図を書いて考えましょう
小堤中納言 on Twitter: "禁止されている学校多数 の悪寒 https://t.co/8ZMjaXSMpK"
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地元公立小5の時(1975年)、算数文章題を、図に書いて解いていた。ノートの図を担任が見て、「幼稚」と激怒。親も同調。当時愛読の学年雑誌に「図で考えよう」という記事があり、それを信じて助かった。
2019/12/10 01:50
禁止されている学校多数
— 小堤中納言 (@AS_Insects) 2019年12月4日
の悪寒 https://t.co/8ZMjaXSMpK
ずっと、「文章題で図を書かせないのは、当時の担任と私の親ぐらいだろう」と漠然と思っていた。ところが、ブクマ元にある一連のツイートを見て吃驚。「ひょっとしたら、私が過去に受けた仕打ち、受けた人は意外と多いのかもしれない」と思った。
私が大人になってから、「宅建」という資格試験を受けた。宅建試験科目の一つに「権利関係」というものがある。この科目で、「図を書いて考える」習慣がついていたことが役立った。資格学校に通っていたのだが、講師からも「図を書いたらわかりやすくなる」という助言があった。
当時、受講生のうちの一人が、講師のいないところで自慢げに語っていた。「いちいち図なんか書かなくても解ける。時間がもったいない。」と。それを聞いて私は驚いた。もっとも、その受講生は5年連続で不合格となったようだが。
今思うに、ひょっとしたらこの受講生も、似たような経験があったのかもしれない。
算数で、(計算問題ではなく)「文章題」を私が意識するようになったのは、確か小3あたりが最初だったと思う。「単純な計算問題よりも、少し面倒」という感覚があった。
小学生の頃、「〇年の科学」「〇年の学習」という学年別雑誌が学研から出ていた。私はそれらの雑誌が大好きだった。確か、「3年の学習」に出ていた記事だったと思う。「文章を読むだけではうまく解けなかった問題でも、図を書いてみたら考えやすくなることがあるんだよ」という内容の記事があった。楽しい記事で、強く印象に残っている。
「この記事がなかったら、私は簡単に理数系を捨てていたかもしれない。理数系を好きになれなかったかもしれない。」という思いを、20代の頃あたりからずっと私は持っている。
「図を書かないで解こうとする」ことと「図を書いて考える」こと、確かに違う。記事を初めて読んだ当時、子供心にも思った。
また、この記事は「図を書くということじたいも、楽しいよ」というトーンだった。後にいろいろな問題を解いていくときも、そのことを実感した。
担任や親が激怒した原因、実は、もう1つあると思う。それは、「大人から見て、見た目がよくない図、冴えない図」だったことだと思う。
過去に何度か書いているが、私は実技教科の成績が全部ビリだ。当然、絵も、冴えないものしかかけない。担任や親にしてみれば、たぶん見ていられないできばえだったのだろう。
激怒されたとき、怒られた原因として「図を書くこと自体が悪い」「図が下手くそすぎるから悪い」の2通りが私の頭に浮かんだ。幸か不幸か、私は絵が下手すぎた。下手すぎたがために、2番目の理由も頭に浮かんだ。
もしも私の絵が上手だったら、「図を書くこと」じたいが悪いと誤解したかもしれない。変な話だが。
担任と親からは激怒された。しかし、「大好きな雑誌に出ていた、大好きな記事」では、「図を書いて考えるのは、楽しいし大切なことだよ」となっていた。
「大好きな雑誌、大好きな記事」だったから、担任や親の反応よりもそちらを信じた。「見つかったら怒られる」ことが予想できたから、「問題を解き終わったら、すぐに図を消す」ことにした。
こうして、「図を書いて考える」ことは、「ほとんど意識しない習慣」のようなものになっていた。
大学に入ってから、家庭教師のバイトを何回かやったことがある。バイト先では、「図を書いて考える」ということを教わらなかったのでは? と思われる子供続出だった。
「図なんていちいち書くのは面倒」ではなく、「図を書く」「(文章だけでは)わかりにくいから、解きやすくするための手がかりを探す」ということすら頭の中にないのでは? という感じだった。
そして、「子供の頃に読んだあの記事がなかったら、私の人生は全く違うものになっていたんじゃなかろうか。理数系を嫌いになっていたのではなかろうか。あの記事に関係してくださった方々には大感謝だ。『たった1つの記事』が大きく明暗を分けているかもしれないとは、不思議なものだ。」と思った。
学生生活が終わった後、「他の大人が、子供に算数文章題の勉強を教えている光景」にも何度か出くわした。ネット上でもリアルでも。
「このように文章で書かれていたら、引き算を使うのだよ」といったような教え方をしているケースが、少なからずあった。しかも、「図を書く」ということもなされない状態で。
この指導法に、私は驚いた。「この方法だと、少しひねった問題とか他単元との総合問題になったら、行き詰る危険性があるぞ。」と思った。
そういえば、学生時代に、数学や物理や化学の試験勉強で、「どの公式を使うの?」「何か公式があるのですか?」という訊き方をされたことが何度かある。そして、その質問に戸惑ったものだった。
「どの公式を使えばよいのかわからない」というより、「条件に合うように式を立てるのが、難しい」という感覚が、私にはあった。図を書くことが、条件を整理することにつながっていたのかもしれない。
そして、
中学生の授業をしていて思うんですが、
— さらさら豚茶 (@sarasaraporktea) 2019年9月21日
「88×17は、90×20=1800よりは少し小さくなるだろう」
「16×25は、16×100=1600の1/4だから、400だ」
みたいな数量感覚って、どこで差がつくというか、身につけるものなのでしょうね?
こういう些細なところで、差がついているような感じがしてならないんですが…
も思い出した。ひょっとしたらこの「数量感覚」も、「図を書いて考えること」とつながっているのかもしれない。
親御さんをはじめとした、いろいろな方にお願いです。子供が問題を解く際に図を書いて考えていたら、それがどんなに冴えないものに見えたとしても貶さないでほしいです。
ひょっとしたら、「図を書くことが、センスを磨くことにつながる」のかもしれません。また、つながらないにしても、「図を書くことじたいが楽しい」という子供もいるのかもしれません。少なくとも私はそうでした。
大好きな雑誌に出ていた大好きな記事が、「楽しいことや好きなことを失わなかった幸運」につながった。このことを私は忘れない。