karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「同世代のお友達」でなきゃダメだろうか?

 

女優の奥山佳恵 ダウン症の息子を通常学級に入れる決意に反響 - ライブドアニュース

併読をおすすめ http://square.umin.ac.jp/~massie-tmd/helpme.html 「助けが必要な自分の状況や相手の力量を理解、把握→適切な時/場/人/内容の条件を満たして、初めて有効な援助要請へ」投げ込み統合なら理解/把握力養成は困難では?

2017/12/28 02:42

 


奥山佳恵の暮らしラボ・家族に選択の時が…

 

子供の頃クラスでかなりイジメられてた女の子について「いや、彼女は本の趣味もいいし、話せばとても面白い子だよ」って言ったら滅茶苦茶茶化されて、お互いにとって不幸なことになっ

私の場合、「本の趣味もいいし、話せば面白い子」の類の発言が年長者(ある同級生の親御さんや従姉)から学校外でなされた。救われた。親は「大人が合わせてくれただけ。友達のできないダメな子」と言うだけだった。

2017/12/26 22:32

 動画の04:00あたりで、「同世代の友達が1人でも多い方が 財産になる」という内容の発言が出てくる。

「同世代の友達をたくさん作ることが、この子の生きる力となる。だから、特別支援学級/校ではなく普通学級を希望する。」というコメント、親御さんからも「全ての子供を普通学級へ」運動関係者からもよく出される。というより、「そのコメントが最初に発されないことは稀」である(少なくとも、私の観測範囲内では)。

否、「障害児の就学相談」の場だけではない。「学校生活で一番大切なことは、同世代の友達をたくさんつくって社会性を身につけることだ。」という類の見解、世間一般で広く共有されているように思える。

「大勢でワイワイやるのが好き」というように見えない(と大人が認識した)子供に対して、「○○さんとしか遊ばない」「もっとみんなの輪の中に」と大人がとても気にするケース、私はいろいろな場で見聞きしてきた。そして、私もこれらの言葉に苦しめられてきた人間である。「同世代」ということに異様に重きを置いているように、私には思える。

もっと言うと、「同世代の友達ができないようなら、他の人とも交流なんかできない。よって、社会性を身につけることができなくなる。」という解釈のレールが、勝手に敷かれているのでは? と私には思えて仕方がない。

本当に「同世代の友達」でなきゃいけないのか? 年齢の離れた人からいろいろと影響を受けるということはないのか? 「年齢の離れた人との交流もあり」というのじゃダメなのか? 「同世代の友達」でなきゃいけないというのは、本人にとってプレッシャーになることもあるのでは? 交流を子供に丸投げなのでは? 私淑という方法もあるのでは? と私は疑問に思っている。

 

「同世代の友達をたくさん作ることが、この子の生きる力となる。」という見解は、しばしば暴走した形で表現される。「分けることは差別」とか「分離教育は能力主義価値観支持だから悪い」とか「障害児本人だけではなく、周りの子供も成長する」とか主張する人達が、「(同級生の)友達の数」や「愛想よくできているか否か」によって「障害児を序列化」という形で。

そして、子供が「一人でいることが苦にならない」とか「いじめられてつらい」という態度を取った場合、「その子は序列最下位」とその人たちは解釈する。

「序列最下位から脱出しなければいけない」と、周りの大人が煽る。脱出の方法として、次のことがしばしばなされる。

「友達がたくさんいるように見せる」「友達を作る練習と称して、他の児童と一緒の遊びを無理やりさせる」「いじめであることを否認する(本人はいじめとは思っていない。いじめというのは大人の勝手な解釈などと大人が主張)」等が。

それだけではない。「この子が(同級生ではなく)年長者に近づくのは、甘えが通用するから。年少の子に近づくのは、この子が幼稚だから。」という解釈までなされる場合もある。

「分けることは差別」とか「分離教育は能力主義価値観支持だから悪い」とか「障害児本人だけではなく、周りの子供も成長する」とか主張する人達が、「序列最下位(とみなされた)子」を、「誰かの自己肯定感(とやら)を高めるためのお道具」として利用することもよくある。

「(序列最下位の)××ちゃんみたいな、もっと酷い人もいる。それに比べればあなたはずっと立派。さあ、胸を張って。」という類の激励、それらの主張をする人達からよく聞いたものだ。

 

私は1971年に小学校へ入学した。父の証言によると、私は幼稚園児だった頃(或はそれ以前?)に自閉症を疑われ、児童相談所へ何度か連れて行かれたらしい。私の記憶にはぜんぜんないが。私が幼稚園児だった頃、すでに親は、「全ての子供を普通学級へ」系運動関係者と思われる人物と繋がりを持っていた。小学校入学後、3年生まで、夏休みのうちの一日を使って母と私が校長室に呼びだされるという経験もした(特殊学級検討?)。そのとき私は知能テストのようなものを受けさせられ、その後専門家らしき人と母と私の3人で面談した。こういう過去が私にはある。

1979年、養護学校義務化がなされた。1970年代になされた「就学運動」は、「本人が学級で受けている処遇」ではなく「養護学校義務化賛成/反対派の派閥抗争」に関心が向いていた(統合教育/分離教育どちらの側においても)。そして、現在もその状態が続いている。「友達をたくさん作ろうキャンペーン」は、どちらの側も重視している。

「普通学級は素晴らしい。特殊学級に入れられないようにしなければいけない。お友達をたくさんつくって楽しく学校生活を送っていれば、普通学級でやっていける。だから、お友達をたくさん作らなければならない。」と、運動関係者や親はどうやら認識していたようだった。そして、前述の「脱出方法」を私に押し付けた。

私が小5のときまで、運動関係者と親は、「友達を作る練習」と称して同級生の家に遊びに行くことを義務付けていた。同級生と私とは、興味や関心が合わなかった。私にとって苦痛でしかなかった。同級生にとっても、おそらく苦痛だっただろう。

私はいじめのターゲットにもされた。私の場合、大人が率先していたという面もある。今週のお題「これって私だけ?」 - karotousen58のブログ のような調子だった。

「どうせ、私が考えたり感じたりすることや、私が好きなものには、ロクなものなんてない。それらがバレたら、親も教師も同級生も、私を否定するに決まっている。親も教師も同級生も、私の味方になんかなるはずがない。」という思いを抱えて、子供時代を過ごした。

 

運動関係者や周りの大人が求めているのは、「障害児のことを思いやってくれる相手」なのかもしれない。

しかし、人生経験が僅か10年前後の子供にそれを期待するというのは酷な場合もあるのでは? 「同級生とは必ずしも場を共有していない、年齢の異なる人」は「友達」とはならないのか? 疑問に思う。 

 

ただ、私の場合、次のようなまなざしを向けてくださった年長者も現れた。幸運だった。

「確かに、夏炉冬扇ちゃんには風変りな所があるかもしれない。だけど、『見ている側の持っている常識と少し違う』のを、見ている側が『風変り』と思っただけかもしれない。『見ている側の常識』だけが正しいとは限らないかも。」というまなざしを。

例をあげる。リンク先の過去記事のことがあったとき、「夏炉冬扇ちゃんは、意味もなく場を壊そうなんてことを考える子供ではない。本人なりの何らかの事情があったのかもしれない。」という態度で接して下さった人も現れた。そのことについて、私の話もきいてくださった。私はその方々に救われた。

しかし、子供時分の私には、「その方々の態度」を意識する余裕がなかった。大学に入って、同じような経験を何度か積み重ねる幸運に恵まれた。そうしてやっと、「子供時分にも、いろいろな方々が私を助けてくださったんだ。その方々のことを忘れてはいけない。」とわかった。

 

正直な所私にとって、義務教育という場の「同世代の友達をたくさん作る」という目論見は、「負の人脈を築く」という結果を招いたと思う。

大人になった現在でも、いろいろな場で、「子供時代に同級生だった人について、いろいろと話す」という形のコミュニケーションがなされている。その種の話がなされている場にいるとき、「ああ、私、知らない場で恥ずかしいことをこんなふうにいろいろと言われまくってるんだろうな。嫌だな。」と思う。

私は、趣味で外国語教室に通っている。この教室での初日、各自が自己紹介をした。この日、「義務教育時代に接点のあった人がいない。よかった。安心して通える。」と思った。

現在交流のある人に対して、「義務教育時代にこの人たちに出会わなかったのは、運が良かった。」と思うこともよくある。

高校卒業後は、「同世代の友達」と騒がれなくなる。大学時代、学生以外の方々も私に声をかけてくださった。勿論、それ以降も「いろいろな年代の人」と接して暮らしている。

「子供には、同世代の友達がたくさんいなければならない」という見解を疑ってみること、それによって救われる可能性のある子も、いるのかもしれない。

 

「障害児」とか「同世代の友達が少ない(とみなされた)子」といった類の言葉に対して世間一般に流通している紋切型のイメージもあるのでは? その紋切型イメージによって子供を判断するという人々のまなざしや、そのような認識によって、子供が差別的処遇を受けているケースもありうるのでは? そのまなざしやイメージを、他の子供も無批判に取り込んでしまうということはないのか?

「同世代の子供」以外の人も、それらについて捉えなおすのもいいかもしれない。案外、「捉えなおしてみた側」の暮らしやすさにも繋がる可能性も、あるかもしれない。