karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「発達障害はあの『ニュータイプ』かもしれない」 に隠された、甘い罠 まとめ

発達障害はあの「ニュータイプ」かもしれない~アスペから自閉症スペクトラムへ(田中 俊英) - 個人 - Yahoo!ニュース

いろいろな疑問を感じる記事。今回でまとめてみる。

 

元記事で、田中氏は次のことを主張しているというふうに「読者に思わせたいのでは?」

と私は解釈している。

精神障がい者や発達障がい者は、「本人が主体的にハンディキャップをもっている」というよりは「近代社会からハンディキャップを与えられている」。

自閉症スペクトラム障害」のような、暴力的カテゴライズは推奨していませんよ。むしろ、「ニュータイプ」として好意的に評価していますよ。

・「近代社会からハンディキャップを与えられている」のだから、「生きづらくない環境づくり」を、支援者が本人や家族とともに形成すればいいんですよ。

 

そして私は、これらの主張を、「田中氏が仕掛けた甘い罠」と認識している。

田中氏の本音は次のような見解であって、その本音を隠すための「甘い罠」と。

・「ハンディキャップを与えている近代社会」の持つ「問題」の責任を、精神障がい者や発達障がい者になすりつけることは、正当である。

・「近代社会の統率が妨げられ、生産性が低下する原因」は、精神障がい者や発達障がい者に内在する(つまり、原因は、彼(女)ら以外の中には存在しない)。

・精神障がい者や発達障がい者本人やその家族が障害名とカテゴライズを受け入れ、近代社会が持つ「障がい者支援制度などのサービスを受ける」ことによって、「障がい者本人と家族とサービス関係者だけの問題」にしてしまえば、「近代社会の持つ問題」や障がい者本人と、本人以外の人との関係性」について考えるなどといった面倒なことをやらないですむ。

 

  「問題の責任を精神障がい者や発達障害者本人になすりつけること」は、「問題を持つ近代社会の中で、彼(女)ら以外の人は彼(女)らとは違ってうまくやっている」というイメージをより強化することになる。

 しかし、その「問題を持つ近代社会」は、障害の有無を問わずすべての人にとって抑圧を強いている世界でもある。その点では、障害者も非障害者も地続きの存在である。つまり、非「精神障害者発達障害者」が、精神障害者発達障害者を自分たちとは異質なものとして遠ざけたい」と思う一方で、「彼(女)らとの同質性も実は自分たちの中に存在しうる」ということにもなる。

 そこで、非「精神障害者発達障害者」が次のような見解を持つことになっていくのでは?と私には思える。

「自分たちは苦しみながらも何とかやっているのに、どうしておまえらにはできないんだ?おまえらだけがどうして支援サービスを受けられるのだ?」

 

 「問題を持つ近代社会」についての具体的な中身の検討等がなされない、かつ、「精神障碍者発達障害者本人」と本人以外の人との関係性を考えるなどのこともなされない。

つまり、「双方で問題意識を共有する」という方向には向かわない。

こういう状態で、「本人が生きづらくない環境づくり」は可能なのか? 私は疑問に思う。

 

 元記事で気になることをもう一点。

「生きづらくない環境づくり」に値する人間とそうでない人間との選別が、暗黙のロジックとして元記事に組み込まれているということなのか? という疑問を私は持っている。

・「社会の統率や生産性の向上を妨げる、精神障がい者や発達障がい者」は、「カテゴライズして(田中氏にとっての)一定のルールの下に統率することで、社会そのものを維持していく」ための対象とする。その一方で、「アスペの場合は、活躍できる環境さえ設定できればものすごい才能を発揮するが、設定できなければ二次障害が現れる。だから、支援者は家族とともに、生きづらくない環境づくりを形成していく。」ということなのか?

・田中氏にとっては、「生きづらくない環境づくり」は、「商品価値のある人になら認めてあげてよい」と多数派が思える人に対して、恩恵的に与えられるものだということなのか?

 

 いわゆる「優生思想」につながるのでは? と私には思える。