karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

今週のお題「私のブログ・ネット大賞2016」

今週のお題「私のブログ・ネット大賞2016」

 

今年一番印象に残った記事は、はてな匿名ダイアリー2016/02/24付記事「WHY Not Smile」

http://anond.hatelabo.jp/20160224211408 である。

anond.hatelabo.jp

この記事に対して私は、コメント付きのはてなブックマークもした。

「ダメな自分も頑張れば抜け出せる」のではなく、「今のままの自分にも、気付いてなかった力がある」と認識できて自信となるのかも。「自分が欠点だと思っていたことが、意外な観点から高評価」もそれにつながりうる

というコメントを付けた。

この記事が印象に残った理由は、「自己肯定感とか他人から認められるとかいったことって、こういうことでもあるのかもしれない。」と読んだ後に思ったからだ。

 

「『自己肯定感や他人から認められた経験が、(特に成人)発達障害者の場合は乏しいことが多い。成人発達障害者の轍を踏まないように、発達障害の子供には、努力して成功した体験を積ませたり努力して褒められる経験が積み重なるようにすることが望ましい。」という類のコメントが、今まで、いろいろな場でいろいろな人から出されている。

それらのコメントを見聞きするたび、私は違和感を抱いてきた。

 

「笑顔は大切。無表情や無愛想は他人を否定する行為。『笑顔で場の雰囲気をよくして、対人関係を円滑にする。』必要がある。笑顔がぎこちなかったりわざとらしかったりするようでも、ダメ。」という言葉を、私はいろいろな場面で見聞きしてきた。発達障害関連の場で「作り笑顔習得の為のスキル」披露大会がなされるケースも、実際あった。

では、ここでいう「笑顔で雰囲気のよくなっている場」や「円滑な対人関係」では、本当に誰も否定や排除がなされないのか? 答えはノーだ。

「 Why Not Smile での、先生に悩みを打ち明ける前の状態の本人」のようなタイプの人は、言外に「否定や排除」がなされている。しかもそれは、「否定や排除」とはわかりにくい状態にある。何故ならば、「笑顔を浮かべるということは、相手の世界に寄り添うことであり、快適な場の空気を提供する行為」ということが、「日常生活における暗黙のお約束事」となっているから。そして、そのお約束事が侵されるのは「あってはならないこと」であるという前提条件ができてしまったことになる。

ここで、「ぎこちないとかわざとらしいとか思われない(作り)笑顔」ができるようになれば、とりあえず問題は解決されるじゃないかと思われるかもしれない。しかし、それだけでは終わらないと、私は思う。

「笑顔は大切で必要だキャンペーン」がエスカレートしたならば、以前なら「仏頂面ばかりだと損することもあるぞ」「そうか、わかった」程度で終わっていたものが、「(作り)笑顔のできない奴は極悪人」という方向に明示化されたものに変わっていく危険性も大なのでは? 変わっていったならば、相互監視的なものもでてきてしまうのでは? と私は思う。

 

 Why Not Smile では、先生から意外な反応が返ってきたことが書かれている。ここで先生は、「(お約束事としての)笑顔は大切という規範」と「笑顔を浮かべるという行動」以外のことを重視した発言をなさったのでは? と私は勝手に想像している。では、何を重視したのか? それは、「『規範や行動に隠れて、世間的には表面に出てこない価値基準』を意識化して、再検討する」ことである。

この「意識化、再検討」によって、「笑顔を浮かべるという行動」の意味は広がった。そして、「規範に対する評価」が違うものへと変わっていった。私はそう考える。

暗黙のお約束事に隠れた価値基準を絶対視しない態度、その価値基準その価値基準が造られていった過程や意味をいろいろな角度から考えてみること、こういった態度も重要かもしれない。「自分が欠点だと思っていたことが、意外な観点から高評価される」というのも、こういった態度の一つなのだなと思った。

こういう態度の下では、「無表情で愛想のない最低の人間」という評価だけでは終わらず、「『コミュニケーションのふくらみや楽しさ』を生み出す可能性も持つ人」という評価が生み出される可能性もある。「コミュニケーションのふくらみや楽しさ」が、以外の人にも共有される可能性もありうる。私はそう捉えている。