karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

修学旅行もどき

今週のお題「修学旅行の思い出」

 

修学旅行か。私が「1970年代に鳥取県の公立小学校に入学」したことを意識させるお題だな、これは。

私は小学校入学から高校卒業まで、公立校にいた。私のいた学年では、小中高いずれも、「修学旅行」なる行事は存在しなかった。

 

小学校と中学校では、修学旅行ではなく「宿泊研修」なるものだった。「青年の家」の類に泊まった。

私が高校に入学したのは1980年。当時、その地域の高校には修学旅行なる行事はなかった。高2のとき、授業中にある教師が、「その昔、新聞の三面記事にのるようなことをやらかした生徒がいて、それ以来修学旅行をやらなくなった。」と語った。その証言については、真偽のほどは定かでない。

私は1983年に大学に入学した。大学で、富山県の高校でも修学旅行がないと知った。(当時の話である。今はどうなのかわからない。)「えっ、富山だけだと思っていた。」と、富山県出身者が驚いていた。

「北陸東海地区の大学なら、富山出身だとわかったら、『修学旅行、どこ行った?』とからかわれる。」と、その人が話していた。その人の証言によると、富山県の場合は、「そんなことをするよりも勉強しろ」という理由で修学旅行が行われないということだった。

 

1970年代後半、鳥取県内の公立中小学校では、何故か「修学旅行のありかたを再検討」ということが流行していたらしい。その再検討とやらの結果、「宿泊研修」に変わった学校が何校かあるらしい。

小学生のときは、私がいた学年から「宿泊研修」に変わった。その前の年までは、京都へ修学旅行に行っていた。

中学生のときは、私より1学年上から「宿泊研修」に変わった。その前までは、四国へ修学旅行に行っていた。

私には2つ上の姉がいる。姉はぎりぎりで両方の修学旅行に参加したことになる。「京都や四国へ行けないなんて、かわいそうだな。」と、当時姉からよく言われた。

しかし、私の思いは違っていた。宿泊研修のほうが気楽だった。やるべきことがはっきりしていて、他の生徒とべたべたくっつく必要が、修学旅行よりもなさそうだったからだ。

  

中学の宿泊研修では、次のようなことが予定されていた。

カッターボート漕ぎ(男子)、テーブルマナー(女子)、「会議の持ち方」というタイトルの講習受講、レコード鑑賞、施設内にある本を読む、天体観測、各クラス単位での出しものがあるレクリエーション(学校での集団行事につきもののやつ)等。

この研修は、1979年6月下旬に、西日本某所で行われた。この時期の西日本といえば、梅雨の真っ只中。しかも、強い雨の降る時期だ。だから、カッターボート漕ぎ(男子)と天体観測は、なされなかった。

この宿泊研修については、どういうわけか、変なことばかりが印象に残っている。

目的地には貸切バスで行った。バスの中では某男子生徒がマイクを独占し、石野真子(当時のアイドル歌手)の歌を歌いまくっていた。狼なんか怖くない、私の首領<ドン>、失恋記念日、日曜日はストレンジャー、プリティー・プリティー、全部歌っていた。

レコード鑑賞では、なぜかアルゼンチンタンゴを聴くことになった。ラ・クンパルシータやエル・チョクロがあったのを覚えている。隣のクラスの担任が音楽教師だったのだが、その教師が、「好みの曲(が入ったレコード)がたくさんある」と異様にはしゃいでいた。

各クラス単位の出し物、クラスというクラスで、『魅せられて』(歌 ジュディ・オング)を歌う展開になっていた。勿論、生徒本人が作った衣装をクラス代表に着せて。

他のクラスの某男子生徒が「当時のプロ野球選手の真似をする」という、出しものもあった。王貞治小林繁掛布雅之竹之内雅史江川卓山本浩二衣笠祥雄星野仙一平松政次大杉勝男といった選手の真似をしていた。江川卓が出てきて岡田彰布が出てこない。このことと『魅せられて』(歌 ジュディ・オング)とで、「1979年の話なのだな」とわかる。

 

「修学旅行もどき」というタイトルだが、私の本心は「この宿泊研修、よかった」である。