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karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

ウヤムヤな状態にある、「障害児と健常児が共に学ぶ教育」概念 5

今回は、「障害者権利条約や合理的配慮に関する解釈」へのウヤムヤ状態について書く。

 

合理的配慮とはどんなことなのか? おそらく、人によって思い浮かべる内容はバラバラな状態にあると思う。

 統合教育崇拝者が思い浮かべる「合理的配慮」像は、各種メディアや世間一般にも大きな影響を与えうる。この「合理的配慮」像が、宣伝文句的に都合よく使われているのでは? と私には思える。厳しい言い方をすると、「温情主義を合理的配慮と言いくるめている」「温情主義が、非障害者には『特別扱い』に見えているケース多し」状態なのでは? と私には思える。

それだけではない。ここでいう「障害」が「発達障害」である場合、話は更に複雑になる。発達障害業界関係者が思い浮かべる「合理的配慮」像も関係してくるからだ。

統合教育崇拝者が、「発達障害なんてレッテル貼り。単なる個性に過ぎないものを障害などと言って、図々しい要求をする人たち。」という見解を持っていることはよくある。というより、少なくとも私の観測範囲では、崇拝者のほとんどがそうである。そういう状態だから、「発達障害者が合理的配慮を要求なんて、けしからん」的主張がしばしば彼(女)らからなされる。発達障害業界関係者が持つ合理的配慮像は、当然、統合教育崇拝者の持つそれとは異なる。もっとも、発達障害業界関係者が思い浮かべる「合理的配慮」像も、違うタイプではあるが「温情主義を合理的配慮と言いくるめている」「温情主義が、非障害者には『特別扱い』に見えているケース多し」状態である。

 

合理的配慮に関する記述は、 資料3:合理的配慮について:文部科学省 にある。このサイトでは、障害者の権利に関する条約における「合理的配慮」と出ている。「障害者の権利に関する条約」(以下、「障害者権利条約」)は、「障害の社会モデル」という考え方を大きく取り入れている。

障害者権利条約や社会モデルについては、 用語の説明「障害者権利条約」 - ヒューライツ大阪(一般財団法人アジア・太平洋人権情報センター) の説明がわかりやすい。リンクの貼られている1~5、◎おわりに、コラム1~3も是非読んでほしい。障害者権利条約は、「障害のある人を、"保護の対象"から"権利の主体"へ転換することを宣言するもの」であり「社会モデルに基づくもの」という説明がなされている。

合理的配慮や社会モデルについては、 http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/kacho_hearing/d-17/pdf/s2-1.pdf という記事の説明がわかりやすい。この記事には、「配慮の平等」についても書かれている。「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」ではなく、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」という提言がなされている。駅の階段とエレベーターを例に挙げて。この提言は重要だと私は思う。

 

障害者権利条約や合理的配慮は、障害児に対して適用しようとする際には、やはり「学校教育」と結び付けられて語られることが多い。「学校教育と結びついた障害関連啓発イベント」の類が、統合教育崇拝者によってなされるケースは多い。しかし、障害者権利条約や合理的配慮について「統合教育崇拝者が持っているイメージ」は、実は次のような怪しさの隠れたものではないだろうか? と私は疑っている。

・「障害者が権利の主体であること」や「社会モデル」や「配慮の平等」には関心を持っていないのでは? 

・「自分たちの頭の中にある、ありうべき統合教育/共生像」やその像に合致する障害者の発言には関心を持つ。しかし、それ以外の障害者が現実に受けている処遇については、無関心。

・「自分たちの頭の中にある、ありうべき統合教育/共生像」に基づかないものは、合理的配慮としてはカウントしない。

・「特別支援学級(学校)という制度は、大きいコストを要求している。だから合理的ではない。統合教育で共に学び障害者との接し方を知るほうが、コストがかからなくなる。」という説を、根拠を示さずに垂れ流す。

 統合教育崇拝者が障害者関連イベントあたりで垂れ流す「共生教育」像は、各種メディアや世間一般に大きな影響を与えうる。そのことから考えるに、世間一般で「合理的配慮」という言葉が使われる場合も、前述の「怪しさ」が隠れているのでは? と私は疑っている。発達障害業界においても同様である。疑う理由については、 障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログ や、このシリーズ過去記事で記述。

 

日本の障害者運動で過去に取られていた戦略は、次のようなものである。

・障害をめぐる問題は、障害者の身近にいる市民社会の構成員にとっての問題→障害をめぐる問題とは、障害者の家族や障害者福祉や教育関係者にとって、必要な施策や制度や施設が粗末だという問題として認識。(つまり、障害者本人は、「問題化」や「それに関する検討」のプロセスからは排除されている。)

・障害者が少数派であることを前提とする。(「少数派に対するほうが、社会が支払うコストは小さい」という認識)

・障害者本人が求めているものが、本人以外の人に伝わるとは限らない。支援者側が、非障害者にとって共感や納得の可能とみなしたものだけを取り出す。そしてそれが、障害者本人の感情や思考や行動等を方向づけていく。

統合教育崇拝者も発達障害業界関係者も、この戦略をおそらく今でも取っている。そして、一般市民も、障害者運動や支援や教育に対して、この戦略のイメージを持っている。私はそう考える。

 

このような状態で、「障害者が権利の主体となっていて、社会モデルに基づき、配慮の平等も考慮された」合理的配慮を障害者側が求めたらどうなるか? 図々しい要求とみなされる危険性があると私は思う。

現状では、統合教育崇拝者にせよ発達障害業界関係者にせよ、「合理的配慮」を次のイメージで捉えているのでは? そして、そのイメージは、他の人にも共有されているのでは? と私は疑っている。

「健常者の基準が正常、障害者はそれに合わせる努力が義務付けられる。非障害者はそのための支援や配慮をすべきである。そして、支援や配慮をすることが、障害者の成長のみならず非障害者の成長にもプラスになる。これが合理的配慮である。」というイメージで。

「何か、宗主国と植民地の関係みたいだな」と私は思う。「支援や配慮」といっても、あくまで「健常者中心文化内」でのものである。

 

「障害者が権利の主体となっていて、社会モデルに基づき、配慮の平等も考慮された」合理的配慮とはどんなものか? 

 

障害者の視点や経験を通して、「あたりまえのこととして、意識化さえされてこなかった」主流社会の構成原理やあり方、すなわち「健常者中心文化の、ありよう」を意識化する。

それによって、「健常者を中心とした社会のありかた」や「自分自身のあり方」を再考する。

問題点がいろいろとわかってくる。

問題点を、具体的にどう変えていくか考えていく。 という態度

障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感 - karotousen58のブログ

に基づいたものである。私はそう考える。

 

「日本の障害者運動で過去に取られていた(そして、おそらく今でも取られている)戦略」について、「権利の主体、社会モデル、配慮の平等という観点から再考がなされたか?」ということについて、ウヤムヤな状態にある。そして、その状態で、「障害者権利条約」「合理的配慮」という言葉が一人歩きしている。

この状態だと、「あなたたち障害者のために私たちは合理的配慮をしました。でも、ダメでした。だから問題はあなた個人の側にあります。」という形で片づけるための口実として機能する危険性もあるのでは? と私は考える。

 

(このシリーズひとまず完結)