非難されそうなことをあえて書く。
タイトルを見て、「ああ、2018年4月16日放送『あさイチ 発達障害のグレーゾーン』に出てきた中山秀征のことだね。酷いタレントだよ。」と思った人も多いだろう。Twitterでの反応から考えるに。
しかし、私の見解は異なる。
- この番組での中山秀征に関するTwitterでの反応、これって実は、発達障害者を押さえつけて排除していく力の源となっているもののうちのひとつかもしれない。
- この番組での中山秀征に関するTwitterでの反応、「非発達障害者に歓迎される発達障害者像に、うまく同化できない発達障害者」に対する反応と、相似形じゃねーの?
- 違和感や排除の意識が中山秀征に対して湧いたのは、私達の側に問題があるのではなく中山秀征個人に問題があるから。彼は、私達のような「発達障害の理解者」とは違う。私たちは「理解者」だから、自らの常識を疑う必要なんかない。
- そうした違和感や排除意識を解消したければ、彼自身が「発達障害専門家や啓発活動に接して勉強/矯正」しなければならない。矯正して「問題のある酷いタレント」から「発達障害のことを(自称)理解している私達と、同じ世界の住人」になればいい。
という発想のもとで「あさイチ 発達障害特集」に期待をかけてんじゃねーの? と私は思った。
あさイチ 発達障害グレーゾーンの特集に出演した中山秀征さんが炎上 #発達障害 #あさイチ - NAVER まとめ
- [発達障害]
- [考]
中山氏の無理解というより問題提起と思う。発達障害を相互行為の中で捉えず、「彼(女)らの中の障害が原因、我々の『常識』を再考なんて不要」空気は無か?「社会性を育みながら能力開発」ではなく「同化を目標」?
2018/04/22 02:00
はてなブックマーク - あさイチ 発達障害グレーゾーンの特集に出演した中山秀征さんが炎上 #発達障害 #あさイチ - NAVER まとめ
- [発達障害]
「彼(女)らは私達とは別世界の、『偏りの激しい』子。専門家介入で様々な『歪み』をなくし、私達の世界を脅かさないよう、私たちの世界の枠組みの中に『収めて』あげなきゃ。」啓発。これを中山氏にも適用
2018/04/22 02:16
正直なところ私は、「発達障害啓発活動」やそこで語られる「理解」「支援」なる言葉に胡散臭さを感じている。
次のようなことを、安易に自明視してるんじゃねーの? と疑っている。
- 発達障害への理解が高まれば、発達障害者を取り巻く状況は改善される。異なるものへの違和感は、無知が原因で生ずるもの。だから、知る/理解することによって乗り越えられる。だから、専門家主導の発達障害啓発活動は「よい活動」に決まっている。
- 発達障害への「専門家介入」は、大きな効果を持っている。(その「効果」に関する実証がなされているかどうかは別として。)
- 「発達障害専門家は、発達障害者本人や家族の味方」ということになっている。専門家の見解なら、よいものであり正しいものである。
- 発達障害者の家族(特に親)は、本人の味方である。
- 本人が抱える「苦悩」「遅れ」は、本人の生物学的要因からもたらされている。「遅れている(とされる)『発達』に含まれる意味や、私達の日常的な言動や思考や感情等への問い直しなんか不要。多様性は大切だ。だが、何が多様性にあたるのかは。『専門家を中心とした私達』が決定する。
- 「非発達障害者」が変わらなくても、学校教育を受けている年齢の段階で「専門家の提唱する支援」を受けていたら、学卒後に本人は、適応できる人になれる。
これらの自明視に対して、私は次のような違和感を抱き続けていた。いまでもそうである。
- 「障害」に対する「理解」は、個人個人の持つ発達観や価値観によって大きく左右されるものでは? 「自分の持つ発達観や価値観が、啓発活動内容でのそれと一致する」と確信なさっているのだろうか?
- 「理解像」が不明。どんなことがわかったら、理解したことになるんだ?
- 「専門家介入」による効果、本当に実証されているのか? されているのなら、「成人発達障害者」にも何らかの影響がありそうだが?
- 「発達障害というカテゴリーを、本人以外が支配している」のでは? そして、そのカテゴリーにくっつけられた「価値や意味」などと、あてはめられた本人が生活する現実との関係性はどうなっているのだろう?
中山秀征を非難するコメントを読んで、それらの違和感に加えて、次にあげることが頭に浮かんだ。
- 「発達障害について知られていないから、発達障害者が排除/疎外される。」のではない。「一方的につくりあげられた、発達障害イメージ」と結びついた「日常生活のリアリティー」を、「発達障害者を(自称)支援してあげる私達」が持っているからこそ、排除/疎外がなされる。「一方的につくりあげられたイメージ」に意義を見出し、それを何らかの形で受容/共感しているからこそ、排除/疎外がなされる。
- 「専門家主導の発達障害啓発活動は、よい活動に決まっている」という見解を支持している人の中には、次のような思いがあるんじゃねーの?
- 「どの程度正しいのか、本当はわかっていない」にもかかわらず、「専門家やマスコミの見解」を信頼し、「発達障害者らと社会的関係を作っていく」。専門家やマスコミは権威を認められている。そして、一般人は「専門家やマスコミ」によって啓蒙される存在である。
- 一般の「非専門家」は、専門家やマスコミの見解を「自分の『知』」として取り入れることによって、「大切な知識取得に一歩近づくことができる」という幻想を持つ。そして、知らない人や否定する人を、「大切な知識を、持っていない人」であると認識→その知識を「啓蒙」しようと企てる。
- ここで、「知らない人や否定する人」が、啓蒙の内容に賛同すれば、「理解に向かってワンランクアップ」として認められる。しかし、否定したり疑問を持ったりすれば、「非専門家のくせに不勉強」というイメージがつけられてしまう。いくら、「いろいろな角度から熱心に考えて行動した」としても、その見解は却下されてしまう。「権威を持たない者」と規定されているから。
この番組中で、中山秀征は、次のようなポジションに置かれているのでは? と私は考える。
- 既に先に「専門家に接触している」人が、後から来る人達を自分たちの色に染める」という営みは、各種障害者運動の中にもしばしば見られる。→「後から来る人達」のポジション
- 同じ「障害者、当事者」というカテゴリーの中でも、「先に関わったりしていた人達」と「後から来て、これから勉強しようと思っている人達や、何かを知ったばかりの人達」との間には、力関係が存在する。知識や技術や他者との折衝ノウハウなど、いろいろな差がある。→「後から来て、これから勉強しようと思っている人達や、何かを知ったばかりの人達」のポジション
更に厄介なことに、「等しい立場で、情報を交換したり支え合ったりしましょう」といった類の言葉を使って、力関係を覆い隠すというケースもある。「置かれてきた環境も持っている背景も個々に違う」ということを無視して。
(念のための注 専門家視点と本人視点は、必ずしも対立的/互いに排除し合うとは限らない。)
「夏炉冬扇が一体何を主張したいのかわからない」と思われた方が多いと思う。次回は、「中山秀征の発言内容/Twitterでの反応/それらから私が考え感じたこと」と今回の記事とを、関連付けて書く予定。