karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「最近あった、修学旅行での溺死」について思うこと

 

小6女児、修学旅行先で溺死 ホテルで入浴中 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

"6月に自宅で入浴した際に意識がもうろうとし、9月に入ってからも気分が悪くなったことがあり"が気になる。2度目のとき、きちんとした診察を受けたのか?学校側はそれを把握か?他者に気付かれにくい意識消失もある

2016/10/02 02:51

現段階では、 この溺死について、地元マスコミでは詳しい報道はなされていない状態にある。6月から9月の、本人や周りの人の状況が私は気になっている。

私はてんかん患者。「一歩間違えたら似たようなことになっていたかもしれない、てんかん患者」の話を、私は何度か聞いたことがある。私もその中の一人である。(注 「小学生がてんかんを持っていた」と決めつけるわけではない。)

医療的なことについては、Ponta08さんのブログ記事 「小6女児、修学旅行先で溺死」についての見解 - ネットの情報に惑わされない病気の見方 と  「小6女児、修学旅行先で溺死」についての見解 - ネットの情報に惑わされない病気の見方 で、丁寧な説明がなされている。(注 「てんかん」についての説明記事ではない。)

 

溺死した小学生の体の状態に関する記述は、ネットニュース発表の時刻によって微妙にトーンが変わっている。これも気になる。

では、てんかん患者が「一歩間違えたら似たようなことになっていたかもしれない」と認識した理由は何なのか? それについてこれから書く。

本人、家族(特に親)、周りの人(特に学校関係者)に誰一人として悪い人がいるわけではない。むしろ、誰もが、「他者の心を傷つけないように、お互いが空気を読みあって接している」状態にあると思われる。

だが、この「傷つけない、空気を読みあう」状態が、「本人、家族(特に親)、周りの人(特に学校関係者)という集団内にとんでもない力学」を発生させてしまうことがある。

とんでもない力学とは何であるか? それは、「受診なんて大袈裟。貧血やのぼせなんて、成長期の子にはよくある話。」という認識に走らせてしまうことである。「次にあげる3つの事柄が重なって、この力学が発生」した話を、てんかん患者から私は聞いている。

・「てんかんという病名は、社会的に偏見が持たれている。この病気を持っている可能性を、認めたくない。」という思いを家族(特に親)や周りの人(特に学校関係者)が持っている

・「ただの貧血、ただののぼせ。成長期の子にはありがちなこと。過保護はだめ。」という類の発言が、影響力の強そうな人からなされる。複数人からなされることもある。

てんかん発作の場合、患者本人には発作当時のことがわかっていないことが多い。だから、意識もうろう状態等について本人がわかっていない。

 

てんかん等の疾患を否定したい」という思いを家族(特に親)が持っている場合、周りの人が「おたくのお子さん、ひょっとしたらてんかんが隠れているかもしれません」といった類の言葉をかけるとなると、やはり「言葉をかけられる側にショックを与えない物言い」等について考える必要が出てくる。

言葉をかける側も、「ショックを与える冷酷な人」になることはやはり避けたい。

発作(と思われるもの)の起きた本人に対しても、「てんかんを疑わせる情報」を正直に話しづらいということらしい。私が話を聞いたてんかん患者も、「発作のときの詳しい情報は、教えてもらえなかった。」「『受験とか、ストレスがたまっただけだよ。心配しないで。』としか言われなかった。」と答える人多数。

そして、こういう状態で、「成長期の子にはありがちなこと。大袈裟だ。」という発言が、影響力の大きい人や多数の人からなされたら、親や教師が動揺してしまうこともありうる。

こういう条件が重なって、

受診なんて大袈裟と、親や教師が思い込んでしまう→隠れていたてんかんが見逃されてしまう→その後、悪化してから発覚 

というルートを辿ってしまう。

 

てんかんの場合、最初に起こった発作だけでは「てんかん」という診断名は、通常の場合つかない。経過観察はなされるが。だから、2度目の発作らしきものが見られたら要注意。患者の感覚としては、これは「常識」である。

しかし、患者本人以外の人にとっては「最初の受診で診断名がつかなかったのだから」と解釈されてしまう、そういう危険性もあるのかな? とも思った。

また、てんかん発作は、「全身痙攣や意識消失」が起こるものだけではない。「ただのたちくらみ」とか「ただの頭痛」とか「疲れて、一瞬ボーっとしていただけ」と片づけられていたものが、実はてんかん発作だったということもある。これらが見逃されやすい(受診なんて大袈裟という認識につながる危険性あり)ことにも要注意。

 

「いくらなんでも、『受診なんて大袈裟』という認識に至るのは楽観的すぎるのでは?」と思う人がいるかもしれない。

しかし、実際にその事態となって、「てんかんという病名を否定」という認識に走った人は、ネット上でもリアルでもかなり存在する。

過去記事  てんかん患者と家族 - karotousen58のブログ でも書いたが、てんかんと間違えやすい病気に「心因性てんかん性発作」がある。「てんかんではなくて、単なる心因性てんかん性発作なんだ。心因性だから、本人の気の持ちようでなんとかなる。」と家族が決めつけてしまうケースに、何度か私は遭遇している。

心因性と決めつけるのは危険です。受診が必要です。小さい発作は特に見逃されやすいし。もしもてんかんだったら、悪化しないうちに見つかって治療するほうが予後がいいです。」と私が何度言っても、「否、心因性に決まっています。」という言葉が返ってきたということも何度かある。特に、小さい発作は否認されやすい。

私も、家族から「心因性てんかん性発作」と決めつけられ続けている。「てんかんは、知的障害者に見られる病気。(自称)進学校といわれている高校に通っていたんだから、てんかんなんてありえない。」と、今でも私は言われている。そのたび、「それはてんかんについての誤解」と私は説明しようとする。しかし、家族は取り合わない。

 

「同級生は誰も気が付かなかったのか?」というコメントも、ネット上ではあげられていた。

同級生を責めることはできない。「誰も気が付かない」ということはありうる。見逃されやすい発作は特に。

 

「この事故について、誰かを責める」という行動を、私は取ってほしくない。ただ、「隠れていた疾患が見逃されてしまう」事態を防ぐこと、これを考える必要がある。そう思ったからこの記事を書いた。

今週のお題「秋の味覚」

今週のお題「秋の味覚」

 

「秋の味覚」といえば、さつまいもが最初に浮かぶようになった。

さつまいもが母のおやつとして、重宝される季節がくる。どうやら、母が一番気に入っているおやつは「焼いも」のようだ。ふかし芋、天ぷら、大学いも、スイートポテト等いろいろな食べ方があるが、シンプルな「焼いも」が一番好きということだ。

 

さつまいもにも、色々な種類がある。大雑把に2つに分けると、「ほくほく系」と「ねっとり系」となる。

ほくほく系の例 紅あずま、鳴門金時、高系14号 パープルスイート

ねっとり系の例 紅はるか、安納芋

母はねっとり系が好みらしい。紅はるかが一番好きということだ。ただ、「安納芋が高価だから、私がなかなか買う気になれない」という事情もあるが。パープルスイートは、他の種類に比べると「甘さひかえめ」という感じだ。私は気に入っている。母にとっては物足りないようだが。

紅はるかは、表面に黒いしみのような部分があるものも多い。最初私は驚いたが、これがあっても問題はないということだ。紅はるかは甘いいもだが、後味はすっきりしている。

 

地域によっても、流通しているさつまいもの種類は違っているようだ。「紅あずま」といういもを、私の生活圏では見かけない。あずまという言葉がついていることから考えても、東日本で出回っているものなのかな? と思う。

私の住んでいるところでは、「かんしょ」という表示がなされているものが多い。検索したところ、「高系14号」という名のもののようだ。

九州にいた頃、「白い皮のさつまいも」が売られているのを見て驚いた。これは「コガネセンガン」といういもで、芋焼酎の原料として使われることが多い。天ぷらにしてもおいしいらしい。ただし、焼いもにはしないほうがいいともきいた。実際私は、何も知らない状態で買って焼いもにしたことがある。確かに期待外れだった。 

 

私が住んでいる地域の場合、店や時期によって、いもの種類が違っているようだ。

安納芋の多い店、鳴門金時の多い店、時期によって種類がいろいろと変わる店、高系14号と紅はるかの多い店、いろいろある。大きいいもをよく売っている店、小さいいもをたくさん袋に入れて売ることも多い店、いろいろある。

うちでは、オーブントースターで芋を焼く。だから、「小さいいもがたくさん」入った袋を見るとうれしくなる。オーブントースターは、高齢者にも使いやすい家電だ。だから、母もこれを使って料理ができる。

安納芋と鳴門金時は高級品に思える。なかなか手が出せない。高系14号と紅はるかをよく買う。安納芋は、たまに特売がある。そのときを狙うしかない。

紅あずま、ネット上では東日本の人から「おいしい」というコメントがつくのを何度か見ている。紅あずまと鳴門金時、これらも食べてみたい。

「『障害者×感動』の方程式」周辺にあるもの

 

NHK:「障害者を感動話に」方程式批判 - 毎日新聞

「自分の幸せが改めてわかる」という理由に吃驚。「『非障害者の自分』と対比→自分と異なるカテゴライズ→幸運/感謝を隠れ蓑に同情/優越感を持つ」自分を見つめた上でのその回答なら、関係性改善の模索に繋がるかも

2016/08/30 01:23

 

この記事で私が最も驚いたのは、次の箇所である。

 「障害者の感動的な番組をどう思うか?」と健常者と障害者100人ずつに聞いた調査では、「好き」は健常者が45人に対し、障害者は10人。健常者の好きの理由は「勇気がもらえる」「自分の幸せが改めて分かる」など、障害者は「取り上げてもらえるなら、感動話でも仕方ない」だった。

 

好きな理由を見て驚いた。「これはひどい」という意味ではない驚きも含まれている。

「勇気をもらえる」「自分の幸せが改めて分かる」「取り上げてもらえるなら、感動話でも仕方ない」というコメントは、回答した本人が自らの思考や感情と向き合うことから逃げなかった結果として、出てきたものかもしれない。

そう思ったからだ。

この調査に対しては、「『次のことをふまえた理由』を美しいタテマエとして答えればよい」という態度で逃げるケースが多いのでは? と私は想像している。

「障害者差別があるのは、学校教育からずっと分けられてきてお互いを知らない状態にあるから。無知が差別や偏見の育つ温床。差別や偏見は、知識や心や考え方の問題。それらを変えていくこと、お互いが理解し合うこと、時間や場を共有することが大切。」ということを踏まえた理由。

 

実を言うと私は、「自称支援者や自称理解者」や「義務教育時代から統合教育を受けていた。だから、障害者との接し方を自然に学びとった。差別の原因は無知。一緒にいることが大切。」と主張する人のほうが怖い。彼(女)らの中には、その美しいタテマエを主張して「彼(女)らにとって都合の悪い障害者」を黙らせる人が少なからず存在するからだ。

無知が差別や偏見の温床である。それは確かに正しい。しかし、知識を身につけた/同じ時と場を共有したとしても、それだけでは対策とはならないと私は思う。知識や時や場の共有とともに、「自分たちがいかに、差別や偏見の関連した日常を暮らしているか」を見つめなおす必要もあると思う。

 

ブックマーク元記事より

 

NHKのEテレの情報バラエティー番組「バリバラ」で28日夜、「検証!『障害者×感動』の方程式」と題した生放送があった。「清く正しい障害者」が頑張る姿を感動の対象にすることを「感動ポルノ」と表現し、「感動は差別だ」との障害者の声を伝えた。同時間帯は日本テレビ系で障害者の姿を伝えるチャリティー番組「24時間テレビ」が放送中だった。

 

 番組では、自身も障害者で「感動ポルノ」の言葉で問題提起した豪州のジャーナリスト兼コメディアン、故ステラ・ヤングさんの「障害は体や病気よりも、私たちを特別視してモノ扱いする社会の方」との発言を紹介した。

 

 頑張りの方向性は、パラリンピック等のイベントや障害者アート等の芸術だけではない。

「『彼(女)といると癒されます』と思われるような、けなげで可愛い障害者になるように、頑張れ」圧力という方向性が、最も一般的である。

つまり、「頑張って、顔色伺い力や可愛がられ力を身につけろ」ということである。そして、中心になってそれを推奨する人物は、実は、自称理解者や自称支援者である。

「義務教育時代から統合教育を受けていた。だから、障害者との接し方を自然に学びとった。差別の原因は無知。一緒にいることが大切。」と主張する人達(全員が全員というわけではないとは思うが)からも、私は何度も言われた。「統合教育では、健常者の顔色伺い力や健常者から可愛がられる力を身につけるべく、障害者だって努力する。」と。

障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログで、私は次のことを書いた。

・非障害者サイドでつくられた「期待される障害者像」「ありうべき共生像」の、いかがわしさ

・非障害者側が、「障害者が、協力的な周囲に助けられた。勿論、障害者本人も頑張った。周囲の人々も障害者に親しみを感じて、偏見をなくした。障害者と接することによって、健常者も優しさや思いやりの大切さに気付き、人間的に成長した。」という類の(予定調和的な)美談を、「ありうべき共生像」として流通させる。

・「期待される障害者像」「ありうべき共生像」が支配する空間で、障害者は、「克服のエピソードとあわせて苦労話を語ること」が期待される。それを語る際には、「周りの人々の協力」がセットになっている。

・「人々に共感してもらえることって、(障害者側も)うれしいことでしょ。必要な手助け等について話すこともできるのなら、あなたたち障害者への理解が進むことも期待できるわよ。そのためには、親しみを感じてもらえるようにふるまうことも大切よ。」的な誘導が、障害者に対してなされる。

・「期待される障害者像」に沿った言動を取る障害者は、納得され、場合によっては称賛される。しかし、「期待される障害者像」から外れた障害者は問題視され、非難の対象となる。「期待される障害者像」や「ありうべき共生像」に疑問を呈したり異議を述べたりした場合も同様。

・「障害が及ぼす影響」には、「本人や身近な人物の持っている、各種資本と地位」「(追い詰められた際の対処法としての)手練手簡も学び取れる実力」も大きく絡んでくる。個々人の経済的・社会的事情によって、態度が変わることもよくある。しかし、「期待される障害者像」「ありうべき共生像」では、それらは「存在しないもの」とされる。

(念のための注 「障害者の要求は全部受け入れろ」という意味ではない。社会で生きるためのルールを把握し守ることは、当然障害者側にも必要。)

 

つまり、「障害者×感動」の方程式は、例のチャリティー番組にのみ存在するわけではない。非障害者サイドでつくられた「期待される障害者像」「ありうべき共生像」にも、しっかりと存在する。これを私は主張したい。

「愛される障害者と接して、非障害者である自分自身も癒される/成長する」という感情を出発点として、障害者ー非障害者間の非対称的な構造を考える。「癒される/成長する」と感じる自分がその構造の中でどういうポジションにあるのかを内省して把握する。

このプロセスを無視した「癒される/成長する」という類の「感動」が、批判の必要なものであると思う。

自称理解者や自称支援者やそれらの崇拝者が支持する「障害者×感動」の方程式は、「苦労する障害者」と「それから免れて生きてきた自分たち」と対比のうえで消費されるものである。つまり、「非障害者として生まれたことへの感謝」という形を取って、控えめな優越感が示される。

「勇気をもらえる」「自分の幸せが改めて分かる」「取り上げてもらえるなら、感動話でも仕方ない」という思いの内実を検討していくことは、障害者の差別や権利を意識化して考えていくスタートともなりうるのかもしれない。

 

障害者殺傷事件関連で、「犠牲者を記憶にとどめるために、被害者の実名報道が必要」などという見解が出された。

障害者団体や支援者団体によって。

この「実名報道が必要」という主張の裏にも、「障害者×感動」の方程式がしっかりと隠れていると思う。

この主張と「障害者×感動」の方程式についても後で書きたいのだが、うまくまとまらない状態にある。

目的がわからない「全国学力テスト」

 

東京新聞:学力テストで一部生徒の答案除外 沖縄の中学「平均点下がる」:社会(TOKYO Web)

この中学校関係者を庇うわけではないが、実は、映画『みんなの学校』でも似たようなことがなされている。何故かこの映画は批判されない。「批判されるのならまだマシ」と、「平均点を下げてきた」私は思う

2016/08/24 14:18

 

文部科学省の発表によれば、全国学力テスト(全国学力・学習状況調査、全国共通学力調査)の目的は「児童生徒の学力の状況を把握」ということである。

統合教育(注 インクルーシブ教育という言葉を私は使いたくない。いわゆる「投げ込み統合」問題について真剣に考えられているとは思えないからだ。)崇拝者が絶賛する映画『みんなの学校』でも、このテストに関するシーンがあった。「文部科学省の発表とは違った目的で、このテストが使われているぞ」としか思えない描写だった。

去年の夏、映画『みんなの学校』を観た。 去年書いた記事 映画『みんなの学校』に対する疑念 - karotousen58のブログ で述べた疑念は晴れなかった。そして、最も違和感を持ったのは、このシーンである。

更に、(私の観測範囲では)そのシーンに対する批判はなされなかった。むしろ「その小学校は、全国学力テストの点数も高い」とアピールされていた。

ブクマ元記事を読んで思った。「あれれ、あの映画とやっていることは似たようなもんだろ。どうして沖縄の中学の場合は批判されるんだ? あの映画のほうは絶賛されているのに。この違いはいったいどこにあるのだろう? 」

 

映画では、学校が取った行動は次のようなものだった。

テストは多目的教室で行われた。テスト前に、「テストを受ける必要のない子供たち」が選ばれていた。その子供たちはテストのとき、別室に残された。

別室では、「君たちの力を見ます」とか校長が話して、日本地図パズルなどをやらせていた。

残された子供のうちの一人が、「多目的教室に行かんの?」と校長に質問した。すると、校長は答えた。

「みんなの受けているテストは難しい。君たちは他の人と競争しないで自分の成長を知るのです。」といった内容で。

そして、「その小学校は、全国学力テストの点数も高い」とアピールされる際には、このカラクリについては説明がない。

映画を観て、私は思った。

・そうなのか。やはり、文部科学省発表の目的はタテマエだったんだ。

・「1960年代になされていた全国学力テストが廃止された背景には、知的障害者等を受験させないといった類の問題があった。いまの全国学力テストはそれらも考慮されている」などと思い込んでいたら大間違いということなんだな。

・点数の順位を都道府県や各学校が争う、そのために過去問をやらせるなど学校が対策を講じているのは「常識」という話を聞いたことがあるが、嘘とも言い切れないな。

・テストを受けた子供に対しては、(この全国学力テストに限らず)「誤答の中身を吟味し、どうやればよいのか対策を考えていく」という方針を重視することはなさそうだな。「高得点だと成長の証となる(低得点だと成長していない)」と見ているようだな。

・(映画に対するたくさんの絶賛コメントを私が知った後)「その小学校では、全国学力テストの点数も高い」ということを主張する際、どうして「カラクリ」を説明しないのだろう? 文部科学省発表の「タテマエ」を信じている人なんているはずがないということか?

文部科学省発表の「タテマエ」を真に受けるような人は、「みんなの学校」でいう「みんな」にはカウントされないようだな。

 

沖縄の中学校とあの映画との違いは、

「指導していないから学力の改善はできない」「(答案用紙を混ぜると)平均点が下がる」と「みんなの受けているテストは難しい。君たちは他の人と競争しないで自分の成長を知るのです。」

ということか? 後者のほうは「配慮のなされた発言」ということか? 配慮がなされているというのなら、何故、カラクリを明かしたうえで「高得点です」と主張しないのか? 疑問に思う。

後者のほうがタチが悪いと、私は思う。「(本当は大人のためにやっていることなのだが)あなたのために、配慮してあげている」という嫌らしい恩着せがましさも加えられているから。もっとも、前者もほめられたものではないが。

 

「多目的教室に入れない子供」のポジションにいた私は思う。

文部科学省発表の目的は「タテマエ」であること、この全国学力テストでは子供は(大人たちにとっての)点取り競争ゲームの駒であること、高得点を挙げることが成長の証となる(低得点だとならない)と学校側は判断していること、この3点をはっきりと伝えてほしい。「子供だまし」を真に受け続けるのは、危ないことである。

そして、

・(この全国学力テストに限らず)テストの類を受ける際に大切なことは「高得点をあげること」だけではない。

・「誤答の中身を吟味し、どうやればよいのか対策を考えていく」ことも大切だ。

ということも、子供に伝えたほうがいいと思う(少なくとも、子供時分の私には伝えたほうがよかった内容だと思う)。

今週のお題「映画の夏」

今週のお題「映画の夏」

 

前回、子供向け教材映画『いきものシリーズ ひまわり』のことを書いて、くだらないことを思い出してしまった。

映画『ひまわり』といえば、やはり連想されるのはあの映画だろう。「ソフィア・ローレンが出るやつでしょ」とか「ヘンリー・マンシーニの曲が、悲しそうな雰囲気を醸し出すあの映画でしょ」とかいったコメントが返ってきそうなあの映画を。

20年ほど前、テレビでこの映画が放送された。放送前に職場で、同僚が、「この映画、録画する。」と言った。それを聞いた他の同僚が、「録画したもの、あとで貸して。」と言った。

 

ところが、放送予定の日、何か特別な出来事があったらしい。放送時間帯が予定とは少しズレてしまったようだ。

その結果、録画の最初の部分には、他の番組が入り込んでしまったとのことだ。

どんな番組が入ってしまったのか? 答えは「競馬関連番組」とのことだ。

「メロドラマのような内容、地平線にまで及ぶ一面のひまわり畑、列車が大きな意味を持つ展開、涙をさそう音楽、戦争反対のメッセージ」等の内容から、「競馬」は想像がつかなかった。その場にいた人全員が笑った。

こういうこともあるんだな。

小学生の頃、授業で観た教材映画

今週のお題「映画の夏」

 

このお題を見て、何故か、小学校で観た教材映画が最初に頭に浮かんでしまった。

そして、「こういうタイプの映画って、義務教育を受ける年齢を過ぎたら観る機会がないな。子供と大人とでは、当然、持っている知識の量もタイプも違う。そういう背景を踏まえてこの種の映画を観たら、違った面白さがありそうだ。」と思った。

そういえば、「子供向け科学の本も魅力的だ。だけど、教材映画にも違う魅力がある。映画だと、『発芽から花が咲くまで』といった長い時間をかけた変化も、わずかな時間で連続的な変化を表現できる。これって不思議で面白い。」などと、子供心にも思ったものだ。

検索すると、 科学映像館 というサイトが見つかった。時間を忘れて見入ってしまった。

このサイトでは、暮らし、芸術、祭り等の映画もとりあげられている。これらも面白そうだ。

 

私が小学校に入学したのは1971年。小学生時代に観た教材映画は、1960年代制作のものかもしれない。その年代制作のものから観た。町の様子、自動車、列車、人の服装なども、時代が感じられて面白い。

『いきものシリーズ ひまわり』の映像を観ていて、「効果音がミンミンゼミの鳴き声か。関東地方で制作か?」なんてことも考えてしまった。

『日本の合成ゴム』(1960年代の作品)では、国内合成ゴム使用比率のグラフも出てくる。合成ゴムの国内消費量は、1960年だと2割弱で1965年だと44%となっていた。1965年といえば、私が生まれた年。私が生まれた頃は、まだ天然ゴムの消費量のほうが多かったんだな。子供の頃、子供向け百科事典に「合成ゴム」の項目があった。当時の先端技術(だと思う)が、子供向けの本でも紹介されていたんだな。凄い。

こういう、主題と離れた部分も楽しむなんて、観るまでは想像がつかなかった。

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 5

今回は、「障害者権利条約や合理的配慮に関する解釈」へのウヤムヤ状態について書く。

 

合理的配慮とはどんなことなのか? おそらく、人によって思い浮かべる内容はバラバラな状態にあると思う。

 統合教育崇拝者が思い浮かべる「合理的配慮」像は、各種メディアや世間一般にも大きな影響を与えうる。この「合理的配慮」像が、宣伝文句的に都合よく使われているのでは? と私には思える。厳しい言い方をすると、「温情主義を合理的配慮と言いくるめている」「温情主義が、非障害者には『特別扱い』に見えているケース多し」状態なのでは? と私には思える。

それだけではない。ここでいう「障害」が「発達障害」である場合、話は更に複雑になる。発達障害業界関係者が思い浮かべる「合理的配慮」像も関係してくるからだ。

統合教育崇拝者が、「発達障害なんてレッテル貼り。単なる個性に過ぎないものを障害などと言って、図々しい要求をする人たち。」という見解を持っていることはよくある。というより、少なくとも私の観測範囲では、崇拝者のほとんどがそうである。そういう状態だから、「発達障害者が合理的配慮を要求なんて、けしからん」的主張がしばしば彼(女)らからなされる。発達障害業界関係者が持つ合理的配慮像は、当然、統合教育崇拝者の持つそれとは異なる。もっとも、発達障害業界関係者が思い浮かべる「合理的配慮」像も、違うタイプではあるが「温情主義を合理的配慮と言いくるめている」「温情主義が、非障害者には『特別扱い』に見えているケース多し」状態である。

 

(2017年6月25日追記)

(注1「インクルーシブ教育」ではなく、「統合教育」としたのには理由がある。「投げ込み統合」に相当する語句が、インクルーシブ教育を語る場で使われないからである。)

(注2 統合教育「崇拝者」と表現したのは、「彼(女)らが、過去にあった投げ込み統合について有耶無耶にしている」と私が認識しているからである。)

(注3 「それなら夏炉冬扇は分離教育賛成派なのか?」という疑問もあるかもしれない。賛否というより、「現状では、統合教育と呼ばれているものも実態は分離教育」と私は捉えている。)

 

合理的配慮に関する記述は、 資料3:合理的配慮について:文部科学省 にある。このサイトでは、障害者の権利に関する条約における「合理的配慮」と出ている。「障害者の権利に関する条約」(以下、「障害者権利条約」)は、「障害の社会モデル」という考え方を大きく取り入れている。

障害者権利条約や社会モデルについては、 用語の説明「障害者権利条約」 - ヒューライツ大阪(一般財団法人アジア・太平洋人権情報センター) の説明がわかりやすい。リンクの貼られている1~5、◎おわりに、コラム1~3も是非読んでほしい。障害者権利条約は、「障害のある人を、"保護の対象"から"権利の主体"へ転換することを宣言するもの」であり「社会モデルに基づくもの」という説明がなされている。

合理的配慮や社会モデルについては、 http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/kacho_hearing/d-17/pdf/s2-1.pdf という記事の説明がわかりやすい。この記事には、「配慮の平等」についても書かれている。「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」ではなく、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」という提言がなされている。駅の階段とエレベーターを例に挙げて。この提言は重要だと私は思う。

 

障害者権利条約や合理的配慮は、障害児に対して適用しようとする際には、やはり「学校教育」と結び付けられて語られることが多い。「学校教育と結びついた障害関連啓発イベント」の類が、統合教育崇拝者によってなされるケースは多い。しかし、障害者権利条約や合理的配慮について「統合教育崇拝者が持っているイメージ」は、実は次のような怪しさの隠れたものではないだろうか? と私は疑っている。

・「障害者が権利の主体であること」や「社会モデル」や「配慮の平等」には関心を持っていないのでは? 

・「自分たちの頭の中にある、ありうべき統合教育/共生像」やその像に合致する障害者の発言には関心を持つ。しかし、それ以外の障害者が現実に受けている処遇については、無関心。

・「自分たちの頭の中にある、ありうべき統合教育/共生像」に基づかないものは、合理的配慮としてはカウントしない。

・「特別支援学級(学校)という制度は、大きいコストを要求している。だから合理的ではない。統合教育で共に学び障害者との接し方を知るほうが、コストがかからなくなる。」という説を、根拠を示さずに垂れ流す。

 統合教育崇拝者が障害者関連イベントあたりで垂れ流す「共生教育」像は、各種メディアや世間一般に大きな影響を与えうる。そのことから考えるに、世間一般で「合理的配慮」という言葉が使われる場合も、前述の「怪しさ」が隠れているのでは? と私は疑っている。発達障害業界においても同様である。疑う理由については、 障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログ や、このシリーズ過去記事で記述。

 

日本の障害者運動で過去に取られていた戦略は、次のようなものである。

・障害をめぐる問題は、障害者の身近にいる市民社会の構成員にとっての問題→障害をめぐる問題とは、障害者の家族や障害者福祉や教育関係者にとって、必要な施策や制度や施設が粗末だという問題として認識。(つまり、障害者本人は、「問題化」や「それに関する検討」のプロセスからは排除されている。)

・障害者が少数派であることを前提とする。(「少数派に対するほうが、社会が支払うコストは小さい」という認識)

・障害者本人が求めているものが、本人以外の人に伝わるとは限らない。支援者側が、非障害者にとって共感や納得の可能とみなしたものだけを取り出す。そしてそれが、障害者本人の感情や思考や行動等を方向づけていく。

統合教育崇拝者も発達障害業界関係者も、この戦略をおそらく今でも取っている。そして、一般市民も、障害者運動や支援や教育に対して、この戦略のイメージを持っている。私はそう考える。

 

このような状態で、「障害者が権利の主体となっていて、社会モデルに基づき、配慮の平等も考慮された」合理的配慮を障害者側が求めたらどうなるか? 図々しい要求とみなされる危険性があると私は思う。

現状では、統合教育崇拝者にせよ発達障害業界関係者にせよ、「合理的配慮」を次のイメージで捉えているのでは? そして、そのイメージは、他の人にも共有されているのでは? と私は疑っている。

「健常者の基準が正常、障害者はそれに合わせる努力が義務付けられる。非障害者はそのための支援や配慮をすべきである。そして、支援や配慮をすることが、障害者の成長のみならず非障害者の成長にもプラスになる。これが合理的配慮である。」というイメージで。

「何か、宗主国と植民地の関係みたいだな」と私は思う。「支援や配慮」といっても、あくまで「健常者中心文化内」でのものである。

 

「障害者が権利の主体となっていて、社会モデルに基づき、配慮の平等も考慮された」合理的配慮とはどんなものか? 

 

障害者の視点や経験を通して、「あたりまえのこととして、意識化さえされてこなかった」主流社会の構成原理やあり方、すなわち「健常者中心文化の、ありよう」を意識化する。

それによって、「健常者を中心とした社会のありかた」や「自分自身のあり方」を再考する。

問題点がいろいろとわかってくる。

問題点を、具体的にどう変えていくか考えていく。 という態度

障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログ

に基づいたものである。私はそう考える。

 

「日本の障害者運動で過去に取られていた(そして、おそらく今でも取られている)戦略」について、「権利の主体、社会モデル、配慮の平等という観点から再考がなされたか?」ということについて、ウヤムヤな状態にある。そして、その状態で、「障害者権利条約」「合理的配慮」という言葉が一人歩きしている。

この状態だと、「あなたたち障害者のために私たちは合理的配慮をしました。でも、ダメでした。だから問題はあなた個人の側にあります。」という形で片づけるための口実として機能する危険性もあるのでは? と私は考える。

 

(このシリーズひとまず完結)