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karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「共同体感覚」という謎ワード

 

ゲームに負けてかんしゃくを起こす子への対策 - Togetterまとめ

癇癪の裏に「癇癪を煽る人(特に大人)」がいる場合有。「お前に負けるバカはいない」などと煽っておきながら、指導と称して「腹が立つようではダメ」などと言う。他の児童も真似。煽る側の共同体感覚は不問にされる。

2015/05/19 00:36

 

 

はてなブックマーク - ゲームに負けてかんしゃくを起こす子への対策 - Togetterまとめ

癇癪を煽る人がその場にいないか?わざわざ癇癪を誘導する以外の言動は他にないか?「癇癪を煽る側に介入するより、癇癪を起こす子を発達障害児として問題化が楽」という安易な発想から「発達障害」援用なら、怖い。

2015/05/19 00:45

最初に断わっておくが、「かんしゃくを起こす本人以外が折れたらいい」と主張しているわけではない。

「かんしゃくという方法は、本人も周りの人も利さない。だから、他のもっと適切な行動 を本人と一緒に摸索する。」ことが必要。

 

このTogetterまとめ内では、「共同体感覚」というものに「よいもの」という価値判断が加えられていると考えられる。

では、「かんしゃくを起こす子は、共同体感覚が身についていない」と断言する側の「共同体感覚」とやらは、いったいどのようなものなのか? その内容は、ご立派なものなのだろうか?

「『共同体感覚が身についていない』とみなした、ご自分の感覚や常識は、果たして、『(よいものとされた)共同体感覚』を伴ったものなのか?」という観点を欠いた状態で、他人の共同体感覚について云々しているのでは? という疑念を私が持ったことが、今回の記事を書くきっかけとなった。

 

正直言って、このTogetterまとめからは、「ゲームに負けるということが、何故かんしゃくという行為に至ってしまうまで動揺するのか、本人が何に対して警戒をしているのか、それらを何とかして感じ取ろう。」という志向を私は感じない。

「『感情を激しく揺さぶるゲーム』と『かんしゃくを起こす子の、共同体感覚の乏しさ』が持つ問題性」で問題が処理されている。

「感情が激しく揺さぶられる」ことと「かんしゃくという行為に出てしまう」ことの間に、いったい何があるのか?

それらの間に、「あの子たちとは違って、立派な共同体感覚が身についている」と自認している人たちと「あの子たち」との(ゲームを離れた場も含む)様々なやりとりが影響を及ぼしているのでは? そのやりとりや影響について検討することを回避したうえで、問題の責任を「かんしゃくを起す子」に丸投げしているのでは? という疑念を私は持っている。

「かんしゃくを起こすのは、発達障害者である『あの子たち』の問題であり、あの子たちは、『立派な共同体感覚を身につけている我々とは違う世界の住人なのだ」的な感覚を、「(よいものとされた)共同体感覚」と称するのなら、私は異議を述べたい。

 

 ・かんしゃくを、本人と繋がりを持つその場との関係性において捉え、「どのような場であれば、やっていけるのか」を考える。その際、発達障害という観点からも考える。

・かんしゃくを起こす子に対して「発達障害の特性故に、共同体感覚の乏しい子」というカテゴリーをあてはめることによって、その子たちの個別具体的な事情が存在しうるという事実を無視する。そして、理解や支援と称して、そのカテゴリーを無批判的に受容するよう強要する。

この2つは、大きく異なることである。

 

Togetterまとめを読んで、私が最初に思ったこと

・わざわざ煽る人が周りにいるか否か、調べたのか? (私の経験から考えると、煽る人がいるケースも多し。しかも、大人が率先して煽ることも多し。大人が煽る場合は、「教育的指導」という大義名分も加わる。)

・煽る人(特に大人)がいた場合、本人がそれを他人(特に大人)に申告する可能性はあるのか? 「あの子がかんしゃくを起すのがおもしろいから、場を盛り上げようとして挑発しているのです。」などとわざわざ申告する人がいるとは、私には思えない。いるとすれば、「煽りに参加している他の誰かを、陥れたい」といった類の理由がある場合と思われる。

・煽る側は「煽り」だなんて言わない。「戯れ」とか「ただのからかい」とか主張する。「戯れやからかい」と主張する側は、相手の応酬や反撃を「場を暗くする行為」として、さらにからかいの対象としていく。

・煽る人の「共同体感覚」とやらは、不問に処されるのか?

 

ここで、私の場合について書く。

実をいうと私は、子供の頃から「集団レクリエーションやゲームの類を楽しめない」という思いを抱えている。

その一方で私の親は、「集団レクリエーションやゲームを楽しむことが、社会そのものである。それらを楽しめないということは、社会に繋がるための個人的資質を欠いているということである。」と認識していたようだ。

そのため、私は子供の頃、「ゲームを楽しむ練習」だと言われて、家族でトランプ等を楽しそうにする練習をさせられていた。何度やっても、楽しいと思えたことはなかった。負ける度に、「お前は本当にバカ」などと言われた続けた。それだけではない。私には姉がいるのだが、姉に向かって「わざと負けてあげなさい。お姉ちゃんなんだから。」と、私の前で言った。

家庭内だけではない。家族でデパートに行った時でも、ゲームコーナーのゲームをやらされた。下手くそとなじられ続けた。

ゲーム以外にも、実技教科でなじられた。実技教科で受けた仕打ちについては、「なぜ実技教科なんかあるの?」と訊けなかった - karotousen58のブログで書いた。

これらの経験を私は積み重ねた。私にとって、「実技教科でビリになる」ことは「実技教科でボロ負けを続ける」ことだった。「ゲームで負ける」ことは、「実技教科でボロ負けする」ことと相似形だった。

更に、「負ける」ということには、「外野が騒ぎ立てる」ことも伴っていた。「負ける」から動揺するのか?「負けると、外野が騒ぎ立てる」から、動揺するのか?

私は、後者だと思っている。「コンプレックス」という言葉は、「複合体」の意味を持つ。まさか、「負ける」と「負けたら騒がれる」の複合という意味で「コンプレックス」という言葉が使われているのではないんだろうな、などと思ってしまう。

騒ぐことに対して反撃を試みても、火に油を注ぐだけだった。「戯れやからかいごときで、ムキになる豆腐メンタル」として、さらにからかいの対象にされた。

「ゲームで負ける」と、条件反射的に「負けたときの騒ぎ」で私の頭がいっぱいになってしまうのだろう。

私が、「集団レクリエーションやゲームを楽しめない」理由は、そこにあると思っている。

私は、複数の友人と一緒のスキーやボウリングやカラオケは楽しめる。スキーやボウリングやカラオケは、子供の頃に強要されなかった。大人になってから、信用できる友人数名に誘われて始めた。「それらを楽しめない奴は、社会に繋がれないダメな奴」などと言わない友人たちだ。嫌いになる権利も認めた上で、誘ってくれた。

私はメンバーの中で一番下手だが、楽しんでいる。子供の頃にやらされなかった幸運に、感謝している。

 

煽る人(特に大人)がいる場合でも、発達障害者側がそれを告発することは、おそらく難しいだろう。

「非発達障害者がいちいち意識しなくても自然に学びとれることを、発達障害者は自力では学べない」とか「障害の特性で、自分の世界しか見えない人たち」とかいう解釈の枠組みを、最初に「本人以外の聞き手」が持っているのなら。仮に本人が語ったとしても、聞き手の側が前提としている解釈の枠組みを見直さないのならば、聞く耳を持ってもらえず、結果的に無効化されるだろう。

 

発達障害の特性故に、共同体感覚の乏しい子」というカテゴリーをあてはめることによって、その子たちの個別具体的な事情が存在しうるという事実を無視する。そして、理解や支援と称して、そのカテゴリーを無批判的に受容するよう強要する。そういう状態で、「言葉をかけてあげて、『場を共有』することを学ばせてあげよう」などという態度を取られた場合、本人は余計に落ち着かなくなるということもありうる。

理解や支援という大義名分が付いている場合、他の子供もその価値観を内面化しても何ら不思議はない。

私の経験から考えると、「あいつだけ助けてもらえるなんて、えこひいき」とか「助言がなければ勝てないバカ」とかいう罵倒が陰でなされて、火に油を注ぐことになりかねない。

「ゲームを楽しむことこそが、「社会」そのものであり、かんしゃくを起こすということは、本人が社会と繋がるための個人的資質を欠いているということだ。」とでも言わんばかりの前提を隠し持って、「理解や支援」と語っているようにも、私には思える。

「ゲームからいったん離脱」とか他の方法も検討していいのでは? とも思う。大人になった今では、「ゲームが楽しめないと務まらない職場なんて、そんなにたくさんあるのか?」という思いを私は持っている。

 

発達障害者と非発達障害者のかんしゃくは、異なる」という内容の、ブックマークコメントもある。

もしも、「発達障害者のかんしゃくは、共同体意識が乏しい故起こる。非発達障害者の場合は、共同体感覚を持っている」という解釈がなされていたとしたら、私はそれには疑問を持つ。

発達障害者と非発達障害者のかんしゃくが違う」ということについては、

・かんしゃくへの効果的な対策が、発達障害者と非発達障害者とでは違うこともある。

発達障害者の場合、「他害・自傷」などといった激しい形で表現されることがある。

という点については踏まえておく必要がある。

例えば、「かんしゃくという行為に出ても、本人も周りの誰も利することはない。事態を好転させる方法を考え、身につけていくほうが、本人も周りの人も利することになるかもしれない。」という方向を目指す場合、

・「動揺すると、よい考えがますます浮かびにくくなるだけだぞ。どうやったら落ち着くことができるのか、一緒に考えていこう。」と、穏やかな調子で淡々と言う。

・「負けて辛いという気持ちに共感していますよ」という表現をする。

私の場合は、前者の方が通りがよい。後者だと、「感情」という情報量が増えて混乱してしまう。一方で、前者だと事務的だと思う人もいるらしい。

また、「悔しいという気持との向き合い方」についても、考えたほうがいいと思う。私の場合、大学入学まで、「悔しいという感情が湧くようではダメ。感情が湧かないよう努力しろ。」と言われ続けた。「感情が湧かないようにする方法」なんか見つからない。「湧かないようにしようとするから、逆に感情に振り回されることになるんだ」とカウンセラーから助言を受けたのは、私が大人になってからである。

「悔しがるのは、向上心がある証拠。向上心を持つこと自体は何ら問題はない。悔しがった結果、不適切な言動を取ることが問題。」という見解を初めて知ったのは、大学入学後である。その見解を知ってからのほうが、暮らしやすい。

 

「他者の個別具体的な生き方を否定・排除するために、発達障害をカテゴライズ。そのカテゴリーは『共同体感覚の乏しい人』というマイナスの意味で満たされていて、発達障害者が生きている現実は無視される。この歪められたカテゴリーを無批判的に押し付ける。」ことを、「かんしゃくを起こす子への対策・支援・療育」と称しているのでは? それらを適用する側の「共同体感覚」とやらは、どういうものなのか?

再考の余地ありだと、私は思う。