今週のお題「2018年上半期」
今週のお題「2018年上半期」
「考えれば考えるほど、『発達障害』というものがわからなくなってしまう。」
2018年上半期は、これを痛感した。
確かに、「発達障害、何それ?」ではなく、「あの子には問題があるけど、障害かもしれないから配慮してあげなきゃ。」というトーンで語られることは増えてきた。
では、その語りが何をもたらしているのか?
「親や支援者が特別に配慮してあげなければならない無力な存在」か「社会機構の円滑な運営を妨げる人達。だから、本人が自覚と自己管理をできるように、親や支援者が配慮してあげなければならない存在。」としてのポジション提供をもたらしたんじゃねーの? と私は疑っている。
発達障害に限らず、「障害者」を「他者」化して線引きする動きがある。そして最近、そのやり方が巧妙化しているのでは? という思いが新たに出てきた。
わかりやすい偏見に基づく差別に関しては、やはり批判はなされる。しかし、その批判は、「自らがどんな立ち位置にいるか」を意識しない状態でなされている。
何か世間を騒がせる問題が起こった際、「あの事件に関係のある人も、発達障害みたいだな。」というコメントを見ることが増えたように思う。特定の人を「発達障害者」に仕立て上げることによって他者化し、自分を「私は、そういう問題を起こさない、普通のみんなの仲間」に仕立てる。「発達障害者」とされた人の状況について調べたわけでもなく、その人の意見を聞いたわけでもなく、「普通」の内実について検討したわけでもない。
「あんな事件を起こすなんてけしからん」ではなく、「障害かもしれないから、考えなきゃ」という、一見「寛容」なコメント。実は、いろいろなシカトがなされている。私はそう捉えている。
「学校でトラブルを起こす子供」について、ホットエントリーとなったものがある。該当記事が削除されているため、詳細は書けないが。
この記事に対するコメントに、「発達障害と思われるから、病院に連れていけ」的内容のものがたくさんあった。
コメントを見て、私は驚いた。
「いきなり発達障害を持ち出すのか? 『意思疎通を図ることがあまりにも困難』とでもいうのならまだわかるが。相互行為のあり方とか、状況とか、その場に特有の構造的な制約とか、いろいろな条件を吟味して、その吟味の段階で発達障害概念を使うほうがよさそうと判断した場合に適用、という方向ではないのか?」
「障害名を、子供の全人格というふうに捉えているのだろうか? 障害名は、ある場所・ある目的・ある都合によって作り出されたという面もあるのでは?」
「子供の場合、『発達の途上』という軸と『どんな場面で障害として考えられるのか』という軸の両方があるんじゃねーの? 前者を軽視している可能性もあるぞ。」
といった思いが出てきた。
そういえば、発達障害関連本や発達障害啓発マスコミ報道やweb記事でも、始めに「関係性をきちんと作れないのが、発達障害」という見解が出されることがよくあるな。関係性って、他者や場との関係によって変わってくるものでは? 問題を「発達障害とされた個人」にだけ還元していいのか? この思いもある。
「安易に(←ここ重要)発達障害概念を『誰かの全人格』と仕立てて、ディスコミュニケーションの原因とする」よりも前に、「どのような文脈で、誰の、どんな言動が影響しているのかを。その都度、コミュニケーションの場にいる個々人がじっくりと考える」という方向性。これを踏まえる必要があると思った。