karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「発達障害の理解や支援」に隠れているもの

 

 

支援を受けられぬまま死んでいったある発達障害者についての述懐 - decinormal

"なんてもったいないのだ。こんなに知的で繊細な人を皆が無視してきた"の記述も重要。「本人に『困難や問題』が備わっていて、教育や福祉の支援で改善」という発想ではなく、相互行為についても検討していく姿勢。

2017/04/07 15:43

 

 

発達障害系の記事が注目を集めるたびに 皆さんが救われてほしいと思ってい..

「キモい/無能な/発達障害」の認識をもたらすものは、障害をめぐる「非発達障害者の『期待や想定や志向性』」に基づいたやりとりによる面も大では?と私は疑う。そのやりとりで障害を「個人の心身の問題」還元は不当。

2017/04/10 01:22

 4/2~4/8は、発達障害啓発週間だった。啓発活動では、発達障害に対する「理解や支援」の必要性が主張される。しかし、私はこの「理解や支援」に関するアピールにしっくりこないものを感じていた。

「理解や支援」に隠れているものがある。私はそう考えている。

では、何が隠れているのか? それは次のものである。

1.発達障害者本人の主張を聞く(聞こうとする)側が持っている、「理解のスタイル」

2.「支援の必要性や中身を『認識/決定』するのは誰なのか、また、どのように決定するのか」ということ

 

これらの「隠れているもの」が検討されない状態で、次の見解が自明視されているのでは? そして、その自明視は発達障害者本人にとって「社会的不利益を受けること」にもつながりうるのでは? と私は疑っている。

1.「発達障害者本人=理解や支援のなされる側」、「周囲や社会=理解や支援をする側」という見解

2.「発達障害者本人に『困難や問題』が備わっている。だから、教育や福祉を用いた、本人に介入する支援によって改善や矯正をする必要がある。」という見解

3.発達障害者本人は問題の「対象」であって、その問題を抱えているのは「周囲の人々や社会」という見解

 

発達障害者の周囲の人々が、「あの人には発達障害が疑われる」と認識する場合、その認識はどのようにしてなされるのか? 

勿論、「周囲の多数の人が医学的診断基準を知っていて、その基準について緻密な検討を重ねて、発達障害者という認識に至る」というわけではない。

発達障害カテゴリーは「曖昧さを持つカテゴリー」である。人々はその場の状況や文脈に基づいて、人それぞれのやりかたで「発達障害カテゴリー」をイメージする。曖昧ゆえ、その場の状況と文脈に応じて、様々な行為を発達障害に関連付けることが可能となる。そして、関連付けて「本人との関係を作る」ことも可能となる。その際、「常識や慣習や文化」といった一定の枠組みが語られることもよくある。

つまり、「あの人は発達障害者」という認識は、「発達障害カテゴリーのもつ曖昧さをベースに、人々が他者の行為を発達障害とみなし、『その他者と関係を作る上で、適切である』」とみなした結果と考えられる。

 

周囲の人々や社会が「発達障害の理解や支援」を訴える際、<社会>と<発達障害>をめぐる、周囲の「期待や想定や志向」が大きな意味を持ってくる。

すなわち、周囲にとって、「発達障害者がどのように変わってほしいのか、発達障害者のどういうところを発達障害らしいとみなすのか、発達障害者に対してどのようにやりとりをしていくことが望ましいのか」などといったことが大きな意味を持ってくる。

では、周囲の「期待や想定や志向」は現状ではどういうものになっていることが多いのだろうか? 次のようなところでは……と私は疑っている。

発達障害者には社会性の遅れやいろいろな能力の欠如がある。それ故、非発達障害者と同様のやりとりをうまくできない。発達障害者自身にトラブルの原因がある。うまくできるようになるために、発達障害者本人が社会性の遅れや能力の欠如を克服すべきである」という視点からなされた研究や解釈が多数派をなしているのでは? 

更に、「医療や福祉という分野を介入させ、『問題や困難』を外部化(発達障害者本人と医療や福祉関係者や家族で解決していく)することが解決方法。」という発想が強まっているのでは? 

と私には思える。

その一方で、

遅れているとされる「発達」に含まれる意味は何であるのか? 

「能力の欠如」とみなされる際、その場がどのようなシステムになっているのか? そして我々が日常的に行っている対人的やりとりが何を生み出しているのか? 

ということに対して「再検討をしていこう」という方向の意見はほとんど出されない。

 

はじめにあげたブックマークコメント元記事中の、"なんてもったいないのだ。こんなに知的で繊細な人を皆が無視してきた"の記述は、「問題や困難の、外部化」から導かれたものではない。

「理解や支援に隠れているもの」「<社会>と<発達障害>をめぐる、期待や想定や志向」に対して、ブログ主が真摯に向き合って導かれたものだと思う。

次にあげたブックマークコメント中の、「キモい/無能な/発達障害」認識は、「その場の『状況の中』にある、また、そのようなものとして成し遂げられた『やりとりの中』」で作られたものかもしれない。

言い換えると、「キモい/無能な/発達障害」認識は、「本人に『困難や問題』が備わっていて、教育や福祉の支援で改善」という発想を元記事作成者が押し付けられて導かれたものかもしれない。

ある種の「<社会>と<発達障害>をめぐる、期待や想定や志向」を基準として対人関係を設定すること、それによって、「キモい/無能な/発達障害」認識が強調されることになる。ということもありうるのでは?

その基準を基に、「あるべきとされた対人関係」に沿った観察が、発達障害者本人以外の人から一方的に行われる。→それによって、発達障害者の「キモい/無能な/発達障害」認識が強調されることになる。 といったところもあるのでは?

と私は疑っている。

 

勿論、「<社会>と<発達障害>をめぐる、『期待や想定や志向』」は、発達障害者側も周囲に対して持っている。そのことを踏まえて、「その期待や想定や志向の中に、不適切なものはないか考えていくこと」や「自分たちが日常的に行っているやりとりが生み出しているものについて、いろいろと検討を続けていくこと」や「それによって、日々のやり取りをよりよいものにしていくこと」を発達障害者側も心がける必要がある。

発達障害に限らず、障害に関する「困難や問題」は、「場の状況やお互いの対人的やりとりを検討」することによって初めて、その複雑さに近づくことが可能となるのかもしれない。「障害者本人に『困難や問題』が備わっている。そして、教育や福祉の支援(という形の外注)で改善」という発想の下では、近づくことが困難なものとなりうるのかもしれない。

障害に関する啓発活動を考える際、「理解と支援」に隠れているものを意識する必要がある。私はそう考える。