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「『病気や障害の受容』(とやら)が出来ていない」と言われるけどさ 1

 

口唇口蓋裂を受け入れられなかった家族 : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

家族の感情を、私的行為として切捨てなら疑問。それを引き起こした原因の1つは、「身体的差異への社会的意味づけによって起こされる、否定的感情」では?その場合、政治的公的な問題(障害の社会的制約)としても要検討

2017/11/18 02:15

  

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"治すことができます"の内容は、医師と世間一般とで認識が異ならないか?私はてんかん患者。てんかんの場合は異なっている場合多。「治る」の世間一般認識は「薬なしで発作も無」。医師側は「薬で発作抑制」認識

2017/11/18 02:46

 Yahoo!ニュースについたブクマ。こちらのほうがコメント多数。元記事が削除されている。

はてなブックマーク - 奇形の顔「受け入れられない」…家族が手術拒否、ミルク飲めず赤ちゃん餓死 (読売新聞(ヨミドクター)) - Yahoo!ニュース

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断っておくが、この家族が取った行動を私は支持しない。ただ、「治るんだから問題ないだろ」トーンのコメントや 元記事の一部に疑問を感じる。

患者や家族以外の人には、「治る」という言葉は「客観的な表現」と解釈されているのかもしれない。しかし、私にはそうとは思えない。「強い権力を有する側から発された、『治る』という言葉」が、「しばしば政治的意味を持つ(客観的ではなく、個人的主観的世界に基づいたものとして作用する)」ことがある。

「治る」の定義権を握っているのは、患者の側ではない。また、「診断名が付く、告知する」という行為は「医学的事実」を述べているだけではないことも多い。社会的処遇についての所見も同時に述べることになる場合も多いからだ。例えば、「インフルエンザ」という診断名ならば、「『解熱後2日が経過かつ発症後5日が経過』という条件を満たさないと、登校できない」というふうに。

この「社会的処遇」が「医学的処置」だけで決定されるとは、私には思えない。多くの「社会的な要因」や「いろいろな人による、異なる状況判断」が入り込むと思う。「入り込んだもの」の中に、家族を追い詰めたものがないのか? それも考える必要があると思う。

元記事の次の部分に、私は疑問を感じている。

考えたくはありませんが、もしや医師の中にも、手術を拒否した家族に共感した人がいた、ということはないでしょうか?

 私は今になって思います。もっと別な方法はなかったのだろうかと。たとえば、障害とともに生きている子どもとか、先天性の病気を治して生きている子どもやその親たちを実際に見てもらえば、赤ちゃんの家族も手術を受けさせる気になったのではないか。

私は、家族の行動を支持できない。しかし、「行動の裏に隠れていた感情」を、「ひどい人が持っていた、私的な感情。この感情に共感する人は残酷。」として切り捨てたくない。「行動の裏に隠れていた感情」のうちの一つが、「『身体的差異に対する社会的な意味づけ(特に、スティグマ的なもの)』によって起こされる、否定的感情」だったのでは? と私はひそかに疑っている。

更に、「社会的な意味づけ(特に、スティグマ的なもの)」にまつわる困難の軽減や解消は、本人だけに課されるものなのか? 「そうせざるをえなかった人が生み出した『対処方法の豊かさ』を高く評価することによって、そうせざるを得ない状況に追いやった社会を免罪」方向に拍車がかかる危険性はないのか? という疑問が私の中にある。

 

私はてんかん患者。「赤ちゃんの顔を受け入れられない」という記述で、「てんかん発作はグロテスクだから受け入れられない」といろいろな人から言われたことを思い出した。また、「治るんだから問題ないだろ」トーンのコメントで、「薬を飲みさえすれば、てんかんは治る」という言葉に隠れた「医学的処置」「社会的な要因」「いろいろな人による、異なる状況判断」に振り回された過去を思い出した。

これらの経験から、「『身体的差異に対する社会的な意味づけ(特に、スティグマ的なもの)』によって起こされる、否定的感情」は、この家族にだけ存在するものとは私には思えない。また、「社会を免罪」空気も感じる。

 

「『病気や障害の受容』(とやら)が できていない」という類の発言が、患者や家族に対してなされることがしばしばある。その際、「患者や家族の中にあるかもしれない思いを、想像してみよう」という態度が取られることは稀だと私は思っている。「前向きに受け止めればいいだけじゃありませんか。差別というのも、後ろ向きな感情の問題ですよ。」というふうに処理されることが、しょっちゅうある。

では、「患者や家族の中にあるかもしれない思い」とはどんなものなのか? 私の場合は、次のような思いについて考える必要があった。

  1. 「治る」というのはどういうことなのか? 医師や家族や周囲の人が語る「治る」像が、時や場所や場合が変わると二転三転するぞ。
  2. 「治るんだからいいでしょ」という言葉が、患者を黙らせるために使われるケースもある。
  3. 合理的配慮を受けるには、自分に障害や病気があることを相手に知らせる必要がある。しかし、そのことが差別や偏見につながる場合もある(特に、外部からはわかりにくい障害や病気)。こうした状況では、差別や偏見のリスクと引き換えに合理的配慮を要求するか否かという、苦しい選択を迫られる。
  4. 「相手に知らせる努力や自助努力は不要」と主張しているわけではない。ただ、それを担っているのが「もっぱら個人である」というのはどうなのか?

 元記事に出ていた「食道閉鎖や口唇口蓋裂」について、1.や2.の追い詰め方がなされていないか? それが気になる。

 

私の経験について書く。

 1981年、高2のときに発症。当時、てんかんの人は自動車運転免許取得が禁止されていた。取得が認められていない資格や就くことができない職業も少なからず存在した。当時は、薬剤師などの医療系資格も取得できなかった(制度上は、大学や短大の医療系学部への進学と資格試験合格は可能だった。しかし、資格取得は禁止されていた)。

患者によっては、「家族の持つ偏見」という条件も加わる。私の親もそうだった(今でもそう)。「おまえのはてんかんなんかではなく、心因性てんかん性発作だ。」と今でも言い続けている。高校へ提出する診断書には、「てんかんではなく「けいれん発作」と書くように、親が希望した。主治医も、私には病名をはっきりと告げなかった。

「ほぼ間違いなく、てんかんだろうな。病院で受ける検査用書類に『抗てんかん剤』と書いてあるし。てんかん関連の本で見た、検査や治療方針から考えても。」と私は思っていたが。

そして、月1回地元の総合病院への通院が義務付けられていた。その診療科で診察がなされるのは火曜と木曜だけだった。だから、特定の曜日の授業を欠席することになった。また、水泳やマラソンや登山や一部の校外行事への参加を禁止された。そのことについて、高校に報告する必要が出てきた。

親は私に、「学校には、てんかんなんて言うな。」と命令した。この病名を隠した報告を試みたら、特定曜日の授業担当教諭や体育教師や担任から、嫌疑をかけられた。「校外行事をサボってガリ勉か。」と嫌味を言われたこともあった。

 

1.てんかんの場合、「薬を飲みさえすれば治る」という物言いがなされることが多い。私もそのように主治医から言われた。

だが、当時は、「どういう状態になることを以て『治る』というのか?」これがあいまいにされてしまうことがほとんどだった。「薬を飲みさえすれば治る」と告げられた直後に、「自動車運転免許を取ってはダメだよ」とも告げられた。「本当に治るのなら、ずっと後に自動車運転免許が取れるはずだろ? 」「結局、病名はてんかんなのか? それとも違うものなのか? てんかんだからダメということなんだろ?」と私は思った。

主治医に尋ねたら、「『治る』というのは、『服薬によって、発作が長期間起こらない状態が続くこと』」という答えだった。「長期間」という表現が、曖昧ないいかげんなものに私には思えた。

自動車運転免許との関係について尋ねたら、「自動車運転免許が取れるのは、『薬を飲まなくても発作が起こらない』場合だけ。だからあきらめなさい。」という答えだった。

「それなら、『治らない』と考えたほうが正しいということですか?」と「結局、病名はてんかんなのですか?」と私は尋ねた。主治医は答えた。「世間一般の『治る』は、薬を飲まなくてもよくなることなの。あなたはしつこい。」と。

 高2といえば、多くの人にとっては将来への具体的進路検討や決定と重なる時期である。私は理数系科目が好きだった。担任は私に、医療系学部進学を勧めた。親もそれに賛成した。てんかんだと、医療系資格は取れなくなる。だから私は、医療系進路を拒んだ。

親が偏見を持っているから、高校には病名を明かせない。病名を知らない高校側は、医療系学部進学に対して障壁はないと考えただろう。「てんかん」を認めない親も、「医療系資格が取れない」なんてことは夢にも思っていなかっただろう。

てんかんだと医療系資格が取れない」ことを、確認する必要がある。私はそう考えて、主治医に相談した。しかし、このときも主治医は「治る」解釈を変えてきた。

「薬を飲んで発作が長期間起こらないのなら、入学も資格試験合格もできる。だから、進学に問題はない。資格取得についてはその後の問題。」という答えが返った。それなら、私の病気は「てんかん」ではないということなのか? てんかんではないのなら、自動車運転免許関連話のときと説明が矛盾するぞ。私は思った。しかし、そのときも病名はうやむやにされた。

 

2.「『治るんだからいいでしょ』という言葉が、患者を黙らせるために使われるケース」について

「薬を飲みさえすれば、発作は起こらなくなる。そして普通に暮らせる。つまり、治るんだからいいでしょ。」と世間一般では思われているようだ。
本当のことを言うと、この言葉は正しいとは言い切れない。
しかし、「正しいとは言い切れない」という発言を、患者本人や患者の家族がすることは、タブーとされている。

「治るんだからいいでしょ」という言葉によって、次の3つの事柄は「存在しない」ことにされてしまう。

  • 「薬を飲んでいても、発作が出てしまう」難治性のてんかん患者もいること
  • 障害者手帳障害年金などを検討しようにも、「薬飲みさえすれば、普通に暮らせるんでしょ」で片づけられて利用できないケースが多いこと
  • 服薬中の状態にある場合でも、移動手段等について便宜がはかられることがほとんどないこと

「薬を飲んでいても、発作が出てしまう」難治性の患者は、本当に隠された存在になっている。
30年以上前からの患者である私でも、ネットが普及して初めて、難治性の患者によるコメントを知ったぐらいだから。彼(女)らのほとんどが、「ネットが普及して初めて、意見を発表できるようになった。『きちんと服薬しているが、時々発作がある』発言は、リアルでは許してもらえない。」と書いていた。

(念のための注 ネット上の記述を読む限りでは、その難治性患者らが不摂生な生活をしていたとは思えない。むしろ、きちんとした生活習慣を心がけていたと思われる人がほとんどだった。)
難治性の患者が、タブーを犯して発言→他の患者や患者の家族や、医療関係者から叩かれる→ブログやサイトを閉鎖
という実例を、私は何度か見た。

その後、「全身けいれんではないタイプの発作」や「薬を飲んでいても、発作が出てしまう」患者について、思いもよらないことがきっかけで可視化されてしまった。2012年4月、京都祇園でのワゴン車暴走事故である。逆に言うと、この事故までずっと、「隠された存在だった」ということになる。

「他の人に、余分なことをベラベラしゃべるんじゃありません。『発作は派手だけど服薬さえすればいいのです』これ以外のことは、知られなくていいのです。」と彼(女)らは言われまくっていたらしい(ネット上の記述によると)。

 

3.配慮や「相手に知らせる努力」について

 日本の田舎では、「成人は車を運転することが前提となっている」と言わんばかりの生活設計がなされている。日本の田舎に住んでいる成人が自動車運転免許を持たない場合、「持たない理由を説明する責任」を課せられることになる。

田舎では、「自動車運転免許を持たない人が職を得る」ことは困難である。職を得たとしても、業務の上でいろいろと支障をきたすことがある。「取らなきゃ不便だよ。あなたのために忠告しているんだよ。」という言葉、いろいろな人から発せられる。取らない理由もしょっちゅう訊かれる。

他の人が運転する車に同乗する際に次の言葉を浴びたことのある人を、私は複数知っている。「加害者になる危険性を持たないポジションにいられる、優雅なご身分だな。そこまでして善人ヅラしたいのか。」

かと言って、病名をカミングアウトするのも危険である。解雇される危険性が高い。病名を隠したうえで取らない理由を説明する、ややこしいことになる。

もう一つ。運転免許証は、本人確認書類としてよく利用される。田舎では、本人確認書類として運転免許証以外のものを提示すると、嫌な顔をされる。
「運転免許証が取れないような、変な理由を持った奴に違いない」という認識がなされるらしい。

 

長々と書いたが、今回の記事で主張したかったのは次のことである。

  • 「病気や障害/そうではない状態」の間に引かれている(と思われている)境界。境界の移動を決めるのは「医学的処置」だけではない。「社会的な要因」や「いろいろな人による、異なる状況判断」も多く入り込んでいる。
  • その「多く入り込んだもの」にまつわる困難が存在するのでは? そしてそれらの解消や軽減は本人や家族だけがするものなのか? それらの検討を外して「病気や障害の受容」と主張するのなら、無理がある。 
  • それらの検討がなされない場合、「そうせざるをえなかった人が生み出した『対処方法の豊かさ』を高く評価することによって、そうせざるを得ない状況に追いやった社会を免罪」方向に拍車がかかる危険性がある。

次回は、「拍車がかかる危険性」などについて詳しく書く予定。