karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「一人はダメだよ教」とのつきあい方を模索 3

はてなブックマーク - 「休み時間は1人で過ごすよりも友達と楽しむべき」という教師の投書に様々な意見が寄せられる「押し付けないでほしい」「遊ぶことも大事」 - Togetterまとめ

「大勢の人の中にいることで、協調性や社会性が身に付く。一人でいるのは好ましくないことだ。一人の世界から、大勢の世界に自然に目が向くようにはならない。他人に関心を持たないまま成長する危険性がある。」

私が子供の頃、親や教師はこのような思いを持っていたらしい。

「人とつながることをきっかけとして、協調性や社会性が生まれてくる」ということも、事実だと思う。しかし、「背景にある事情を無視した状態で、このことを声高に主張する」のは危険だと、私は思う。

相手が「この子と時間を共有できて楽しい・安心だ」と思って接しているか、「この子は人間関係の作れない、かわいそうな子供だ。だから、哀れんでつきあってあげる」という態度で接しているのかで、だいぶ状況が違ってくる。

 大人がお膳立てをして後者のようなお友達を本人に付けたとしても、本人には協調性やら社会性やらいったものを身につける余裕はできないのでは? と私には思える。

 

 私が子供の頃、親や親戚や教師は、「友達は大切。たくさんつくらないといけない。」と力説していた。しかし、当時の私にとっては、「友達の大切さ」という言葉は、不気味なものと思えた。不気味だと思った理由は、次のことにある。

1 私が子供の頃、親や親戚は「そんなことをすると、人が笑うよ」と言って叱った。この言葉の裏には、「自分の弱いところや醜い感情を感づかれたら、馬鹿にされたり酷い目にあったりするよ。」というメッセージが隠れていると、私には思えた(当時は意識していなかったが)。

 「誰とでも仲間になって、仲良しになりなさい」と「そんなことをしたら、人が笑うよ」という2種類の、矛盾したメッセージを同時に受けて、私は混乱した。

2 私は、ひとりでいるのが苦にならない子供だった。一つには、「場の状況を認知したり判断したりする力が弱すぎて、それらの情報処理を試みるのに手いっぱい→他の児童という情報も加わるとますます混乱→だから一人でいる」という状態だったという事情もある。

親や教師は、「友達を作ろうとしないおまえは、悪い子だ」と主張し続けた。「友達を作る練習」と称して、「毎週土曜日の午後、出来の良い子の家に行き、一緒に遊んでもらうこと」を私に義務付けた。一方で私には、大人が「友達作りを強要する理由」がわけのわからないものに思えた。
 大人側の、ホンネの理由は次のBとCがメインだと(少なくとも私は)思う。しかし、このホンネを大人は明かさない。理由Aという建前を、大人は主張したがる。「理由BやCを大人が要求している」と思うことを、大人は許さない。理由Aを満たすことができない私は、人間として欠陥があるのだとずっと思っていた。

A「一緒にいて楽しい」から、友達を作る

B 友達がいなかったら、社会性が身に付かなくなる。だから、「社会性を身につけるお道具」として、友達が必要。
C 友達がいなかったら、周りから浮き上がらないための情報が得られなくなる。また、友達のいない人は、信用されていない人だというふうに思われる。このように、「世間体を守るための手段」として、友達が必要。

 

「友達ができないのは、あなたの考え方や感じ方が他の人とは変わっているからです。変わっているところをなおして、普通になるように努力しなければいけません。他の人が喜ぶことを話さなければいけません。他の人の気分を害することがあってはいけません。そのようなことができないのは、あなたに思いやりがないからです。」と、私は言われ続けた。
 そしてその結果、「自分が考えたり感じたりすることには、どうせロクなものなんかない。それらが他の人にバレたら、バカにされたり酷い目にあうに決まっている。それだけではない。たった一回でも誰かの気分を害したら、その人は私を許してはくれない。ましてや友達になんかなってもらえない。」という思いをもつようになった。

 友達作りを強要されたのは、私だけではなかったようだ。「友達になろう」と、私に声をかけてくる人が何人かいた。本当に私と友達になりたくて声をかけた人もいた。が、全員が全員そうだというわけではなかった。
 「『友達がいない人は、性格に問題のある人』というふうに思われる。だから、友達を作る必要がある。だけど、他の人にはもうすでに友達ができていて、声をかけづらい。夏炉冬扇は友達がいないようだから、声をかけやすい。」という理由で、声をかける人もいた。
 つまり、「夏炉冬扇に興味・関心を持って近づいたわけではない。世間体を守るための友達作りなんだから、相手は誰だっていい。」ということである。そういう理由で私に近づいた人が、後になってから私に次のような言葉を浴びせたこともある。「夏炉冬扇と友達になっても面白くない。他の人が興味を持っていることを面白がらないなんて、おかしい。」

親や教師からも、「○○さんは優しい人だね。おまえのことをかわいそうだと思ってつきあってくれているんだよ。」などと言われた。
 このようなことを何度かされると、「私と友達になりたい人なんかいるわけない。私に近づく人は、何か下心を持っているに決まっている。」という思いまでが出てくる。

 このような思いにとらわれている状態で「友達を作れ」とか「みんなの輪の中に積極的に入って、協調性や社会性を身につけろ」と要求されても、「協調性や社会性とやらを身につける余裕」なんかない。疑心暗鬼の目で他の人を見てしまうことになる。同時に、他の人の長所や魅力を見逃すことにもつながる。

 

高校卒業まで、このような思いを抱えていた。自分の思考や感情について話すのが怖かった。「黄色い花がある」という言葉なら言えても、「この花きれい」とか「この花好き」とかいったことは、怖くてなかなか言えない状態だった。

大学入学後、恐々「自分の思考や感情」について話すようになった。「黄色い花がある」といった言葉だけでは間が持てなかったからだ。恐々話した事柄だったのだが、その事柄について侮蔑や罵倒の表現が返ってくることは、予想よりもずっと少なかった。逆に「その発想、面白い。あんた、気に入った」とか「あの一言を聞いて、『最初はとっつきにくそうな人と思っていたけど、ひょっとしたら、夏炉冬扇さんって話が通じる人かもしれない』と思った」とか打ち明けられることもあった。

正直言って驚いた。こういう経験が何度か重なって、私の思いも少しずつ変わってきた。

「何回か気に障ることを言ったりしたりしても、許してくれる人もいる。仮に相手の気分を害したとしても、後から反省して、自分の言動をどう変えたらよいかわかったら変えればよい。」とか、「私に近づくのは、私のことを気に入ってくれたからかもしれない。私自身をさらけだしても、この人は私を見下すようなことはしないだろう。」という思いに変わった。思いが変わるまで気長につきあってくれる複数の友人に、私は恵まれた。

読書について - karotousen58のブログ のような感じで、友人が接してくれた。

 

それと同時に、大学という場で、「一人でいることも悪とは限らない」という価値観も許されていたと思う。

私の場合、一人でいる時間がある程度確保できて初めて、「自分の思考・感情がどのようなものであるのか、自分の心の動きがどのようなものであるのか、知ろうとすることを許された」という感じだった。

 「一人でいるのはダメ。外に出て人の気持をわかろうとしなければダメ。」という言葉を、それまでに私はよく聞きました。しかし、私は思うのだ。「自分の気持もわかろうとしたことがなくて、他の人の気持なんかわかるのか?」と。

 一人でいる時間をある程度確保できて初めて、「自分の思考・感情について知ろうとする」「今の自分がよい・悪いという問題ではなく、どうやったら暮らしやすくなるのか考えていく」ということに自分の心や頭が向かっていったように思える。 「一人でいるなんて、無駄に時間を過ごすだけだ」とハタからは思われるかもしれない。しかし、私の頭と心は、一人でいたときにフル回転していたのだと思う。

 自分が楽になった状態で人と接してからのほうが、他の人の良いところに目が向くようになったり、他の人の言動を悪意に解釈することが少なくなるのではないかと思う。 

一人でいるときに「自分の思考・感情について知ろうとする」のみならず、「深めていく」ことの出来る人もいるのかもしれない。元記事の女子児童もそうだったのかもしれない。私の勝手な想像だが。

 

 「友達作りを強要」とか「一人でいるのは悪いこと」と声高に主張することが、却って「人に関心を持つことに、恐怖感を持つ」「『孤独を悪と思わない自分は極悪人』という罪悪感を持つ」方向に向かわせることもありうる(少なくとも、私はそうだった)。

「恐怖感や罪悪感を持ってしまったがために、他の人から遠ざかってしまう」ことは、本人にとって不利益となりうるだけではない。本人以外の人にとっても、不利益となっているのかもしれない。

「一人でいるのは悪いこと」「一人でいるような人は、人との関わり方を学べていない人」といった類の決めつけを疑ってみることは、これまで遠ざけていた人とつながるきっかけになりうるかもしれない。その「これまで遠ざけていた人」は、実は、「一人でいるときに、いろいろと内面を深めていた」人かもしれない。

ひょっとしたら、「一人はダメだよ教を絶対視しない態度」は、本人にとっても周りの人にとっても「自らの生活」を豊かにすることにつながるのかもしれない。

 

(このシリーズひとまず完結)