karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

池田中学自殺事件・「力による支配を安易に容認」空気・閉鎖環境 4

   

職員会議で担任の叱責問題視せず 福井県池田町の中2男子自殺 - 共同通信 47NEWS

"ほとんどの教員が問題視していなかった。担任は調査に「生徒に期待していて、叱責に応え得るとみていた」「叱責した後、頻繁に家庭訪問して指導の思いを伝えていた」と説明"「教育的指導」という口実を他教員も共有

2017/10/19 15:48

  

中2が自殺、「教師の指導や叱責でストレス」 福井:朝日新聞デジタル

"福井大大学院教授は「叱責を繰り返したことは指導の範囲を超えていた」と述べた"教師のパワハラというより「生徒を強くするための刺激や叱咤激励。正当な指導」と確信→教師が反省せず過激化 かも。「確信」の正体は

2017/10/19 16:16

  

福井・中2自殺で再発防止策「地域全体が協力し合う」:朝日新聞デジタル

寧ろ、「生徒を強くする為の方法として必要なのが厳しい叱責。ストレスに感じるようじゃ生徒の将来はない。」という思いを、担任や副担任以外の大人も共有していたのでは?と私は疑っている。パワハラの告発が困難に

2017/10/21 00:04

  

中学校生徒自死に係る報告書概要について | 福井県池田町

"「小さな町だからこそ」「小さな学校だからこそ」が生かされる子育て・教育環境の再生、向上化に向け"怖い。

2017/10/19 23:55

 今回は、「感情理解や他者への配慮も、確かに大切なこと。しかし、『それだけでは解決困難』という場合もよくある。」ということについて書く。過去記事 いじめと裏社会性 3 - karotousen58のブログでも少しふれている。

 

 

トラブルにあったとき、どう対処するか?

「トラブルの全体像を把握し、自分にとっての安全策を練る。自分に落ち度がなかったか否かを考えるのはその後。」という対処法が考えられる。

しかし、自分自身を必要以上に厳しく見つめることに慣らされた人の場合は、この対処法を取るのが困難となってしまう。

トラブルの全体像を探る余裕も、善後策を練る余裕もない。ましてや、自分自身の身を守る策を練る(よい意味での)ずるさもない。自分自身の落度(と本人がみなしたもの)に脅えきって、頭の中が真っ白になってしまうだけである。

いじめと裏社会性 3 - karotousen58のブログ

  

トラブルにあったときの対処スキルを磨くには、何が必要か?

それが、いじめと裏社会性 1 - karotousen58のブログで述べた「裏社会性」である。

いじめと裏社会性 1 - karotousen58のブログであげたいじめ・不登校総合対策センター/とりネット/鳥取県公式サイトでは、対人交流について美しく語られている。 そのサイトに限らず、対人交流では、「心が開かれた」とか「他の人と仲良くなれた」とかいう表現がしばしばよいものとして語られる。

しかし、私は考える。対人交流はそのような美しいものだけで成り立っているものではないと。

・自分を見せなくすること ・他人と距離(物理的・心理的両方の意味)を置くこと ・他人を疑うこと ・他人を選り好みすること ・他人に怒りを感じること ・他人を嫌うこと ・ウラとオモテを使い分けて人と接すること ・上手に嘘をつくこと などの、ブラックな面も対人交流には最低限必要であると。

このブラックな面は、「窮地に追い込まれたときに、自分の身を守る」上で必要だと、私は考える。 これらの事柄を私は、「裏社会性」とよんでいる。

裏社会性は、

・必要最小限なら、認められる。心の中で思うだけなら悪とは言えない。

・心の中で思うにとどまらないで、自分も他の人も傷つける行動に出るのならまずい。

という条件のもとで、対人交流に必要になると思う。

いじめと裏社会性 3 - karotousen58のブログ

つまり、「感情理解や他者への配慮について考えるだけでは、窮地に追い込まれたときの対処スキルを身につけることは困難。本人は、『対人交流のブラックな面』についていろいろと向き合っていく必要に迫られている。」ということである。

  •  逃げることが極めて困難、或は、一応可能だが逃げた場合には多大な不利益を被る危険性が大きい場で
  • 地位や権力が非対称な関係の、圧倒的下位にあって
  • 徹底的な自己否定を反復継続することを強要される

 という状態に、この生徒はおかれていたと考えられる。この環境は、無実でも自白してしまう、冤罪が生まれるメカニズム」の存在する環境と似ている。「当該生徒は傷つきやすい子」という認識には、「誘導によってなされた虚偽自白」的な面も隠れているのでは? 私はそう思っている。

「無実でも自白してしまう、冤罪が生まれるメカニズム」について書かれた本に、『心はなぜ不自由なのか』(浜田寿美男 著 PHP新書)がある。私はこの本について、次のように解釈している。

取り調べの場では、事件とは直接関係のないこと(例えば、過去の出来事や身近な人との関係のことなど)まで話題にされ、責任を追及されたり罪悪感を刺激されたりする。そしてこれが何度も繰り返される。また、時間的な展望が持てない」という要因も大きい。「いついつまでがんばったら、解決する」とわかっている場合とそうでない場合では、影響力が大きく異なる。

そして、自白に落ちてしまってからは、「虚偽自白に基づいた犯行ストーリーをどんどん語っていく」という事態になってしまう。「実際には犯行をやっていないにもかかわらず、自発的に(←ここ重要)犯行ストーリーに自分自身を合わせてしまうようになってしまう」事態が生まれる。「話せば話すほど、自分がどんどん犯人らしくなっていくように思えた。」という言葉は、虚偽自白をした人からよく語られる。

→冤罪や虚偽自白とまではいかなくても、地位や権力が圧倒的に上位にある人から執拗に、「人格否定や、言動についてを否定される」ことがなされた場合も似たようなことが起こりうる。「そうさ、自分は傷つきやすい無力な子さ。」と自己規定をしてしまう。そして、その後何か諍いが起こった場合にまで、「自分が傷つきやすく無力だ」という自己規定を強化してしまう。この生徒の場合、「地位や権力が圧倒的に上位にある人」として「親や地域の大人」が、「性格的に傷つきやすい子」というまなざしをむけている状態にもあったのでは? そして、他の子供にもそれが伝わっていたのでは?

それだけではない。人間は、他者からの語りかけや交わりからは自由にはなれない。

冤罪事件で無実の人が追及を受けるときも、被疑者は取調官を敵だと思って突き放してみることができれば自白に落とされないのだがそれができない。相手が悪意で自分を陥れようとしているのではないとして、まじめに向き合えば向き合うほど、相手の語りかけからは自由になれない。これは当該生徒にも当てはまると思う。

 

この状態で、「傷つきやすい子に対する配慮」や「あたたかな人間関係」型の問題解決を試みても、無理がある。否、対処スキル取得の妨げになる危険性が大だと私は考える。「あなたが心を開かないからいけないのよ」などと、的外れな叱咤激励を呼ぶ危険性があると、私は考える。

「傷つきやすい子に対する配慮」や「あたたかな人間関係」型のみの問題解決には、他にも危険な面が2点あると思う。

・「学校でおりなされる多様な社会関係、学校の制度的特徴等の周辺的なことも考えていく」という方向をふさいで、「傷つきやすい子」への対処と称して「問題を、生徒個人の内面に閉じ込めること」に繋がる危険性あり。

・「傷つきやすい子」という解釈は、実は、「傷つきやすい無力な子」というスティグマ的認識なのでは?その認識について、親や身近な大人はどのように向き合ってきたのか?(「何故、どんな点で、傷つきやすいと思ったのか?」「傷つきやすいと思った中身は、本当にそうなのだろうか?」「傷つきやすいと思った、自分の思考や感覚や常識は、本当に正当なものなのか?」等) 向き合うことを避ける口実にもつながる危険性あり。

 

この事件で気になることがもう1点ある。それは「生徒会副会長」というポストである。

生徒会役員や正副室長というポスト、実は「いじめ」が隠れているケースがある。それだけではない。「いじめだと訴えても、大人が、『いじめではない。優秀な子が選ばれるんでしょ。』と言って取り合わない」ケースもザラ。

「特定生徒を生徒会役員や正副室長に押し付け、集団内で他のメンバーが学級崩壊状態のような振る舞いを続ける」といういじめである。

私は過去に、このタイプのいじめを受け続けた。親に言っても、「いじめではない。役員をサボりたいと思ってるんでしょ。」と取り合ってくれなかった。「このタイプのいじめを受けたのは、私だけらしい」と、30代半ばまで思っていた。不登校の子を持つ親による手記に出ていて、「私だけではなかったんだ」と思ったのが最初だった。ネットを使うようになって初めて、「実はよくあるいじめで、しかも大人にとりあってもらえないことが多い。」とわかった。

この事件に関して、「生徒会副会長をやるような優秀な子」とか「生徒会副会長の仕事をこなせないなんて、副会長になれるほどお勉強はできるんだけど、それ以外の大切なことを学び損なった子」とかいうコメントもみられた。

「やっぱり、役員押し付けいじめが可視化されないこともザラにありそうだな。」と私は思った。

「可視化されないこと」の裏には、「感情理解、他者への配慮」メソッド偏重が隠れているのでは?と思えて仕方がない。

 

いじめ関連報道がマスコミでなされるとき、しばしば、「傍観者も悪い」コメントが出される。今回のことでは、「傍観者」についてはほとんど語られない。

では、今回の事では、「加害者=担任と副担任、被害者=当該生徒とその家族」と言い切れるのか? 私は言いきれないと思っている。

担任と副担任の行為に歯止めをかけられなかった「空気」、これについて考えることも重要。そう考えたから、このシリーズ記事を書いた。

当該生徒を、「自分たちとは異なるマイノリティ」として「傷つきやすい子認識」を持つ。学校で織りなされる多様な社会関係や学校の制度的特徴等の周辺的なことについてはスルーした上で。「自分たちは、担任や副担任とそこそこうまくやっているマジョリティ」として連帯感を持つ。

当然、「社会関係や制度的特徴など、システム関連について批判的な検討を試みる」とか「自らの『傷つきやすい子』観を振り返って捉えなおしてみる」といった契機発生なんて、期待できない。

当該生徒本人にしてみれば、「宿題や生徒会活動の問題に対して、具体的な解決や改善が得られない無力感」プラス「本人の資質をスティグマ的に決めつけられる」プラス「スティグマ的まなざしを、多数の人から向けられる」辛さがとてつもなく大きなものになる。

実は、この「連帯感」、今回のこととは直接接点のない「一般社会」にも広く支持されている。私はそう考える。再発防止を呼び掛ける場合、この「周りの人たちの(スティグマ的)まなざし」がなかったかどうかも、考える必要があると思う。

 

(このシリーズひとまず完結)