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karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 2

発達障害 障害

私は、統合教育崇拝者に対して疑念を持っている。(注 「統合教育」「崇拝者」としている理由については

 障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログ 参照)

次にあげることを彼(女)らに尋ねると、論点をはぐらかした回答がなされることがほとんどだったからだ(例 うまくいった例をあげ、思い通りにならないからといって、文句を言うな。」「特殊学級や特別支援教育なら、もっとひどいことになる。」「障害児の親御さんやうまくいった障害者が、地域の学校や普通学級を望んでいる。同じ時間や場を共有することを望んでいる。」などと言う。)

もっとも、「特別支援教育に、諸手を挙げて賛成」というわけでもないが。

彼(女)らの主張する統合教育では、

1.いじめや排除の経験を積んでしまう危険性大では?

2.授業をはじめとした日常生活についていけない危険性大では?

3. いじめや排除の経験を積んでしまった場合、それらが学校外での生活や卒業後の生活に悪影響を及ぼさないか?(「艱難汝を玉にす」となるのは、好条件が重なりまくった極めてレアな場合のみでは? レアでないとするならば、その根拠は何なのか?)

4.日常生活についていけなかった場合、それらが学校外での生活や卒業後の生活に悪影響を及ぼさないか?(「ついていけるようになりたい」という願望を本人が持っていたor持たされていた場合に、「ついていけなかったorいけそうにない場合、ではどうするか? どう乗り越えるか? どうごまかすか? などを模索→その後の様々な場所での生活に活かしていけるようになる」 ということができるのか? できるとしたら、その根拠は何なのか?)

5. 3や4で「艱難汝を玉にす」となったり様々な場所での生活に活かしていけるようになったとしたら、何故、うまくいった背景等について詳しく語らないのか? いじめや排除や学習面等の悩みを持つ非障害者(たぶん、いる)にも参考になりそうなことだと思うのだが。

6.  3や4で述べた悪影響は、権力者や他者による支配や抑圧を受け入れてしまうための、下地を作る」ものとならないか?

 

統合教育崇拝者が関心を持つのは、「自分たちの考える、ありうべき統合教育の姿」や「3の『艱難汝を玉にす』となった(と崇拝者が認識した)姿」や「障害者本人や周囲の人による、その姿を実現させたという語り」である。「その姿から離れた障害者本人が、実際に受けている・過去に受けた処遇」にはほとんど関心を向けない。(少なくとも私の観測範囲内においては)

そして、「学校は勉強の場である以前に、生活の場。共に暮らしていれば、その子なりの学びや成長がある。他の子も、優しさや思いやりを学ぶ。子供時代に普通学級に入れてもらえなかった人が、大人になってから、『障害者や施設以外の世界を知らないから、社会に適応でない』と主張している。」「分けられて障害者を知らない生活が続くから、健常者側が偏見を持つようになる。」と、統合教育崇拝者は語る。

 

1~6で述べた疑念に対して、回答をした崇拝者もいた。その回答について書いてみる。

 

  いじめや排除について

・仮に、特殊学級や養護学校に入っていじめや排除から逃れたとしても、将来を考えたら遅かれ早かれ経験することになる可能性大。普通学級の中でせめぎあいながら、共生する力をつけていくことが大切。

・いじめっ子も仲間。いじめっ子も友達。差別に負けない障害者としての自覚や自立を成し遂げる力は、そういう仲間と交わることで身につく。

・うまくいった背景等を語るのは、プライバシー尊重などの観点から問題あり。共に学ぶ仲間と本人との問題。友達をたくさん作れば解決する。友達のいない(作る努力をしなかった)非障害者にとって、学校が苦しい場となるのは当然。

・本人も親御さんも、「つながりって、大切だね」と語っている。

 

「日常生活(特に授業)についていけるか否か」について

・特殊学級(特別支援教育)で無理やりできるようにしても、タカが知れている。

・「オール1でもいいから普通学級の通信簿が欲しい」「わからなくても一緒にいることが大切」と望む親御さんがたくさんいらっしゃる。親御さんの望みをブチ壊すなんて残酷。

・特殊学級(特別支援教育)で無理やりいろいろな訓練をするのは、実力の有無で差別する世界への参入を意味する。

・授業がわからなくてもいい。通信簿なんてオール1でもいい。学校は生活の場だ。

・うまくいった背景等を語るのは、プライバシー尊重などの観点から問題あり。共に学ぶ仲間と本人との問題。友達をたくさん作れば解決する。友達のいない(作る努力をしなかった)非障害者にとって、学校が苦しい場となるのは当然。

 ・本人も親御さんも、「『助けてください』と言えば、援助の手を差し伸べてくださる。本人も助けを求めるスキルが身に付く。」と語っている。

 

正直なところ、私にはこれらの回答は「トンデモ」と思える。「いじめられるのも個性、できないのも個性。」で片づけるトンデモ論だと思う。

 障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログ でも書いたが、学校外や卒業後の生活に活かしていけるようになるか否かは、「本人や身近な人物の持っている、各種資本(経済的な資本に限らない。文化資本社会関係資本も、当然含まれる)と地位」「(追い詰められた際の対処法としての)手練手簡も学び取れる実力」が大きく絡んでくると思う。統合教育崇拝者は認めようとしないが。

また、「できなくてもいい。学校は生活の場。」という見解によって知識や技能を身につける方向性を閉ざしたのちに、一般社会に入ることは、実は「能力主義による差別」に加担することにもつながりうる。私はそう捉えている。

 統合教育崇拝者のコメントは、 ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 1 - karotousen58のブログ で述べた

・障害者本人の言動を、他者(特に、支援者と見られている人)がどのように受け止めているのか ・その解釈にはバイアスがかかっていないか

・「支援が必要」とみなす自分自身の生活や感性は正常なのか? もしそうだとしたら、その基準は何なのか? といった、他者(特に、支援者と見られている人)が自らの支援観を問う行為をしているのか否か

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 1 - karotousen58のブログ

事柄に対してどのようなことになっているのか? シカトされている状態にあると、私は思う。

そして、そのシカト状態の裏には、

障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログ で述べた、

 

 

障害者の視点や経験を通して、「あたりまえのこととして、意識化さえされてこなかった」主流社会の構成原理やあり方、すなわち「健常者中心文化の、ありよう」を意識化する。

それによって、「健常者を中心とした社会のありかた」や「自分自身のあり方」を再考する。

問題点がいろいろとわかってくる。 ↓ 問題点を、具体的にどう変えていくか考えていく。 という態度

障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログ

 

 という観点を軽視している状態が隠れているのでは?(「普通学級での教育のありようを問い直す」という行為がなされない状態では?) 本人と統合教育崇拝者との力関係を無視している(後者が主導権を握り続けている)状態なのでは? 

と私には思える。

このような状態では、「障害者による語り」は、統合教育崇拝者が障害者本人に期待している語りによって、「統合教育成功イメージに使えそうなもの」と「そうでないもの」に分けられる危険性がある。また、障害者の語りに関する解釈は、統合教育崇拝者や教師や親等に委ねられてしまうと思われる。(つまり、解釈にズレが存在する可能性やズレが存在することをシカトされる危険性がある。)

実際、「実力のある障害者が話すことは、歓迎される。だけど、僕たちの話すことなんて聞いてもらえないに決まっている。作文を書くときは、いじめられたとか楽しくなかったとか書くと怒られる。『いろいろあったけど、今ではいい思い出』とか書かされる。本当は自分は歓迎などされていないということぐらい、わかってる。」と告白する障害者を何人か、私は知っている。

 

まとめ

・「いじめ、排除、授業をはじめとした日常生活全般についていくことに難儀」等について、「それらでも、他の場でも活かせる学びにつながる」と、統合教育崇拝者は主張なさりたい模様。だが、肝心の「学びにつながる」像についてはウヤムヤ状態。

・「普通教育のありかたについて検討し、必要とあらばそれらを変えていく」という方向性も開かれている状態にあるか否か、ウヤムヤ状態。(「開く気など更々ない。普通学級に入れたら健常者にもまれて、障害者も現状の普通教育への順応力をつけることができる。」という見解では? と私は疑っている。)

・「障害者による語り」について、「語りを聞く側がどのように受け止めているか?」それについてもウヤムヤ状態。(「『聞く側に有利な解釈がなされているかもしれない』などと自己懐疑をする必要などない」というのが本音では? と私は疑っている。)

・「いじめ、排除、授業をはじめとした日常生活全般についていくことに難儀」等については、障害者のみならず健常者にも共通する事柄。健常者のそれについてを不問としたうえで、「健常者と障害者との間で起こるそれ」については上手くいくかのような幻想を振りまいている。不問にした状態で何故、「上手くいく」と主張できるのか? その根拠についてもウヤムヤ状態。

では、特別支援教育ならばよいということなのか? 早期発見と早期の専門家介入による、発達障害者と健常者との共生』イメージにも、私は疑問を持っている。それについて次回書く予定。