - karotousen58のブログ

 現状では、「発達障害カテゴリー」は、本人以外の人達が支配している。「発達障害カテゴリーをめぐる、相互作用」については検討がほとんどなされない。

発達障害者のありようを「本人以外の人達」が一方的に規定。

  • 違和感や排除やいろいろな場面で起こす問題や逸脱行動。それらの原因や理由を全て「発達障害者本人の持つ特性」と、本人以外の人達が決めつける。「観察・分析・解釈される対象となるのは障害者側、するのは健常者側」という非対称的な状態。
  • 一方的に決められた仮説が本人に不利益を誘導する場合でも、本人が反駁することは困難な状態にある。反駁を試みても、「発達障害者は認知力が弱いから、そのような間違った解釈をしてしまう。」などと無効化される。
  • 発達障害が「誰」にとって「どんな点で」問題か?が問われないまま、本人が悪人とみなされる。

早期発見や専門家介入の持つ「効果」を自明視。「支援」というよりは「風紀委員的なもの」を私は感じる。

  • 違和感や排除や問題や逸脱行動を解消するためには、「特性を抱えている」本人と専門家の世界を作って訓練させる必要がある。「私達の世界を脅かす特性を持つ発達障害者」を脱して、「私達の世界の枠組みに、収まるように」してあげなければならない。「個人を変化させる」という方向での(自称)支援。
  • 早期発見早期対応がなされた場合、学卒後の社会にも適応できる。「今の成人発達障害者が苦戦しているのは、運悪く早期発見ができなかったから。」と決めつける。成人発達障害者はしばしば、「発見や対応が遅れたら、あんな人になってしまいますよ。」という反面教師役を押し付けられる。
  •  本人以外の人達に伝えられる「発達障害者の声」の多くは、「本人以外の人達と価値観を共有している、発達障害者」のそれである。

 

発達障害という言葉が流通していった理由はいろいろあると思われる。そのうちの一つが、「発達障害カテゴライズを歓迎した人たちがいた」ことである。私はそう考える。

「私達や所属集団が悪いわけではない。『個人の持つ障害』と考えることによって、うまくいっていない現状も、専門家介入による状況改善が期待できる。」という思いが、背景として存在する。

専門家から一般レベルへと専門知識が流される際、「情報が変容してしまう」こともありうる。情報が簡略化された形で伝わるということもありうる。そして、簡略化や変容のなされた専門知識に対して、個人個人が「どんな印象を持ち、どのように自分の言葉に変換していくか」という問題も出てくる。

発達障害の特徴とされているものが、自分に該当するか否か」は、実際のところは、主観にゆだねられている部分も大きいと思われる。歓迎した人達がいろいろな情報を得る。そして、得た情報は、「個人個人が、自らにとって都合よい情報だけ」ともなりうる。

「『普通』の基準が客観的に存在して、その基準から逸脱する人を『発達障害者』とみなす」というより、逆に、「発達障害者を逸脱者とみなすことによって、『普通』の基準を確定」という方向に走る。

このように、「発達障害カテゴリー」が本人以外の人達によって支配される。

 

本人が直面する問題には、いろいろな背景がある。そこでおりなされる多様な社会関係、取り巻く環境、所属集団の制度的特徴など、様々な要素がある。しかし、「本人の持つ生物学的特性」のみに着目してしまったら、「それらの要因にも着目する」という方向が閉ざされる危険性がある。

番組では、子供が診断されている様子も放送された。「みんなに意地悪される」→「意地悪されるというよりは……」という展開となっている。ここで何らかの誘導がなされていないか? 私は気になっている。

この「本人の持つ生物学的特性」はしばしば、「発達の遅れ」「不出来」という言葉で表現される。何を「普通」とし、そこからの「遅れ」「不出来」として「障害」とみなすのか? 「私達」の側が再考してみる。そういう方向も、発達障害カテゴリーが支配された状態では、閉ざされる。

「本人以外の人達にとっての、あるべき相互作用」に沿って本人を観察/分析→決めつけ。それによって、本人の「できなさ」が強調されてしまうこともありうる。

 

ここで、中山秀征の発言について考えてみる。中山氏の発言は、「番組の台本」を踏まえた発言と考えられる(必ずしも、ご本人の本心と一致しているとは限らない)。中山氏への人格否定(台本である可能性を無視したと思われる)コメントや内容非難コメントが多数寄せられているようだが、私の解釈は異なる。

むしろ、「『できない』とされることの意味、本人以外の側も『できる/できない』について考える必要ありでは?」という思いを持っていたのでは? 「子供の頃の捉え方を振り返る、『できないこと』を持つ人と自分の暮らしている世界とがどうつながっていたか振り返る、『子供内部の問題』で片づけず、『大人がどう捉えるか?』ということにも思いを巡らす。」といったことに、本人が向き合ったゆえに出てきた発言なのでは?

と私は捉えている。

そして、「ひょっとしたら、次のような問題提起も含まれていたのかもしれない。」と私は疑っている。

「社会性をはぐくみながら、本人なりに持っている能力を開花させる支援」というより、
「あの子達は私達とは違う、『偏りの激しい』、別世界の子。早期発見し別世界での早期療育をしてあげなきゃ。」「さまざまな『歪み』をなくし、私たちの世界を脅かさないように、私たちの世界の枠組みの中に『収めて』あげなきゃ。」
とういう方向への支援に関心が向いているのでは?

 

"周りから個性だと言われる方が、すごいつらい方がいる"

これは重要な発言。「つらさ」を生み出しているものは何なのか? 「つらい」と発言した本人の発達や成長や学びを、我々が解釈するスタイルはどうなっているのだろう? スタイルを含めた関係性はどうなっているのだろう?

など、いろいろと考えていく必要があると思うから。そして、新しい「発達観」や「価値観」を双方が模索/創造していくことに、意義があると思うから。

発達障害カテゴリーが本人以外の人に支配されているのなら、これらが検討されることは望み薄だろう。

番組では「周りの方が個性だよと言うのは、かなり慎重にされたほうがいいと思う」で片づけられたのでは? と私は疑っている。

 

診断がつかなくても、

「このような特徴があって、このあたりに困難を感じているようだ」→「よい部分を伸ばしていくことで、苦手な部分を補っていく。」とか「その後の発達過程の中で、少しずつ成長させていく道を模索する。」

という方針でいいのでは? 

と私は思っている。

私にとっての「理解」「支援」イメージは

「自分自身が発達障害者本人から、どんなメッセージを受け取っているのか」「今の自分の立場や役割において、何をすればいいのか」「自分は『発達障害』なるものをどのように捉えているのか」といったことを自問していく。

その上で自分の態度や行動を考えていく。

ことである。

発達障害カテゴリーを他人に支配されている状態」での、「発達障害啓発活動」は、排除や疎外の拡大再生産につながる。私はそう考える。

 

本日、「超実践!発達障害 困りごととのつきあい方」なる特別番組が放送されるようだ。

発達障害カテゴリーが本人以外の人に支配された状態では、

「誰にとって、どんな点で、困りごととなっているのか」ということが問われないまま、本人が悪人とみなされる。

支配されたカテゴリーに従って、本人たちが個人的な同化努力に励んで対処している限りは、周りの「見せかけの寛容さ」がバレることはない。周りの人が「発達観や価値観を再考」する必要性を感じることもない。

番組を見る際には、「このあたりの誘導」に警戒する必要がありそうだ。と、私は考えている。

 

(このテーマひとまず完結)