karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

2018年4月放送発達障害啓発NHK番組、視聴者の感想に興味あり 2

  

発達障害について知られていないことが問題。だから、知ってもらうことが必要。」という意見も根強いんだなと思った。「知らない」こと以上に、「何をいかにして、知ったつもりでいるか」ということのほうが問題なのでは? と私には思えて仕方がない。

Twitterでは、「去年の『井ノ原氏と有働アナ』のほうがずっといい。中山氏はミスキャスト。」という類のコメントも多く見られた。 次回は、これらのことについて関連させて書く予定。

2018年4月放送発達障害啓発NHK番組、視聴者の感想に興味あり 1 - karotousen58のブログ

 

発達障害というカテゴリーを、本人以外が支配している」のでは? そして、そのカテゴリーにくっつけられた「価値や意味」などと、あてはめられた本人が生活する現実との関係性はどうなっているのだろう?

その「発達障害啓発活動」、排除や疎外の拡大再生産を呼ぶ可能性もあるんじゃねーの? 1 - karotousen58のブログ

  

本日、「超実践!発達障害 困りごととのつきあい方」なる特別番組が放送されるようだ。 発達障害カテゴリーが本人以外の人に支配された状態では、 「誰にとって、どんな点で、困りごととなっているのか」ということが問われないまま、本人が悪人とみなされる。 支配されたカテゴリーに従って、本人たちが個人的な同化努力に励んで対処している限りは、周りの「見せかけの寛容さ」がバレることはない。周りの人が「発達観や価値観を再考」する必要性を感じることもない。 番組を見る際には、「このあたりの誘導」に警戒する必要がありそうだ。と、私は考えている。

その「発達障害啓発活動」、排除や疎外の拡大再生産を呼ぶ可能性もあるんじゃねーの? 2 - karotousen58のブログ

今回も、オブラートに包まない表現を使う。2017年度の発達障害啓発NHK番組は、結果的には次のような事態につながりうるものだった。と私は捉えている。

2017年放送の発達障害啓発NHK番組が、あまりにも「発達障害者本人以外によるカテゴリー支配」に共感をよせすぎたものだった。

「周囲にとって都合の悪いことは、なんでもかんでも『発達障害の特性が原因』として片づける」というコメントが可視化されやすくなった。

まさかとは思うが、2018年4月16日放送の番組には、「『なんでもかんでも発達障害に関連付ける』という空気もできていないか?もしもそうなら、危ない。」という見解を取り入れた台本が作られていたのかも?

 

井ノ原氏と有働アナによる進行の「発達障害啓発番組」と、中山氏の登場したそれとは、テーマが異なる。

  •  井ノ原氏と有働アナによる進行の「発達障害啓発番組」テーマ
  1. 2017年5月放送 「自分の苦手とどうつきあう」
  2. 2017年7月放送 「ほかの子と違う? 子育ての悩み」
  3. 2017年9月放送 「どう乗り越える?コミュニケーションの困りごと」
  4. 2018年1月放送 「読み書き計算が苦手…どう向き合う?学習障害
  1. 2018年4月16日放送 「子どもが"発達障害かも"と言われたら」("グレーゾーン"の親の悩み)
  2. 2018年4月30日放送 「超実践!発達障害 困りごととのつきあい方」

 

「これらのテーマ、一つだけ微妙にタイプが違うぞ。」と私は思った。その「一つ」とは何か?

答えは、2018年4月16日放送 「子どもが"発達障害かも"と言われたら」("グレーゾーン"の親の悩み) である。

違う理由は、

他のテーマでは、「観察/分析/支援をされる対象となるのは発達障害者。それらをするのは周りの人。」というレールが敷かれている。しかし、このテーマでは、「(発達障害者の身近にいる)自分自身が持っている、発達観や価値観。それらを見つめる必要もありそう。」というメッセージが隠れていたのでは? と思えたからだ。

もう一点。「グレーゾーンというテーマ、(他のテーマではスルーされていた)おっかない要素にも向き合う必要があるぞ。」という思いを、私が持っているからだ。

「おっかない要素」とは何であるか? それは、「トラブルリソースやリスク管理の対象として、発達障害が持ち出される」ことである。「発達障害者本人が問題や困難を抱えているから、それらを軽減させるために介入」というよりも、「問題を未然に防ぐことや、一般人が持つと予想される社会的不安の解消を、目的として介入」が優先される。

専門家や集団内での強者が、特定の発達障害者に関する仮説(実は障害者側に不利益を強要するもの)を主張。しかも、仮説は専門家や集団内強者の一方的な解釈体系に基づく→本人は反駁困難(医療の持つ権力は大)、という危険性もある。

 

井ノ原氏と有働アナによる進行の「発達障害啓発番組」は、中山氏登場番組よりも好意的に評価されているようだ。「井ノ原氏と有働アナのほうが、気持ちに寄り添っていてよかった。発達障害への理解を求める進行だった。」等のコメントをいくつか見た。しかし、私はそれらに疑問を持っている。

本当は「理解」というより「例外として認める」といったところだったのでは? 「気持ちに寄り添った、理解に近づいた」と思うことによって、「例外扱い」であることの直視を回避したのでは? という解釈を私はしている。

「怠けているとか特別に性格の悪い極悪人だから、彼(女)らは私たちを困らせるのだ。」という見解をくつがえすという狙いを持った番組構成ではあったのだと思う。しかし、厳密に言えば、見解は「くつがえされた」わけではなかった。何故ならば、「世俗的常識や規範や、それにはらまれている問題」について再考していくという方向については示されなかった(と私はみている)から。

確かに、「怠けや極悪人なんだから自己責任」ではなく「障害かもしれないから、配慮してあげなきゃ。」に変えようという方向性は感じた。しかし、「障害ではないのなら、やっぱり怠けや極悪人だ」とする規範は生き残っている。そして、発達障害者側が社会的に弱い立場に置かれたままになるであろうことも変わらない。

支配されたカテゴリーに従って、本人たちが個人的な同化努力に励んで対処している限りは、周りの「見せかけの寛容さ」がバレることはない。周りの人が「発達観や価値観を再考」する必要性を感じることもない。

もしも、その状態にとどまらず、非発達障害者側が「自分はカテゴリー支配をしているのかもしれない。そして、発達障害者側が感じている『生きづらさ』は、そのことと関係があるかもしれない。」という思いが出てきたらどうなるだろう? 「辛い」とか「混乱」とかいった感情が湧くこともありうる。

中山氏登場の 2018年4月16日放送 「子どもが"発達障害かも"と言われたら」("グレーゾーン"の親の悩み) では、「障害かもしれないから、配慮してあげなきゃ」というよりも、「個性では? 診察室という環境に長時間いるといった条件等はどうよ?」といったトーンで語られていた。

この言動が、「個性なんだから自己責任」という主張だと、視聴者に解釈されたのかもしれない。しかし私は、次のように解釈している。

「『個性だから自己責任』で終わらせたのではなく、社会関係的な面もゼロではない」という主張だったのかもしれない。

 

番組では、「外国で早期発見や早期対応がなされ、かつ、家族が協力的だった」成人発達障害者がゲストとして登場。「自分研究」という方針を、好意的に紹介。自分研究と援助要請とを結びつけた語りもあった。

しかし、援助要請に関しては

「人に迷惑かけていい」と「障害者が声をあげる」の間にあるもの 2 - karotousen58のブログ

で書いた問題についてはスルー状態。

発達障害について考える際に、「生物学的、心理学的、社会関係的」の3種類の方向から考える必要がある。勿論、「社会関係的」側面が、もっとも複雑である。私はそう捉えている。それらのうち、番組で着目されたのは、「生物学的、心理学的」方向がほとんどだったのでは?「社会関係的」な面はシカト状態だったのでは? というか、「社会関係的な面についてふれたら、カテゴリー支配を視聴者に意識させることにつながりうる。それを意識することは、視聴者にとっては気分を害することだ。だからシカトする。」といったところだったのでは? と私は思う。

 

「特にひどい」と私が思ったのは、2017年7月放送 「ほかの子と違う? 子育ての悩み」である。

#あさイチ [2017年7月24日(月)] : ツイ速まとめ

番組の感想を見て、「信じられないことが起こっている。」と私は思った。

「そうそう、あの小6の子、信じられない行動でしょ。」と思った方もおられるだろう。

違う。「『そうそう、あの子絶対普通じゃないよ。親御さんは熱心なのに。』という類のコメントで盛り上がること」が、「信じられないこと」と私には思えた。

  • 「外からカメラを使って小6の子を顔出しにして、『問題行動(とみなされたこと)』を全国放送でさらす」という発想。そして、それを「親御さんの熱心さの表れ」と解釈。
  • 「外からカメラとかがやってきても状態が変わらないわけじゃないですか」という司会者のコメント、これを受けて、「そうそう、だからあの子は普通ではない」というコメントがなされる。それに共感する人続出。
  • 「外からカメラを向けたら、状態を変えるだろ」と、「そんなことをすると、あのおばちゃんに怒られるよ」といった類の言葉、どう違うんだろ? 後者は「悪い叱り方」と言われることがよくあるのだが。
  • 「『自分が直接働きかける』という方法を取らないで、『他人(特に世間様)の目』という外圧を使って、子供の言動を変えようとする。」こと。この方法を正当と解する人が多そう。では、どのような知識/論理/感覚/情緒を以て、それを正当とみなすのか? それらについて検討することなく、「普通の小6ではない」と決めつけていいのか?

と私には思えた。(10年前なら、「問題行動(とみなされたこと)」を顔出しにして全国放送でさらすという行動はとられなかったと思う。私の観測範囲では、寸劇という形で表現がなされていた。)

「あ、これ、平成の『積み木くずし』だ。」と私は思った。『積み木くずし』は、ある俳優が書いた本で1982年にベストセラー本となった。「非行に走った娘との、葛藤を書いた作品」である。「非行は、自分の愚かさと娘の弱さが原因だった。しかし、自分は昔の愚かさを悔い改めた。そして人間的に成長した。あとは娘が変わるだけ。」という内容だった。

 この本の出版に関して、娘のことを相談した警察の人から助言があった。「出版を考えるなら、3年経ってから」と。しかし、その俳優は「娘が承諾」と主張し出版。当時14歳の娘は反響が想像できなかった故承諾、その俳優は娘に責任転嫁。

この本はよく売れた。当時、俳優に共感する声がたくさん寄せられていた。娘のほうは、いろいろな人から色眼鏡で見られて辛かったらしい。「親はきちんと反省して立派に行動しているのに、反省もせず行動も変えない。親不孝な娘。」という類のことを、見ず知らずのいろいろな人から言われたらしい。(本人が成人してから出版した本によると)

 

また、番組では、次のような形で「カテゴリー支配を意識させない工夫」もなされていた。

困難の軽減や解消をせざるを得なかった発達障害者。「彼(女)らのとった対処方法の豊かさや努力を称賛する」という形でなされていた。

「称賛のどこが悪いんですか?本人の気持ちに寄り添った行為じゃないですか。」と思われるかもしれない。しかし、この「称賛」に私は危険なものを感じている。「豊かさや努力を称賛することによって、そうせざるを得ない状況に追いやった側を免罪」という方向にも使われうるからだ。また、本人が対処に次ぐ対処を重ねていった結果、「問題は軽減したものの完全な解消にはいまだ至っていない 」という場合も多々ある。

また、(この番組に限らず)障害啓発番組で伝えられる「障害者の声」は、「非障害者と価値観を共有しようとする障害者」のそれであるケースがほとんどである。

「家族が楽になると、本人も楽になる」と力説する。そういう形でもなされていた。この発言が、「『問題や困難軽減のための介入』というよりも、『問題を未然に防ぐことや、一般人が持つと予想される社会的不安の解消を、目的として介入』を優先」する際に悪用される危険性があるのでは? と私は思う。

この番組に限った話ではないが、発達障害関連の話題になると、「困った子供は困っている子」なる言葉がよく使われる。この言葉は、好意的に解釈されているようだ。

しかし、私はこの言葉が嫌いである。「『困っている子』と解釈しているあんたらの、解釈体系はどうなってんだ? それを示さないで恩着せがましい態度をとるんじゃねーよ。」などと、ついつい思ってしまう。

 

定型発達症候群って何?|発達障害プロジェクト

というサイトもある。「あ、これも意識させない工夫だな」と正直なところ、思った。

「有働アナによる発言なら、この内容は相手にしてもらえるんだ。同じことを発達障害者が言ったら、『だから何?』程度の答えであしらわれるだけだ。否、『こんなことを言うなんて、本当に認知力が弱すぎるんだね。認知力を付けないと、我々が迷惑するんだよ。』などと言われる。」と思った。

「定型発達症候群」なるものを持ち出した意図は何なのだろう? 「『発達障害』と『定型発達(非発達障害と私は表現)』とは、異なる文化を持つ。『異文化接触』を経験するようなものかも?」という問題提起なのかもしれない。

「自分かに存在する「文脈」で、他者の言動を推測しようとする→それがトラブル発生の原因に」という方向から考えようという意図を持つものかもしれない。

ここまでの見解はよいと思う。ただ、このサイトでは「この見解の続き」が示されていない。続きは、次のどれなのだろう?

  1. 人は皆、多かれ少なかれ異なる文化を生きている。発達障害もその一つ。「自文化の正当性」を疑ってみることや「異文化の『文脈』」を学ぶ必要が出てくることもありうる。そして、その学びは、必ずしも「苦痛」とつながるとは限らない。
  2. 世間一般という同じ『文化』に属する以上、発達障害であろうとなかろうと、その同じ文化を受け入れ、そこの『文脈』を学び取らなければいけない。
  3. その他

「本心は2.なんだろうな」と、正直なところ思う。

 

長々と書いたが、私がこの記事で主張したかったのは、次のことである。

「『発達障害をめぐる医学的心理学的知識』をもって、発達障害者に関する問題が取り除かれる。」というわけではない。「無知」よりも、「生活する世界の中に存在する『カテゴリー支配』に意味を見出し、それを何らかの形で受容している」ことの影響が大きいと、私は思う。

そして、それらを「無理解や不寛容」として批判するだけではなく、その「カテゴリー支配」にどのような意味を持たせているのかを再考する必要があると、私は思う。

 

番組に対する視聴者コメントは、他に、

「中山氏は、当事者の意見を聞こうとしない」「中山氏も、この番組出場で専門家と一緒に勉強して、見解を変えてほしい」というものもあった。

次回は、「カテゴリー支配された状態での、当事者の意見」周辺にあるもの(特に、トラブルリソースやリスク管理の対象としての発達障害) について書く予定。