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「人に迷惑かけていい」と「障害者が声をあげる」の間にあるもの 3

 

はてなブックマーク - News Up 「人に迷惑かけていい」40年前のドラマにいま、共感 | NHKニュース

この記事と搭乗拒否事件とのブコメ反応に温度差を感じる。この記事では「私的な人間関係の中で『優しさ/ふれあい』によって問題解決」重視、搭乗拒否事件では「各種機関の責務や制度も要再検討」と障害者側が主張故?

2017/08/01 01:43

 

はてなブックマーク - News Up 「人に迷惑かけていい」40年前のドラマにいま、共感 | NHKニュース

 

 

山田 太一さん|証言|NHK 戦後史証言アーカイブス

障害者の声を聞き取った者が、どんな立ち位置にいるかが不問にされているケース多し。「声」は、聞き手が本人に期待する事柄によって、不採用のリスク有。その辛さを無視した「迷惑かけていい」なら脅威ともなりうる

2017/07/28 00:41

前々回と前回の記事で、「降板させられる声」「主役に抜擢される声」「声の無効化」「障害者のための恩恵的な福祉」「『他の者との平等』を基盤とした、権利に基づく福祉」について書いた。

今回は、「障害者の声を受信/発信すること」と「誰のための支援か」ということについて書く。

 

1.「降板させられる」「主役に抜擢される」以前に、「声をあげられる状態になっていない」ケースもある。

 

「声をあげる」ということは、障害者本人にとって、どういうことなのか。次のようなことだと私は考える。

「本人が必要性を感じているときに、何らかの特別なサポートがなされる→そのことによって、非障害者との平等を基盤とした暮らしを行う」ことを願っての行為と。

そして、「平等に暮らしたい。しかし、社会には障害に対する偏見や差別がある。それらを気にせず生きていたい。」という思いを持つことも、正当なことである。

しかし、障害者の中には、「自らが感じた必要性やそれに対する思いが、正当なものである」という感覚を持てない(というより、「これまでずっと持たせてもらえなかった」だと私は思っているが)状態の人もいる。

「自らが感じている必要性を表明することについて、不安感や抵抗感がある」「障壁が除去されたらどんな状態になるのか、全く想像がつかない」という状態なのかもしれない。

  

障害者が感じている「ハンディ」には、次の2種類のものがある。一つは「機能的な制約」、もう一つは「社会関係的な制約」である。私はそう考える。

・「機能的な制約」の例:読み書き計算がうまくできない故、説明書が理解困難などの不便さを感じる。

・「社会関係的な制約」の例:「ひきこもり」のまわりにあるもの 2 - karotousen58のブログで書いたエピソードのような、「機能的な制約の影響で、他人に被害感情が喚起される。被害感情にかられた人が、障害者本人に対して制裁を加えることもしばしば。そして、本人も罪悪感にさいなまされる。」こと。

 

クラス全員で文化祭の準備に勤しんでいるときに、自分が行動しても何一つうまくいかない。ついには何かに躓いて倒れこみ、他人の作業の成果まで破壊してしまう。自分ひとりで後始末できるわけもなく、予定を延長して他の生徒が補修するハメになる。こうして、他人の怒りを買うことになる。 「あいつは他人に迷惑をかけている。何故俺たちがとばっちりを食わなければならないんだ。許せない。」と。

「ひきこもり」のまわりにあるもの 2 - karotousen58のブログ

 「(自称)支援者や(自称)理解者」が、「社会関係的な制約」を否定するケース、これはよくある。「プライドが高い」とか「要は、勇気がないんでしょ」とか「人の目を気にしすぎる、ええかっこしいだね」とか言われたと、私に打ち明けてくれた障害者が少なからず存在する。知的障害者精神障害者発達障害者の場合は更に、「障害の特性故の、偏った認知だね」などと勝手に決めつけられる場合もある。

「機能的な制約なら、傷つくのは自分だ。だけど、社会関係的な制約だと、自分以外の人も傷つく。後者はもっと辛い。」という思いを、障害者本人が持っていることは多い。

前回書いたことを繰り返すが、

障害者が自分の「声」を聞いてもらうためには、「自分の『声』が正当であること」を提示しなければならないということになる。提示に失敗したら、「自覚と自己管理に失敗しておきながら、他人や社会に何かを要求しようなんて、甘え。」と認識されてしまう。しかし、その「正当性」は、「非障害者中心主義や能力主義等によって台無しにされ続けてきたもの」と私には思えるのだが。

「声」の正当性を求める以前に、「『声』を聞く側の立ち位置や、聞き手が障害者本人に期待していること」について非障害者側が見つめなおしてみることも、必要だ。私はそう考える。

 

2.誰のための支援か

社会環境整備や支援は、

・障害者のために非障害者が行う特別な救済活動へと、つなげるものなのか?

・多様な人々にとって助けになったり役立ったりする活動へと、つなげるものなのか?

も考える必要がある。

社会制度や技術や設備が、どういうモデルで作られているか?「平均的な標準的な人」をモデルとして作られていた場合、それに合致しない人が出てくるケースも考えられる。

ここで、「平均的な標準的な人」の内実がどんなものなのかが問題となってくる。

「平均的な標準的な人をモデルに」というのが、実は、「実際にはほとんど存在しない、標準さんをモデルに」だったというケースも、ありうるのでは? (平均や標準について、誰がいつどこで「これが平均や標準だ」と確かめ合ったのか? むしろ、先にいろいろと分けておいてから、「これが平均や標準」というあべこべな決めつけをしているケースもあるのでは?) 

と私は考える。

「実際にはほとんど存在しない、標準さん」をモデルにして作ると、多くの人が困難を感じることにもなりうる。そうではなくて、「人によっては、こういう困難もありうるかもしれない」といったことをいろいろと勘案して作る策を取ったらどうなるか? 

ひょっとしたら、「何らかの特性を持つ人にとって使いやすい」だけではなく、他の人にとっても使いやすいものとなりうるかもしれない。

 

3.「声」の発信と受信→新たな関係性の構築

  

前々回と前回の記事で、「『援助が受けられるか否かは、障害者側の援助要請スキルにかかっている』という認識」について批判的に書いた。

障害者が「声」をあげたとき、「具体的な援助行動」以外にも何か変化が起こる。それはどういうことか?

答えは「発信した側と受診した側との間で、新たな関係性が構築される。」ということだ。私はそう考える。

新たな関係性を構築するには、発信した側にも受信した側にも何らかの変化が求められる。

嘲笑や揶揄や偏見等が現実に存在する中で、障害者が「声」を発信する。発信することによって、不可逆的な第一歩が始まる。

他方で、受信した側には、「発信された『声』をどのように受け止めどのように解釈したか、それを考えていくこと。」ことが求められる。

発信した側にとっては「考えざるをえないできた問題」、それを「声」としてあげる。その「声」は、受信した側にとっては「考えなくても済んできた問題」。「考えなくても済んできた」側の立ち位置について、考えるきっかけとなる。

そして、「考えざるを得ないできた発信者」と「考えなくても住んできた受信者」との間に、新たな関係性を構築することになる。

 

「発信された『声』をどのように受け止めどのように解釈したか、その解釈に偏向はないのか、受信した側が自らの生き方や価値観を再考すること。」が、受信した側に必要だ。私はそう考える。

・発信した側が、何故、『声』をあげなければならなかったのか。そして、どんなことを願っていたのか。受信した側がそれらの原点に立ち戻る。

・受信した側は、発信した側に対して何を期待しているのか。そして、受信した側が期待しているものや価値観によって、聞く価値のある「声」とそうでない「声」とに分けていないか。それを考える。

という視点が必要だと思う。

勿論、「新たな関係性を、作っていく(どちらか一方だけが作っていくというわけではない)」という認識は、発信した側にも必要である。

そして、そのことは「障害者が声をあげる」以外のいろいろな場面でも当てはまることだと思う。

  

(ひとまず完結)