karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「書いて覚えましょうメソッド」との相性

紙とペンの使い方

私のブックマークコメント

私の周囲には、「書いて覚えましょうメソッド最強」信仰の人多し。私の場合、「ノートとり」と「見る・聞く」の同時進行がうまくできない。後者重視のほうが内容が頭に入るのだが、怠け者の言い訳と解釈されてしまう

 

元記事を読んで、私の頭に浮かんだこと

・私の場合、授業中に板書事項をノートに写しても、理解や記憶の助けにはつながりにくい。私のブックマークコメントの状態である。

・かといって、「書くことなんて無駄」と主張したいわけではない。断片的な事柄を知った後、それらの事柄がどのようにつながっているのか、書くという方法を使って考えていく。その後、自分なりにまとめる。という方法がやりやすい。断片的な事柄を知らない状態で「書いて覚える」ということは、私にとってやりにくい。

「そんな面倒なことをしなくても、先生様が丁寧に板書事項としてまとめておられるのだからそれを覚えるほうがずっと効率がよい。」という主張もよく聞くが、私には実感がわかない。

・「見る・聞く重視」と「ノートをとること重視」のどちらの方法が、自分にとって相性が良いのか? (或は、両方を同時に満たすことを、自分なりに身につけているのか?) 悩んだり実際に試したりしたことのある人は多いのだろうか? それとも、迷うことはなかった人のほうが多数派だろうか?

・私のブックマークコメント中の、「書いて覚えましょうメソッド」は、しばしば、「ノートの乱れは心の乱れ」という見解とセットで用いられる(特に、大人によって)。

・「書いて覚えましょうメソッド」って、実は、「勉強しましたという、雰囲気作り」と「机に向かうことによって、外で無駄なことをさせることを防ぐ」という目的も隠れているんじゃね―の? という疑念を、私は持っている。

・確かに、漢字を覚えようとする場合は、実際に書かないと、漢字全体のバランスを意識しないことになる。その結果覚えられないということはありうる。しかし、(携帯電話が出回る前の話ではあるが)よく電話をかける相手の電話番号って、いちいち書いて覚えたんだろうか? 疑問がある。

 ・「特定の時間内に、反復できる回数」は、どうしても、「書く」場合よりも「見る・聞く・声に出す」という場合のほうが多くなる。「断片的な事柄について知る」段階では、反復回数も意味を持ってくるのでは?

また、「どれか一つの方法だけをとる」以外に、「複数の方法を併用」も有効なのでは?

 

20年程前、小中学生の子を持つ女性10名くらいと一緒に、私はアルバイトをしていた。

当時、アルバイト先での昼食時や休憩時間の会話の話題は、「自分の子供と学校生活との関係」がほとんどであった。

勉強関係の話題になると、「勉強は書いて覚えるもの。授業の板書事項を書かないと、頭に入らないし覚えられない。」という声が、彼女らからよく出ていた。

それに対して、次の内容の言葉をかけたことが何度かある。

「それは人にもよります。『書くことに気を取られたら、黒板を見て話を聞いてということに集中できなくて内容が頭に入らない。見て聞いてに神経を使ったら、汚いノートしか取れない。しかし、そのほうが内容が頭に入る。』というタイプの人もいます。教科書・副教材・参考書に書かれている事柄だったら、ノートとりに神経をあまり使わないという方針が合う子供もいます。実際私がそうです。」

この言葉をかけた後、返事の内容は皆同じだった。「いや、書かなきゃ覚えられない。」だった。

 

「勉強は書いて覚えるもの。授業の板書事項を書かないと、頭に入らないし覚えられない。」という声は、私が高校を卒業するまでの間も、身近な大人や学校の児童生徒からしょっちゅう聞いていた。

 私も、中1の秋まではその言葉を信じていた。しかし、予想外の出来事があったのだ。

中1の秋、クラス内では全員が文化祭の準備をしていた。そして私は、文化祭に使うフェルトを買いに行くことになった。学校と店との往復で、私はバスを使った。

帰りのバスの後部座席で、たぶん男子高校生と思われる人2人が話をしていた。

「数学の授業って、ノートをとったら負けだ。テストって、教科書や話の内容を覚える問題は出ないだろ。見て聞いてに集中したほうが、内容が頭に入って問題が解ける。」と、そのうちの1人が話していた。

それを聞いた私は、試してみようと思った。1977年のことである。当時の中学では、「英語と数学は頻繁に宿題が出るもの」というのが相場となっていた。

実際に試したその日、数学の宿題をした。これまでと感触がまるっきり違っていた。

「これまでよりも、授業内容が頭の中に再現されやすいぞ。」

「よし、この方法で行こう。ノートをとるのは、詳しい解説の出ていない問題中心にしよう。」

と決めた。

この経験談を話しても、アルバイト先の人には信じてもらえなかった。「書かなきゃ、聞かないし黒板も見ない」と返ってくるだけだった。

 

「なるべくノートをとらない方針」は、数学以外の科目では使わなかった。「板書事項が、教科書には書かれていない事柄なのか予習したけど暗記していない事柄なのか」授業中に判別する余裕がなかったからだ。

大人になってからは、「他の科目でもなるべくノートをとらない方針」をとったほうがよかったと思える。見る聞くに集中して、集中力と記憶力を鍛えたほうがよかったのでは……と思える。

 

大学時代に、「ノートの罫から多少はみ出してもいいから、できるだけ視点を黒板に向けたままで、ノートをとる」方法と、「ノートと黒板を交互に見て、ノートをとる」方法を、実際に試してみた。

やはり、前者のほうが頭に入りやすかった。 

 

1998年頃、地元の新聞に、地元国立大学の先生による文章が載った。

「学生は板書事項を全部ノートに写す。要点だけをノートに書くということをしない。不思議だ。」という内容の文章が。

これを読んで、私は驚いた。が、すぐに次のことが頭に浮かんだ。

「そうか、大学の先生って、高校までを中高一貫校とか国立大学付属校とかで過ごした人が多いんだろうな。地元公立校では、『ノート提出をさせて、点数化』ということがなされている。見た目が汚いノートとか記入量が少なすぎるノートだったら、低い点数(下手すりゃ減点)が付けられる危険性がある。だから、字を書くスピードが遅いとか字が下手とかいう子は、一番無難な策として、板書事項をノートに写す方法を取らざるを得なくなる。こういう事情をご存じないのだな。」

(ただし、「ノート提出をさせて、点数化」は、私が義務教育を受けていた頃は、なされていなかった。時々ノート提出をさせられて、ノートの乱れは心の乱れといった類のことをしょっちゅう言われてはいたが。)

 ひょっとしたら、「書いて覚えましょうメソッドと相性が悪い」かつ「書いて覚えましょうメソッドでなければ、うまくいくはずがないと、思い込んでいる」人も、意外といるのかもしれない。

特に、子供がその状態であった場合、「ノートの乱れは心の乱れ」と決めつけないほうがいいと思う。