karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

中1国語の激レア授業

今週のお題「激レア体験」 


私が中1の夏休み明け最初に受けた国語授業、ひょっとしたら、激レア授業だったのかもしれない。
去年の今頃、元号「令和」の「令」の字が話題になっていた。「あれれ、この字の下の部分を『マ』のように書いたらダメなの?いいの?」といったことで。
私がこの話題を初めて知ったのは、Twitterだった。ツイートを見て、その国語授業を思い出した。
その授業では、授業1コマ分をまるごと使って、「漢字の書き表し方」の説明がなされた。「手書き文字と活字体とが異なっている場合がある」ことなどについて、丁寧な説明がなされた。点画の長短・方向・曲直・つけるかはなすか・とめるかはね又ははらうか(テストのときに、誤字とみなされるかどうか)についての説明とプラスアルファだった。
私の素人考えだが、「当用漢字字体表(1946年内閣が告示)」を踏まえた説明だったのでは?と思う。
文化庁 | 国語施策・日本語教育 | 国語施策情報 | 国語審議会(終戦〜改組) | 当用漢字字体表


私が地元公立中学に入学したのは1977年。国語担当は、当時20代半ばの先生だった。中学に入学してすぐ、学校生活で「漢字」に対する新たな視点を持つ(と言えば大袈裟だが)きっかけがあった。
小学校と中学校、いろいろな面で違いがある。
小学校よりも、たくさんの先生に授業を習うことになる。その当時、大正生まれの先生もたくさんおられた。最初の授業で、年配の先生方が「古い字体で漢字を書くかもしれない。もし、わからない漢字だと思ったらそのように言ってほしい。」とおっしゃった。
中学では、他の小学校出身者とも一緒になる。小学校からの同級生に「野沢さん」という人がいた。中学最初のクラスには、他の小学校出身の「澤さん」という人がいた。「沢」と「澤」、あれれ?と思った。
中学書道授業では、中1の1学期で行書を習った。行書の手本では、「実」の最後は「はらい」ではなく「止め」となっていた。「どっちでもいいんだろうか?」と思った。
教科書で使われている活字の書体も、小学校と中学校では違っていた。歴史教科書に出ていた「大宝律令」の「令」の字を見て、あれれ?と思った。

中学入学当時のそれらのことをまだ忘れていない、中1夏休み明け。夏休み明け最初で、まだ勉強する気になれない時期。その時期に、普段の授業と少し違うタイプの授業。私にとって、実によいタイミングの授業だった。
しかも、この授業は、「誤字なのか許容範囲なのかを説明するだけ」ではなかった。「楷書や行書など、漢字と仮名の歴史」も踏まえた説明がなされた。
異体字や俗字の「島、嶋、嶌」「町、甼」についても説明があった。「『甼』は田舎の古い案内図などに書かれていることがあるから注意」とのことだった。1970年代だ。面白い授業だった。

「令」の字が話題になるまでは、「漢字の書き表し方」の授業が、一般の学校でごく普通になされているものだと思っていた。しかし、そうではなかったらしい。私がこの授業について書いたり話したりしたら、ネットでもリアルでも、「そういう授業があったのか?」という反応ばかりだった。「そのような授業を受けた」というコメント、私は未だに見聞きしていない。

この先生との激レア話、ここでは終わらなかった。元号が令和に変わって1ヶ月ほど経ったころ、新聞地方紙にこの先生と思われる名前が出ていた。ボランティア活動をなさったという記事だった。記事に出ていた年齢からは、私が授業を受けた当時、20代半ばということになる。「間違いない」と思った。「いい先生のままで、変わらないでおられるんじゃないか」と思った。
この先生の名前で検索してみた。すると、先生と大学で同期だった方のサイトが見つかった。そのサイトで、先生のブログが紹介されていた。ブログのタイトルの一部に、先生の当時のあだ名が使われていた。間違いない。
先生のブログを拝読した。「ああ、プロフィール欄記載の趣味も当時と同じだ」と思った。ブログには写真つきの記事もあった。歳月を経たが、写真の笑顔には面影があった。

もしも、元号に使われた漢字がこういうタイプの漢字ではなかったら? 「この授業が激レアだったのかも?」などと考えることは、おそらく、なかっただろう。
元号発表の時期と、新聞に記事が掲載された時期が、近かったのも不思議な偶然。
これらが関連して、先生のブログを偶然知ることになる。
偶然に偶然が重なる、激レア体験となった。