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karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

今週のお題「バレンタインデー」

今週のお題「バレンタインデー」

 

私は今まで、「バレンタインデー」「ホワイトデー」という国民的行事(?)に参加したことがない。そして、これからも没交渉を貫くつもりである。

没交渉を貫く理由は、私が「日本の贈答文化を理解することが困難な、おバカさんだから」である。

「日本の贈答文化」のどんな点が理解困難なのか。それについて書いてみる。

 

日本の贈答文化は、「贈答、受贈、返礼」の三つの過程から成り立っている(と私は思う)。おそらく、「誰かが誰かに贈り物をする。贈られたほうは『ありがとう』といった類のお礼を言う。それで、はい完了。」とはみなされていない(と私は思う)。

この贈答文化の特徴は、「『贈答』が行われた際に、受贈者側がそれを『義理』と解して、直ちにそれに対して『返礼』を迫られる」ことにある。バレンタインデーやホワイトデーでの贈答も、この文化に組み込まれている。

「そんな、おカタいことを言わなくてもいいじゃないの。贈り物を交換することを通じて、対人関係を円滑にしているだけよ。」という反論もあるだろう。確かに、そういう面がゼロだとは言わない。しかし、私には、この贈り物交換の背後に「ある種の強制力」があるように思える。「参加したことがない。これからも没交渉を貫く。」と私が表明すると、ほとんどの人が驚くことから考えるに。

 

私は、物を贈る行為に対しては「物を贈る→受け取る→はい、完了」型の感性を持つ人間だ。

私は「下心のこもった贈り物」というものが苦手だ。するのもされるのも。私が贈り物をするときは、見返りを求めていることはほとんどない。「受け取る」という行為自体も、お礼のひとつだと思う。「ありがた迷惑」と穏やかに(←ここ重要)告げることも、お礼のひとつだと思う。返礼の品物がなくても、物を贈られたことじたいがうれしかったとか役に立ったとかいう「事実」があったのなら、それだけでうれしいと思う。私はこういう人間だ。

「三つの過程から成り立つ贈答文化」は、私にとっては複雑なものに思える。所謂発達障害系の人の中にも、この贈答文化に戸惑う人が少なからず存在するのでは……私はひそかに疑っている。

 

この贈り物交換は「個人が他の個人と行うもの」ではないように、私には思える。「集団と集団との間で行われているもの」に思える。

この国民的行事(?)での贈り物は、所属集団における「相手の地位」に贈られるのでは? と私はひそかに疑っている。それだけではない。これらの贈り物には、「贈ることによって、相手に『義理』という心理的負担を負わせ、自分が相手よりも心理的に優位な位置に立つ」という意味がつけられているのでは? と私は疑っている。

返礼もまた、(少なくとも私にとっては)厄介な行為である。返礼は、「(地位の反映された)贈り物」に見合ったものでなければならないと思われる。「返礼」の価値がそれを超えたものだと不審に思われる危険性がある。それ未満のものだと、「侮蔑された」と解釈されかねない。

どうやら、この国民的行事(?)での「贈り物交換」には相場めいたものが存在するらしい。

この国民的行事(?)では、ある特定のチョコレートに、変な意味がつけられてしまうようだ。昭和時代なら、チロルチョコに変な意味がつけられていた。今は、ブラックサンダーもそのポジションにあるようだ。

私が一番好きなチョコレートは、チロルチョコである。このチョコレートに変な意味をつけられて消費されるのは、私としてはおもしろくない。

 

この国民的行事(?)に対して、「一度に複数の人から、同じような品物をもらってもうれしいものなのだろうか?」という素朴な疑問を私は持っている。

「参加したことがない。これからも没交渉を貫く。」と私が表明する際には、次の言葉も付けている。

「夏炉冬扇関連でその行事(?)にカネや時間やエネルギーを使わなくていい。それらを他の人に使ってくれたほうが、お互いずっといい。」

今までのところ、没交渉宣言については(少なくとも表面的には)波風は立っていない。

時々、アビリーンのパラドックス - Wikipedia めいたコメントが、私にカミングアウトされることもある。

「本当は面倒と思っている」「受け取らないという選択肢が、事実上ないというのが嫌」とか。

そしてその結果、「職場内でこの行事(?)に関する話が出なくなり、参加者もいなくなった」ということも過去にあった。

「一度に複数の人から、同じような品物をもらってもうれしいものなのだろうか?」この疑問を呈する人、他にはいないのかな? 気になる。