「アスペルガー症候群バッジ」に対する疑念 2
アスペルガー症候群の人間には、そうと分かるバッジを付けさせろ - Whatever
私のブクマコメント
「理解」像が不明。誰がどういう立場から理解しようとして、どんなことがわかったら理解したことになるのか?それらの内容によっては、「理解」は危険な言葉になりうる。他にも疑問あり。後で拙ブログに書く予定。
「理解」という言葉に対して、私が持っているイメージ
・「相手を理解する」ということは、「自分の解釈という枠組の下で、相手を理解する」ということ。
・「相手をどのように理解したか」ということは、すなわち、「相手をそのように理解した、自分自身」の「人に対する見方や枠組」を表すことでもある。
・そのような「相手を見る視点」というものは、一朝一夕にできたものではない。そして、「一度できたらもう変わらない」というものでもない。
では、「アスペルガー症候群本人以外の人」の「アスペルガー症候群本人に対する、見方や枠組み」はどのようなものなのか? 一般社会内にせよ発達障害関連団体内にせよ、私には、次の「残念な二択」になっているように思えて仕方がない。
1.アスペルガー症候群本人は、コミュニケーション能力のない人だ。だから、アスペルガー症候群本人と本人以外の人との間に、「逸脱や問題(と呼ばれたこと)が起こった場合には、その原因や責任はアスペルガー症候群本人にあることになる。
↓
アスペルガー症候群本人が我々非アスペルガー症候群の人間と接する際には、「非アスペルガー症候群の常識」を学び取る必要がある。彼(女)らの常識と我々の常識が異なっている場合は、躊躇なく彼(女)らの常識を捨てさせるべきだ。我々非アスペルガー症候群の人間側も歩み寄って、常識を知るための手助けをしてあげる。ただし、「うちらの世界」が侵されない限りにおいて。
↓
この手助けを続けていくと、アスペルガー症候群本人が成長していくのみならず、我々の成長にもプラスになる。
2.障がい者というなのストーカーの、支援者のとっているような態度。「アスペルガー症候群の人は、こういう人。だから、何をやっても無駄。我々が慣れるしかない。」という見方。
1も2も、次の点では共通している。
・援助や理解をされる対象はアスペルガー症候群本人。援助や理解をするのは非アスペルガー症候群側。
・「逸脱や問題(と呼ばれたこと)」は、誰にとってのどんな「逸脱や問題(と呼ばれたこと)」なのか。それを決めるのは非アスペルガー症候群側。そして、それらには、「アスペルガー症候群本人以外の思惑、集団や制度等の絡んださまざまな言説や行動」が積み重なっている。
この「残念な二択」の状態で「アスペルガー症候群バッジ」を使うのは、危険だと私は思う。非アスペルガー症候群サイドの運用がなされることが予想できるから。
この「残念な二択」以外の「理解」像として
「アスペルガー症候群本人の抱えている生きづらさを軽減する方法を考えていく。ただし、生きづらさの軽減は、「利己的なもの」が目的ではない。本人に余裕がない状態よりも、余裕のある状態で人や社会と接するほうがお互いの生き方が豊かなものになりうる。勿論、アスペルガー症候群本人側が非アスペルガー症候群の人の生きづらさについて考えるのも必要。
という「理解」像
これが望ましいと、私は考えている。
私の勝手な想像だが、元記事のブログ主は、次のようなイメージで「アスペルガー症候群バッジ」を提唱したのかもしれない。
before:生きづらさを抱えた、アスペルガー症候群本人
↓ 本人の自助努力、周りの人の理解・支援
after:生きづらさが軽減された状態
ここで示される、「生きづらさ」→「解放」という図式で考えて行き詰っている。そこで、思いつく一つの方法として、「アスペルガー症候群バッジ」を使うことがあげられる。
というイメージで。
私はこの「生きづらさ」→「解放」を、次のようなイメージで考えている。
before:生きづらさを抱えた、アスペルガー症候群本人
↓
問題を立てる:「生きづらさはどこから来るのか」という問題がたてられる。
↓
問題解決の方法を検討
↓
after:生きづらさが軽減された状態
つまり、「生きづらさ」→「問題化」→「軽減」の道筋を検討するということである。「生きづらさ」はまず、「問題」としてたてられる必要が出てくるということである。
ここで、「残念な二択」の状態で「問題化」を行うのは危険だと私は思う。
次回は、この「問題化」について書く予定。