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karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

映画『みんなの学校』に対する疑念

minna-movie.com

 

Twitterやレビューを見たところ、この映画についてのコメントは、大絶賛の嵐となっているようである。

この「ほとんどの人が、悪く言わない映画」に対して疑念を持つという、とんでもない記事を書いてみる。

といっても、この映画を私はまだ見ていない。しかし、近々私の生活圏で上映会がある。私はそのときに見るつもりである。

「みんなが笑顔」

「すべての子供に居場所がある」

「保護者や地域の人もいっしょになって、誰もが通い続けることが出来る学校」

という言葉がこの映画に出てくる。

実は私は、「騙され続けていたな。それらの言葉に。」と思って初めて、道が開けた人間である。

 

私は、義務教育を受けていた頃、この類の言葉をしょっちゅう親から浴びせられていた。おそらく、次の価値観を親は私に植え付けたかったのだと思う。

・何が正しい道であるかを、ありがたくも学校様先生様がお導き下さっている。

・経歴や境遇において、類似点が多く、狭い範囲の共同体の中で、自分が認められることによりすがって生きていけ。それが出来なきゃおしまいだぞ。

そして、「この類の言葉を受け入れられない自分は、人間的に欠陥がある奴」という思いを大学入学までずっと抱えていた。

大学入学後、「あんた、騙されたんだ。騙されると同時に搾取されたんだ。権力者や他者による支配や抑圧を受け入れるための道徳を押し付けられたんだ。」と言う友人に出会った。

その友人は、子供の頃に、親から次のことを言われたらしい。

・親は学校に子供を人質としてとられている。学校は子供のためにあるのではない。大人のため社会のためにある。

・日中、子供に街中をウロウロされるのは大人にとっては邪魔だ。邪魔にならないように、学校という場に閉じ込めるということが、一番の目的。

・学校でやる勉強やら集団生活やらも、「どんなことを身につけさせたいのか」「どのようにして身につけさせるか」を決めているのは大人であり社会だ。

・大人や社会のために、一生懸命学校に通っている。そのことについて感謝している。

・「いつもにこにこと楽しそうに暮らせる学校」なんて嘘っぱち。にこにこしているときもあれば、辛い悲しい苦しいときもあって当然。

友人の言葉に私は驚いた。そしてその後、「何て誠実な親御さんなんだ。悪役を潔く引き受けておられる。」と思った。

 

前にも書いたことがあるが、学校文化は中立的なものではない。学校文化的に不利な立場に置かれてしまう子供も存在する。

学校内で「多数に支持されている(或は、「支持しなければ自分の安全が脅かされる」と認識されている)価値観」や「権力者が支持していて、権力を持たない側が事実上逆らうことの困難な価値観」というものが、ある。

そして、それによって上下関係や序列が作られることもよくある。

それらの価値観と相性の悪い子供も、存在しうる。

つまり、「『学校文化に関して、不利な立場にある』という現実から出発して、どのように関係を作っていくか」を検討する必要に迫られる子供も、出てくる。

その「検討する」という行為が「みんなとかいっしょとかいった言葉を、否定すること」と解される危険性があるのでは? 

「不利な立場なんて言葉は、他のみんなは言わない。不利な立場などと認識する自分を恥じて精進して、みんなの価値観に同化することが正しい」という方向に誘導される危険性があるのでは?

と私には思える。

 

学校文化的に不利な状態に置かれた人が、生きやすさを模索する際に、次のことを考えるかもしれない。

「学校文化から自由なポジションにある人や場」も存在するかもしれないということを。

・とりあえず学校には顔を貸し、学校文化支持者の顔はたてておく。ただし、学校文化に搾取されないための工夫をしながら。

・学校文化から自由なポジションにある人や場についても、探してみる。

この両方の策を取ることを「現段階での最適解」とする方針もありうる。

しかし、「保護者や地域の人も一緒になって、学校文化的価値観支持」となってしまった場合どうなるか?

「学校文化から自由なポジションにある人や場」を見つけることが困難になってしまうのでは?

 

もう一点。映画に出てくる学校のルールとして、「自分がされていやなことは人にしない、言わない」という約束がある。この約束を破ると、「やり直す」ためにやりなおしの部屋(校長室)へ呼び出される。

ということになっているらしい。

このルールによって、学校文化的に不利な立場にある子供が、「やりなおしの部屋にしょっちゅう行かされる、ダメな奴」と認識されていくのでは? しかも、それは「教育的指導」の大義名分をまとっているから、子供による反駁は難しいのでは? という疑念がある。

 

「己の欲せざる所、人に施すことなかれ」とか「自分がやってほしいように、他人に対して振舞いなさい」といった類の言葉は、自分と他人の「快‐不快原則」がある程度共通する場合に成り立つ。

両者に大きなギャップがある場合、どうなるか? 「自分がされると嫌なことを、他に人にされた」と申し立てることが可能なのは誰なのか? その申し立て内容が正当であるか否かをジャッジしたりするのは誰なのか?

学校という場なら、「教師や親」などの権力者、或は所謂「声の大きい子供、学校文化的に有利な位置にいる子供」となることが予想できる(私の経験からは)。

本人にとっての「快‐不快原則」の正当性について、本人以外の人が検討しなおすなんてことはほとんどないだろう。正当性すら問われないまま、「やり直しの部屋にしょっちゅう行かされる、ダメな奴」という自己認識を強めていく。

更に、「校長先生が率先して、指導をなさっている。だから、自分たちが『行かされるあの子はダメな子。軽んじて当然。』」と捉える子供もでてくるのでは? と思う。

ただ、「軽んじる方法が下手くそだったら、今度は自分が校長室行きとなる。上手な方法を使って軽んじてやれ。」という方向に出ると思われるが。私の経験から考えるに。

 

まだ映画を見ていない現在、「発達障害(とくにアスペルガー症候群系)者殺しの、においがする映画」と私には思える。