karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

発達障害啓発週間に読んだWebマンガ

今週のお題「オンライン」

日本では、4月2日~4月8日を「発達障害啓発週間」としている。この時期に、『綿谷さんの友だち』というWebマンガを読んだ。この漫画は次のサイトで一部が読める。
コミックぜにょん|連載作品
このマンガは、「綿谷さん」と、クラスメイトとの生活を描いたマンガである。綿谷さんは、発達障害と(安易に)ラベリングされそうなキャラクターである。第8話までは単行本も出ている。
「これって、どんなマンガ?」と尋ねられたら、私はこう答える。

  • 「相手の顔色を伺いながら、相手の気に入りそうなことを言うことだけが「人とのコミュニケーション」ではない。「相手に自分のことを伝える。そのことによって、相手が変わる。」これもコミュニケーションだと思わせるマンガ。
  • 伝える際に起こりうる、ずれやすれ違い、誤解や頓珍漢な対応など。これら様々な「空気の読めない(とされた)こと」によって、逆に「コミュニケーションの豊かさ、ふくらみ、楽しさ」が生み出される可能性もある。生み出されたものによって、相手も自分も世界が広がる可能性がある。そう思わせるマンガ。

発達障害という概念が広く知られる→それに対する理解が広がる→サポートが広がる」このことによって、発達障害者はよりよい人生を送れるようになる。
と思っていた頃が、私にもあった。
今は、「そうとは言い切れない」と思っている。発達障害という概念が広く知られるようになってから、「予言の自己成就」のようなことが起こるようになったのでは? そして、そのことによって、双方の関係性が酷くなる危険性もあるのでは? という思いがある。
 予言の自己成就については、予言の自己成就(よげんのじこじょうじゅ)とは - コトバンクを参照。豊川信用金庫事件(1973年)が、事例としてよく取り上げられている。
豊川信用金庫事件 - Wikipedia

マンガで描かれた生活は「予言の自己成就」とは対極的なものになっている。単行本の「あとがき」から、作者は「安易なラベリングに走らないで、コミュニケーションをテーマとしている」のでは? と私は思った。


発達障害と「予言の自己成就」について、現在、次のようなことがなされている状態にあるのでは? と私は思っている。

本人が「自分の中にある、これこれこういう(好ましくない)傾向は、発達障害によるものだ」と定義する。あるいは、周囲がそのように定義する。

定義された側は、「自分は、定義されたとおりの人間だ」と思い込んでしまう。そして、定義されたとおりのふるまいをしてしまう。

そのことによって周囲も、「ああ、やっぱり、発達障害があるから、こういう好ましくない言動になるのだね」というまなざしを向けるようになる。

本人が、周囲のまなざしを取り込んで、「発達障害的の(好ましくない)特性」とされた言動を強化してしまう。
の悪循環となっていることもよくあるのでは? と私は思う。

しつこいと思われるかもしれないが、例をあげてみる。

ある場所で、発達障害者家族会の集会があった。集会の部屋に、途中から遅れて入って来た人がいた。集会では、参加者にお茶が出されていた。以前から集会では、遅れてきた人には、その場にいる人がお茶をついでいた。その遅れてきた人が部屋に入ってきたとき、参加していた子供が席を立って歩きだした。

それに対して、その場にいた発達障害専門家が、「これはAD/HDという発達障害の症状である『多動』だ。この年齢になってもあんなようではだめだ。矯正すべき。」と解釈した。その場にいた大人は、「専門家の見解だから正しい」とみなした。

ところが後日、家族会関係者以外の人に、その子供本人が打ち明けた。「新しく入ってきた人にお茶を入れるために、急須のほうに行こうとした。」と。

発達障害を持ち出さないで、他の子供がこの行動を取ったなら、「気が利くね」とか「優しいね」とかいった解釈がなされたかもしれない。

発達障害啓発活動には、次のような発想が隠れていることがよくある。というより、「ほとんどがそうじゃねーのか?」と私はひそかに疑っている。

  • 「私たち非発達障害者の世界」を発達障害者が侵さないでほしい。
  • 発達障害者が、私たち非発達障害者と接しているときには、「非発達障害者の常識」を学び取ってほしい。
  • それぞれの世界における常識が異なっている場合は、躊躇なく発達障害者側の常識を捨ててほしい。
  • 「非発達障害者の常識にかなった振る舞い」をうまくできないのならば、非発達障害者とは別の世界であるところの「彼(女)ら発達障害者の世界」で練習してほしい。そのための場所は、療育施設とか自助会とかいろいろある。
  • 私たち非発達障害者側も歩み寄って、常識を知るための手助けをしてあげる。ただし、私たち非発達障害者の世界が侵されない限りにおいて。
  • この手助けを続けていくと、発達障害者が成長していくのみならず非発達障害者の成長にもプラスになる。

マンガでは、「これらの発想とは違った近づき方が、なされているのでは?」と私は思った。
「綿谷さんのことを、どのように捉えたか」ということを、「綿谷さんをそのように解釈した、それぞれのクラスメイト本人」の「人に対する見方や枠組み」を表すこととして捉える。

社会規範や社会的状況や周りの人との関係性といった観点からも、その解釈について捉えなおしたうえで、いろいろなかかわり方を双方(←ここ重要)が考えていく。

「それぞれのクラスメイトが、かかわり方を考える」ことは、翻って「クラスメイトそれぞれに、生き方や社会のありようを問い直し、クラスメイトそれぞれの生き方をより豊かなものにしていく機会にもなりうる。

という感じであったらいいな、という願望を私は勝手に持っている。


「コミュニケーションにずれがある」ということが、「価値観や世界観が多様であること」に起因する場合もありうる。その多様さによって、「空気の読めない(とされた)こと」が逆に「コミュニケーションの豊かさ、ふくらみ、楽しさ」を生み出す場合もありうる。マンガを読んでそう思った。