karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

2018年4月放送発達障害啓発NHK番組、視聴者の感想に興味あり 3

今回は、「カテゴリー支配された状態での、(特に成人)当事者の意見」周辺にあるものについて書く。

カテゴリー支配については、その「発達障害啓発活動」、排除や疎外の拡大再生産を呼ぶ可能性もあるんじゃねーの? 2 - karotousen58のブログを参照。

 

番組に対する視聴者コメントは、他に、 「中山氏は、当事者の意見を聞こうとしない」「中山氏も、この番組出場で専門家と一緒に勉強して、見解を変えてほしい」というものもあった。

2018年4月放送発達障害啓発NHK番組、視聴者の感想に興味あり 2 - karotousen58のブログ

 個人の言葉は、その人の生きている複数の文脈において、複数の意味を持つ。

「当事者の意見」も、実際には、多様な力関係の中で話されたり書き記されたりしたものである。しかも、本人自身もそのことには無自覚になっていることも少なくない。特に発達障害関連現場では、発達障害者本人も家族も「専門家主導の性格が強くなっている」文脈に入ることが考えられる。

「当事者の意見」に関しては、発する側も受け取る側も、そのことを意識する必要があると思う。

 

ここでいきなり、発達障害とは違う話だがあまりにもひどすぎるたとえ話をあげてみる。

  1. 重度身体障害者を街中で見かけることが稀なのは、「公共輸送に頼ることを嫌い、街にも出たがらない」という独特の文化を彼(女)らが持っているからだ。我々の常識からは想像のつかない文化だが、そういう文化もあるということを知る必要がある。 という発想からの「障害者理解」と称したトンデモ。
  2. 黒人差別の横行する場で、差別に対する批判をスルー。その上で黒人に対して、「君たちが不利な立場に置かれないように、黒人に見えないようなメイクのやりかたを教えてあげる。また、君たちのために、肌の色を変える医療技術について研究を進めている。」などと言いくるめるトンデモ。

2つとも、滅茶苦茶な見解である。しかし、発達障害関連においては、これらの見解の「発達障害バージョン」コメントも世間でしょっちゅう語られている。そして、これらのコメントは、「多様な力関係」の中で、重要な位置を占めている。私はそう考える。

 

成人発達障害者の多くは、発達障害に関する知識や情報を知らないまま成長していった。当然、他の発達障害者が「どういうふうに生きている(きた)かということについては、わからない」ままである。「生きていくうえでの指針」につながるものはなかなか見つからない。

こうした「情報不足と孤立」は、自己否定感を抱いた状態での無力化へとしばしばつながっていく。しかしその後、「発達障害児に関する情報」にアクセスしやすくなった。発達障害という説明モデルの獲得は、「生きづらさの原因は何なのか。今後どんな経過をたどるのか。」といった多くの疑問に対して、生活状況を切り開くきっかけとなるかもしれない。彼(女)らはそう考えたのかもしれない。

発達障害児に関する情報」では、次のことが力説される。成人発達障害者も、それを内面化しているケースが多々ある。

「早期発見早期介入のなされた発達障害者は予後がよく、将来社会に適応できる。それに対して、未診断や未介入の発達障害者の予後は悪い。今、成人発達障害者が苦戦しているのはそのためである。」

そして、「早期介入(特に療育)が学校教育以上のものを与えてくれる」という期待を、周囲が抱くようになった。

更に、「成人発達障害者が、反面教師として語られる。発達障害がトラブルリソースとして語られる。」ケースもよくある。多くの成人発達障害者も、療育の意義を自明視している。「早期発見早期療育」の効果が本当に実証されているのか? 私は疑問に思っているが。

 

成人発達障害者の多くは手探りで生活し、対処法も経験的に身につけていった。そこで直面した問題は、技術的や制度的な解決がなされていたわけではない。人並みの結果に近づくために、人並み以上の時間と労力を費やしてきた。

現実的には、「多勢に無勢」という言葉を思い知らされ、一生懸命にこの社会に合わせようと努力するという形だった。その努力方法とは、通常とは異なるルートとは違うことが多かった。つまり、「直観的レベルで社会的な機敏を身につけていった」のではなく、「本人自身による観察/思考/分析で、『多数派はどう認識/行動するか、というパターン的知識と運用技術』習得努力」戦略を取っていった。

「早期発見早期療育」が力説される場では、成人発達障害者による「これらの努力」について語られることはほとんどない。否、「自己認知の出来ていない成人発達障害者が、見当違いの努力をする。それは無駄なだけではなく、周囲の迷惑だ。専門家の言うことをきかないとダメだ。」などと言われることもよくある。成人発達障害者自助会でも、私は何度か聞いた。

それだけではない。「成人発達障害者は、『周りの人が理解しろ』と主張するだけで自助努力をしようとしない。」などという非難もしばしば浴びている。

その結果、「早期発見早期療育」神話を内面化してしまうケースが出てくる。

 

発達障害が何故問題であるのか? 専門家言説ではそれについて2つの語られ方がある。

1.トラブルリソースとして発達障害が用いられる語られ方
発達障害は、少年犯罪のみならずありとあらゆる教育問題の「隠れた誘発因子」として語られる。この場合、教育的介入は「単なる個人の困難に対する介入」ではない。「教育問題を予防するための介入」である。
2.「困った子は困っている子」という語られ方
個人の「教育的なニーズ」が見いだされ、それに応じた「教育的配慮」がもたらされるとして、語られる。しかしながらその一方で、このような教育的配慮や支援のありかたは、多くの場合、「非発達障害者」である大人が、「障害児」のありかたを特定の方向へ向けていく。そういう作用を持っている。

成人発達障害者が、これらを内面化しているケースもよくある。

発達障害者が、「周囲に援助を求めること」についても、難しい面が存在する。これについては「人に迷惑かけていい」と「障害者が声をあげる」の間にあるもの 2 - karotousen58のブログで書いたことがある。

 

続いて、「当事者の意見」を受け取る側の周辺について書く。

発達障害者の「問題や困難」という「リスク」を、医療に委ねることによって「分散する」という発想を、持っている人が少なからず存在する。「自分たちのまわりに発達障害者がいると面倒。専門家や家族が分散して扱ってくれたほうがありがたい。」という発想。その発想の下で、「発達障害が疑われるから、受診や治療をさせたい。」という主張がなされるケース、これは少なからず存在する。

発達障害というカテゴリーは曖昧さを持つ故、「とんでもない力」も持ちうる。曖昧であるからこそ、その場の状況と文脈に応じて、様々な不可解(と認識された)行為を発達障害に帰属させ、「つながりを作る」ことを可能にする。慣習や文化といった一定の枠内で、容易に可能となる。

つまり発達障害とは、そのカテゴリーの持つ曖昧さを基礎として、人々が他者の行為を「発達障害として、つながるに適切である」と評価した結果ということになる。

 

障害者に対する「教育/発達可能性」に対する期待。それが「支援」とよばれる行動の基本となっている。そのような期待や志向が「支援」という実践を成り立たせている。しかし、その一方で、「教育/発達可能性」等の「美しい言葉」は、「個人の障害の克服」という、限定的な(←ここ重要)将来のみを志向しているのなら危険。私にはそう思える。

また、それらの延長上にある言葉として、「成長」も存在する。障害者が、「成長した」と専門家や周囲によって評価されたとき、その障害者本人の行動変化が何を意味するか? もしも、「正体不明の権威への、抵抗を諦めただけ」ということならば、危険だと思う。 

発達障害者は、非発達障害者が要求するようにふるまい、できるだけ非発達障害者に近づこうと自助努力する必要がある。自助努力をすると、社会の側は従順さへの報酬として仲間に入れてくれる。そして、それは善意に満ちた恩恵的なものとして語られる。従わないのなら排除される。つまり、排除は問答無用でなされているわけではない。」

こういう価値観を内面化した上での「当事者の意見」となっている可能性。これも『当事者の意見」の中にはありうる。意見を受け取る側は、そのことに自覚的になる必要があると思う。

 

(このシリーズひとまず完結)