「好き」は「詳しいのうちのひとつ」
好き≠詳しいということ
http://anond.hatelabo.jp/20130419120014
ああ、これ、私が加害者になっているケースがかなりあると思う。気を付けなければいけない。
私は、人を直感的に判断するのが苦手だ。イケメンだとかスポーツができそうだとか社会的地位が高そうだとか、そういった「第一印象」のような判断がすばやくできない。
そのかわりに、「その人が好きなこと・もの、その人が大切にしていること・もの」が判断の基準となってしまっているようなのだ。
どうやら私は、「相手に沸いた感情そのもの(元記事では「好き」と表現)」よりも、「相手に沸いた感情そのものの、背景にある(と思われる)論理」に過度に関心が向いてしまう人間のようだ。
そして、背景にある(と私が思った)論理が、判断の基準となってしまっているようなのだ。
私が「論理の構造を知りたい」という思いにとらわれている一方で、相手は「感動や感想そのものに関心が向いている」状態なのかもしれない。
私のこういう態度が、相手を傷つけることがあるんだろうな。気を付けなければ。
おそらく、私の中に次のような思い込みがあるんだろうな。
・人間の感情には、たいていの場合それなりの論理が含まれている(「これこれだから」好き・嫌、というふうに)。
・人が本などに気持ちが動かされるという場合には、それまでの人生経験の中で、「好き・嫌などの感情や似たような思いをもったこと」が契機となって反応している。
・例えば、「おもしろかった」という感想を相手も自分も持ったという場合でも、相手の感じた「おもしろさ」と自分のそれとは違う。
「どこが、どのようにおもしろいのか」を説明するとなれば、強く惹かれた部分や説明する際の論理展開や表現方法などが、おそらくは違ってくる。 これらの背景について、話をするのも聞くのもおもしろい。同じ感想をもたなかった場合でも、背景について話をするのも聞くのもおもしろい。
ただし、私は、「好き」は「詳しいのうちのひとつ」だと思っている。
「読書という行為には魅力がある。読書好きな人とは、その魅力があるということがわかるような実力がある人だ」と私は思っているから。
魅力のわかる人は素敵だと思う。
だから、元記事の「そんなので読書が好きって言えるの?」といった類の返事には、疑問がある。