karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

発達障害者と「暗黙の了解」との間

 

 

 

発達障害の子への障害告知とセルフアウェアネス~自分の強みを知っている事の大切さ~ - ひろげていこう 発達障害のWA!~「困ってる子」という視点からの支援~

「告知」からずれたコメントを。暗黙の了解が理解困難、「太ってますね」発言は、悪気がなくて正直なだけ→代わりの行動を の間には「何か」有。その「何か」が、現場では非発達障害者サイドで語られている。疑問有

2016/02/25 02:12

「何か」の中身を、夏炉冬扇による語りとして書いてみる。今週のお題「憧れの人」 - karotousen58のブログと重なる部分もあるが。

 

暗黙の社会のルールに気づくのが苦手なアスペルガーの子は、太ってる人に「太ってますね」なんて言っちゃいますよね。でもこれ悪気がなくて、正直なだけなんですよね。悪気がないからと言って人を傷つけていいわけではありません。でも、「正直である事」は否定すべき・修正すべき行いですか?違いますよね。だから「そんな事言っちゃいけません」では正直である事を否定してしまいアスペルガーの子にとっては問題解決にはならないんですよね。そんな時に必要なのは「代わり」の行動を教えてあげる事なんです。

息子の学校では、「自分以外の人達の考え方を知って、自分を見つめ、自分を知る」というセルフアウェアネスという方法と「自分と他者の立場を知った上で、どう行動すれば自分も周りの人達も気持良く過ごせるか」という、問題解決の為のコーピングスキルという事を息子の社会性の向上を目指すプログラムとして取り入れています。

 

 発達障害系の人の場合、「太ってますね」という発言を「悪意の有無」という観点以外からも考える必要があると私は思う。次のようなケースが本当にあるから。

1.今週のお題「憧れの人」 - karotousen58のブログで述べた、相撲好きな子の事例。(「太っている」という表現に、好意的な価値判断が隠れている。)

2.これは私の本心。「『太っていることや、脚が短いことや、女性の肌が黒っぽいことなどは、美醜の観点からは好ましくないことだ』という価値判断が、正しいことになっている」ということが、感覚的に腑に落ちない。「人の身体は千差万別。それらは身体の特徴のうちの一つであるというだけで、それを超えているものでもそれ未満でもない。それに対して、個人的に美醜の基準を持つというのならわかる。しかし、どうして、世間一般の基準などというものまでが押し付けられるのかわからない。「単なる、特徴のうちの一つ」に対して、「世間一般的に、好ましいとか好ましくない」という価値判断をわざわざくっつけることのほうが、失礼だと思う。

 

 ブックマーク元の記事では、「息子を否定していない」「自分以外の人達の考え方を知って」「ありのままの自分」という記述が出てくる。

ここで、私は疑問を持ってしまうのだ。「太っていることは、好ましくないことである」という価値観を外れたものは、「自分以外の人達の考え方」「ありのままの自分」のうちのひとつとしてカウントされうるのだろうか? ひょっとしたら、支援者的ポジションの人は、「その価値観を外れた考えなんて、ありえないし許されない。」とでもお思いなのではなかろうか? という疑問を。

 

「『太ってますね』と言われたら傷つく。そのことをみんなは、いちいち教わらなくてもわかる。わからないのは、発達障害があるからだ。だから、面倒でもいちいち教えてあげなければいけないのだ。価値観を外れた考えなんて、屁理屈だ。」という反論もあるかもしれない。

しかし、「『わからない』の背景にある事柄は、発達障害者本人にとっては無視できない事柄だ」という思いが私にはある。

「太っていることは、好ましくないことである」という価値観が伝達される際、「太っていると発言した側と発言された側それぞれの、口調や表情などの非言語性情報」も含めた、いろいろな情報がやりとりされる。

発達障害系の人の中には、その際、「非言語性情報」を読み取ることに難儀する人もいる。私がそのうちの一人である。「太っている人は、かっこ悪い」という類の罵倒がなされるとか、マスコミがダイエットを煽るとかいった、他の情報が入って、「どうやら、(今の日本の)世間一般では、太っていることは好ましくないという価値観が主流となっているらしい」と認識することになる。人によっては、「それでも、その価値観は腑に落ちない」という思いも同時に持つことになる。

他の情報が入ってくる場合は、まだよい。「他の情報が見つからない事柄に対して、暗黙のお約束事を理解できている自信がない」という思いを、私はいつも抱えている。

「たとえ腑に落ちないとしても、とりあえずルールやパターンとして頭の中に入れる。そうしなければ生きていけないから。」という形で、「太っているのは好ましくないことである。」という価値観をとりあえずインストールする。もう一歩進んだ形として、「他の人の容姿については、自分からは話さないようにしよう。」というスキルをインストールする。こういう方法を、発達障害系の人はおそらく取っている。

一方、その「非言語性情報把握」は、発達障害の傾向が低い人の場合はおそらく瞬間的に無意識的になされる。「言われた人の眉間にしわが寄ったから、まずい発言だったのだろう」などと、いちいち意識して把握するわけではないと思われる。

つまり、「母語ではない言語による会話を、文法を駆使してぎこちなく行う」ことと、「ネイティブスピーカーが、文法をいちいち意識することなく、スラスラと会話していく」ことのような違いがあるのでは……と私には思えて仕方がない。

 

では、「暗黙のお約束事」を把握することが困難な子供だけを集めて、「常識や代わりの行動」を教えれば解決するというものなのだろうか?

おそらく、彼(女)らは、過去にも同じような注意や指摘を何度も周囲の人になされてきているだろう。「どうしてあなたは、そんなに意地悪なの」などと。

「脚が長い人に対しては『脚が長い』と言ってよい。しかし、太っている人に対しては『太ってますね』と言ってはいけない。」などと説明されたら、再度混乱してしまうこともありうるのだ。「脚が長い」とか「太っている」ということに対して、「価値判断がくっついている」ということに混乱してしまうのだ。

 

「人を嫌な気分にしたり傷つけたりすることを言わない」「本音を言ってよいか否かは、場の空気によって決まる」ということは、世間一般において「常識的な規範」となっている。そして、それを犯すことは、あってはならないことである。

という前提条件を、ブックマーク元記事の登場人物は、どうやら共有しているらしい。

そして、その「あってはならないこと」に対して、「礼儀正しくするために、社交辞令を用いる」→「嫌な気分や傷つきを回避」という対策を、登場人物が提供しているらしい。

提供された具体的方法としては、ママや先生や友達と発達障害者本人とで話し合って「嫌な言葉リスト」めいたものを作ったということらしい。この「リスト作成」は、一歩間違えると怖いものになりうるのでは? と私は思った。

・このリストを作った過程において、ママや先生や友達は、「あってはならないこと」を強く認識したことにならないだろうか?

・強く認識したもとでは、「人を嫌な気分にしたり傷つけたりする、意地悪で思いやりのない子」「場の空気が読めない子」「リスト作成などをいちいちやらないといけない、誰かの助けがなければダメな子」というイメージが、発達障害者本人により強く貼り付けられないか? そうなると、自己肯定やありのままの自分どころではなくなるのでは?

・この「あってはならない(とみなされた)こと」に対する、相互監視めいたものが強まらないか?

と思ったのだ。

 

「暗黙のルール」に隠れた価値基準を絶対視しない態度、その価値基準が造られていった過程や意味をいろいろな角度から考えてみること、こういった態度も重要かもしれない。こういう思いから私は、今週のお題「憧れの人」 - karotousen58のブログの記事を書いた。

こういう態度の下では、「場の空気が読めず、トンチンカンな行動を取る発達障害者」という評価だけでは終わらず、「『コミュニケーションのふくらみや楽しさ』を生み出す可能性も持つ人」という評価が生み出される可能性もある。「コミュニケーションのふくらみや楽しさ」が、発達障害者以外の人にも共有される可能性もありうる。私はそう捉えている。

このような段階を経て初めて、

・「正直に話してよい世界」と「社交辞令を使うべき世界」の両方を知る

・社交辞令を使うべき世界での、マニュアルやツールやスキルの研究や使用方法を習得する

ことに対して前向きになれるのではないだろうか? 

そして、発達障害系本人以外の人も、「発達障害系本人を対等な他者として見る」ことにつながっていくのではなかろうか?

私にはそう思える。

今週のお題「バレンタインデー」

今週のお題「バレンタインデー」

 

私は今まで、「バレンタインデー」「ホワイトデー」という国民的行事(?)に参加したことがない。そして、これからも没交渉を貫くつもりである。

没交渉を貫く理由は、私が「日本の贈答文化を理解することが困難な、おバカさんだから」である。

「日本の贈答文化」のどんな点が理解困難なのか。それについて書いてみる。

 

日本の贈答文化は、「贈答、受贈、返礼」の三つの過程から成り立っている(と私は思う)。おそらく、「誰かが誰かに贈り物をする。贈られたほうは『ありがとう』といった類のお礼を言う。それで、はい完了。」とはみなされていない(と私は思う)。

この贈答文化の特徴は、「『贈答』が行われた際に、受贈者側がそれを『義理』と解して、直ちにそれに対して『返礼』を迫られる」ことにある。バレンタインデーやホワイトデーでの贈答も、この文化に組み込まれている。

「そんな、おカタいことを言わなくてもいいじゃないの。贈り物を交換することを通じて、対人関係を円滑にしているだけよ。」という反論もあるだろう。確かに、そういう面がゼロだとは言わない。しかし、私には、この贈り物交換の背後に「ある種の強制力」があるように思える。「参加したことがない。これからも没交渉を貫く。」と私が表明すると、ほとんどの人が驚くことから考えるに。

 

私は、物を贈る行為に対しては「物を贈る→受け取る→はい、完了」型の感性を持つ人間だ。

私は「下心のこもった贈り物」というものが苦手だ。するのもされるのも。私が贈り物をするときは、見返りを求めていることはほとんどない。「受け取る」という行為自体も、お礼のひとつだと思う。「ありがた迷惑」と穏やかに(←ここ重要)告げることも、お礼のひとつだと思う。返礼の品物がなくても、物を贈られたことじたいがうれしかったとか役に立ったとかいう「事実」があったのなら、それだけでうれしいと思う。私はこういう人間だ。

「三つの過程から成り立つ贈答文化」は、私にとっては複雑なものに思える。所謂発達障害系の人の中にも、この贈答文化に戸惑う人が少なからず存在するのでは……私はひそかに疑っている。

 

この贈り物交換は「個人が他の個人と行うもの」ではないように、私には思える。「集団と集団との間で行われているもの」に思える。

この国民的行事(?)での贈り物は、所属集団における「相手の地位」に贈られるのでは? と私はひそかに疑っている。それだけではない。これらの贈り物には、「贈ることによって、相手に『義理』という心理的負担を負わせ、自分が相手よりも心理的に優位な位置に立つ」という意味がつけられているのでは? と私は疑っている。

返礼もまた、(少なくとも私にとっては)厄介な行為である。返礼は、「(地位の反映された)贈り物」に見合ったものでなければならないと思われる。「返礼」の価値がそれを超えたものだと不審に思われる危険性がある。それ未満のものだと、「侮蔑された」と解釈されかねない。

どうやら、この国民的行事(?)での「贈り物交換」には相場めいたものが存在するらしい。

この国民的行事(?)では、ある特定のチョコレートに、変な意味がつけられてしまうようだ。昭和時代なら、チロルチョコに変な意味がつけられていた。今は、ブラックサンダーもそのポジションにあるようだ。

私が一番好きなチョコレートは、チロルチョコである。このチョコレートに変な意味をつけられて消費されるのは、私としてはおもしろくない。

 

この国民的行事(?)に対して、「一度に複数の人から、同じような品物をもらってもうれしいものなのだろうか?」という素朴な疑問を私は持っている。

「参加したことがない。これからも没交渉を貫く。」と私が表明する際には、次の言葉も付けている。

「夏炉冬扇関連でその行事(?)にカネや時間やエネルギーを使わなくていい。それらを他の人に使ってくれたほうが、お互いずっといい。」

今までのところ、没交渉宣言については(少なくとも表面的には)波風は立っていない。

時々、アビリーンのパラドックス - Wikipedia めいたコメントが、私にカミングアウトされることもある。

「本当は面倒と思っている」「受け取らないという選択肢が、事実上ないというのが嫌」とか。

そしてその結果、「職場内でこの行事(?)に関する話が出なくなり、参加者もいなくなった」ということも過去にあった。

「一度に複数の人から、同じような品物をもらってもうれしいものなのだろうか?」この疑問を呈する人、他にはいないのかな? 気になる。

てんかんと救急医療

 

トリアージとは?正しい救急車の使い方 - ナースほど誇れる仕事はありません

私はてんかん患者。1980年代、「所謂てんかん大発作で救急車が呼ばれて、タクシー代わりに呼ぶなと叱られた。」という話を何度か聞いた。この病気の場合、呼ばないと危険な場合も稀にある。一般には知られてないかも

2016/01/28 01:27

てんかんという発作性の病気がある。この病気の発作には、いろいろなものがある。意識消失を伴うものやそうでないもの、けいれんの起こるものやそうでないもの、その他いろいろある。

所謂「てんかん大発作」では、全身けいれんと意識消失を伴う。けいれんや意識消失は、たいていの場合1~2分のうちにおさまる。救急車を呼んだ場合、到着したころには発作はおさまっている。

しかし、稀に、けいれんや意識消失が5分以上続く場合がある。これをてんかん重積状態という。この場合は救急車を呼ばないと危険である。

 

はてなブックマーク元の記事を読んで、

・この「てんかん大発作」が起きている患者を目撃した人が救急車を呼ぶ→救急車が到着したころには患者の意識は戻っている→「意識が戻っているのなら、タクシー代わりに呼ぶな」と叱られる

というケースって、どの程度あるのだろうか? 

・「呼んだ人が叱られる」という、気の毒なケースも結構あるのだろうか?

・「てんかん大発作で、救急車を呼ぶ必要があるかどうか」について、患者や家族に情報がきちんと伝わっている状態ではないケースもあるのでは? 伝わったとしても、対策について関心が持たれないという事態になっていないだろうか?

という疑問が、私の頭に浮かんだ。

 

私がてんかんと診断されたのは1981年。ちょうどその頃、「救急車をタクシー代わりに呼ぶこと」がマスコミでしばしば話題にされた。

診断された当時から私は、「てんかん」関連の書籍や新聞記事等はできるだけ読むようにしている。私の親がてんかんに対して偏見を持っていて、てんかん患者であることを今でも認めていないからだ。(てんかん患者と家族 - karotousen58のブログ)こんな状態では、この病気に対しては自分が知識をつけていくしかない。

私の場合、発作は夜間睡眠時に起こる。だから、「救急車を呼んで、注意される」という事態にはなっていない。だが、「てんかん大発作で、救急車を呼ぶ必要性」について、医療関係者から説明を聞いたことがない。

他患者の大発作が起こった場合、適切な行動を取れる自信が私にはない。

 

てんかん患者の間で、「救急車が着いたころには意識は戻っている。『意識がもどっているのなら、タクシー代わりにしないでください。』と医療関係者に言われた。」という声がいくつか出ている。患者の手記等でそれを知った。

これらの患者の声とマスコミ報道から、私は、てんかん大発作の患者を目撃した場合は次の方針を取ろうと考えた。この方針を考えたのは1983年頃である。

・まず最初に、患者の様子を観察し、後で本人や医療関係者に説明できるようにする。

・けいれんや意識消失が5分以上続いたら、救急車を呼ぶ。そうでない場合は、その後のことは本人の判断に任せる。

(つまり、発作を見た→すぐに救急車を呼ぶ とはならない。)

 

ネットが普及してから、私はてんかん関連サイトからも情報を得ることにしている。サイトを見るようになってから、「1983年ごろに考えた方針は、修正の必要がある」と思った。

発作の様子をどのように観測すればいいか? ということについては、次のサイトが参考になる。

第3章 発作の観察と処置 | てんかん情報センター

また、今ではスマホなどで動画を撮ることができるようになった。発作を起こした人の家族がそばにいた場合、「発作の様子を動画で撮ったほうが、病状を伝えやすいかもしれない」と考えて、家族が動画を撮るということもあるかもしれない。

 あるサイトによると、「あなたの場合は、てんかん重積状態にならなくても救急車を呼んでください。」と医師から指示のあった患者もいるらしい。こういう場合は、「てんかん発作で救急車を呼ぶと、非難される」という思い込みを持ったまま接するのは危険だろう。

これらを踏まえて考えるに、患者の側も「発作が起きた時の対応方法、薬の処方、連絡先」等をメモにして身につけておいたほうがいいと思う。

 

結論として

てんかん大発作の起きている人を目撃した場合は、救急車を呼ぶ。(家族等事情のわかっている人が目撃の場合を、除く)

・発作の様子を観察して、本人や医療関係者に説明できるようにする。(とはいっても、身近に患者のいない人が目撃した場合は、何をどうすればいいのか混乱するのは当然です。発作の持続時間、身体の左右どちらかにだけ起こった発作か否か、意識が戻った直後の状態、といったところだけでも注意してくださったらありがたいです。)

・発作の処置について、やってはいけないことを一点。「舌をかまないようにするため、スプーンなどを発作を起こしている人の口に入れる」という対処法を聞いたことがある人も多い。しかし、それをするとかえって危険である。

・患者の側も、「発作が起きた時の対応方法、薬の処方、連絡先」等をメモにして身につけておく。

 といったところでは? と私は考えている。

(注 今まで私は、こういうことを医療関係者や他の患者の前で発言したことがない。現段階で私が出した結論は、医療関係者や他の患者から見れば的外れなものかもしれない。)

いろはかるた

いろはかるたを、最近はあまり見かけない。近所の店に行っても、あるにはあるが目立たない。「子供向け、ことわざかるた」や「子供むけ、四字熟語かるた」のほうが目立っている。「試験によく出る」と謳われたものが。百人一首は根強い人気を持っているようだが。

 

私が義務教育を受けていた1970年代、年末が近づくと、いろはかるたをよく目にしたものだ。

近所の駄菓子屋にいろはかるた(犬棒かるた)が置かれるようになって、「正月が近いな」と子供心にも思ったものだ。小学生向け学年別雑誌の付録にもあった。

「読み札に書かれている文に、特別な意味が隠れている」ということが、子供時分の私には奇妙なことに思えた。例えば、「京の夢大阪の夢」という読み札は、当時の私には「言語明瞭、意味不明瞭」に思えた。

百人一首も、駄菓子屋や小学生向け雑誌の付録にあった。しかし、当時の私には、百人一首よりもいろはかるたのほうが魅力的に思えた。百人一首には、恋愛関連の歌が多い。精神的に成長の遅れた子供だった私には、百人一首の魅力がわからなかった。

「いろはかるたの読み札について詳しく説明した本を、読んでみたい」と、小学校5年のときに話したことがある。そのときの、親や担任の返事は「高学年にもなって、いろはかるたは幼稚。百人一首に興味を持つくらいでないとダメ」だった。

「いろはかるた読み札に書かれていることわざの意味を、きちんと理解している」と自信たっぷりに言える人って、いったいどのくらいいらっしゃるのだろう? 私なら言えない。

「タイトルに『いろはかるた』が入っている、子供向け解説本」を、当時探したことがある。しかし、見つからなかった。残念だと思った。

 

百人一首を使った勉強法」は、いろいろな場でいろいろな人に発表されている。しかし、「いろはかるたを使って勉強」という話は、ほとんど聞かない。

試験とは無関係に、ことわざや故事成語や格言の類に興味を持ったことのある人って、少数派なのだろうか? 近所の店にある、子供向けの「ことわざかるた、四字熟語かるた」には、「試験に出る」というアピールが前面に出されている。

試験がモチベーションに関係あるかないかは別として、「ことわざの勉強というものもある」と認識するきっかけとなったものは、他の人の場合は何なのだろうか? 気になる。

ことわざには、矛盾する意味を持つものも多くある。「二度あることは三度ある」と「三度目の正直」など。

また、一つのことわざに複数の解釈が存在するものもある。「犬も歩けば棒にあたる」など。

ことわざに隠れた背景がどんなものなのか? ということを、考えてみるのも面白い。

これらの「矛盾する意味」や「複数の解釈」や「背景」については、いろはかるたで遊んでいた当時は全然頭になかった。当時は、「読み札を覚えよう」という気もなかった。後になってから意識するようになった。

「いろはかるたという遊びで、ことわざの存在をたくさん知った。そして、不思議だとか面白いとか思った。わくわくした。」ことが土台となって、後からの意識につながっていったのでは? と私は思っている。

 

大人になってから、「いろはかるたは複数ある」と知った。

かるた - Wikipedia

私が過去にふれたいろはかるたは、江戸いろはかるたをベースにしたものだったようだ。

 

岩波 いろはカルタ辞典

岩波 いろはカルタ辞典

 

 

 

ことわざで遊ぶいろはかるた (ほたるの本)

ことわざで遊ぶいろはかるた (ほたるの本)

 

 これらの本を読みたくなった。昔の私のような子供が、手に取ることができたらいいのだが。

今週のお題「今年こそは」

今週のお題「今年こそは」

 

今年こそは、「学校教育における隠れたカリキュラム」・「学校文化」・「発達障害」の3つの事柄を関連させてまとめた記事を発表したい。

ブログではなくBBSがよく使われていた時代からずっと、この思いを持っていた。しかし、うまくまとまらなくて発表できないという状態が続いている。

 

・「学校教育における隠れたカリキュラム」とは、「生徒が学校生活にうまく適応(順応?)していくために学び取っていく、黙示的な(←ここ重要)規範・価値・態度など実際行動面での知識内容」を意味する。

・「学校文化」は中立的なものではない。人の能力や思考や感情等がさまざまである故、学校文化的に不利な立場に置かれる子供も出てくる。「隠れたカリキュラム」と「学校文化」とのつながりは深い。更に、この「隠れたカリキュラム」は学校のみならず、一般社会で優勢となっている価値観とつながっている。

・「隠れた」カリキュラム故、「不利ではない立場にいる人」がそのポジションを意識するケースは稀と思われる。

・「単なる個性ではなく障害」として「発達障害」という概念が生み出されたのは、

隠れたカリキュラムに基づいた学びに於いて、ある種の特性が不利となる→ある種の特性を持った子供は、学校文化的にきわめて不利な状態に置かれる→学校での「学び」で不利益を被るのみならず、学卒後もその不利益がひびく

という状態での「ある種の特性」を「個性」で片づけることに対する、問題提起の意味もあるかもしれない。

・「心身の機能不全があるから障害者になる」というわけではない。「機能不全があると他者が認識して」障害者となる。「不全」の正体は、「障害者とよばれる側の心身機能」のみに存在するものなのか? それとも、「他者を障害者とよぶ側の、価値観やそれに基づく社会のあり方」も関係しているのか? その価値観には「非障害者中心的な価値観」が含まれていることはないのか? ということも考える必要があると思う。

・現状では、「非障害者側が、非障害者的価値観について障害者の視点や経験も通して再考する」という段階を経ないで、「発達障害は、早く見つけて早いうちに療育して、周囲が理解することが必要。」という結論めいたものを押し付ける空気が存在するのでは?

 

といったことについて書きたいのだが、何からどう書いていけばよいのかわからないという状態だ。

この記事を書いているさいちゅう、はてなでは次のTogetterまとめがホットエントリー入り。このホットエントリーともつながっているテーマだと思った。なんとかしてきちんとまとめたい。

はてなブックマーク - 発達障害という概念は「普通の子」を「障害」と決めつけ切り捨てていくものではない - Togetterまとめ

はてなブックマーク - はてなブックマーク - 発達障害という概念は「普通の子」を「障害」と決めつけ切り捨てていくものではない - Togetterまとめ

今週のお題「年末年始の風景」

今週のお題「年末年始の風景」

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年末年始ときいて私の頭に最初に浮かぶものは「絹ごし豆腐と片栗粉」である。

私は両親と一緒に暮らしている。両親は80歳前後である。この年齢の人に餅を食べさせるのは、私にとっては怖いことに思える。

しかし、私の親世代の人にとっては、正月や餅は特別な意味を持っているものらしい。

それを考えると、正月の食卓に餅(のようなもの)を出さないのは残酷なことかもしれない。

そこで、うちでは、誤嚥を防ぐために、(普通の餅ではなく)絹ごし豆腐と片栗粉で作った「代替餅」を使うことにしている。ケアマネさんからも、「代替餅にしてください」との指示が毎年なされる。

この代替餅の材料を、年末にたくさん買うことになる。

 

母は認知症である。年末になると、「餅がない。買ってこい。」と何度も言う。一昨年までは、父と私とで「買ってある。冷凍している。」と答えることにしていた。

去年は、父も認知症傾向がでてきた。その父が、餅を買ってきてしまったのだ。しかも、「買った」ということを忘れてしまうらしく、3回餅を買いにいったようだ。

餅1kg入りの袋が、うちに3つあった。

捨ててしまうのはもったいない。冷凍保存すれば、ある程度の期間はもつ。しかし、冷凍庫のスペースをとってしまう。知人に声をかけたが、「ごめんね。餅はたくさんあるんだ。」という類の返事だけ。両親に餅を食べさせるのは怖い。両親に気付かれないように、私が食べきる必要が出てきた。

こうして私は、去年の年末からずっと、餅をたくさん食べている。

 

去年も書いたが、私の両親の出身地域には、正月に関する奇妙なしきたりがある。

それは、「正月三が日は、三食とも雑煮とおせち料理を食べる」というしきたりである。

しかも、その「雑煮」が問題である。

その地域の「雑煮」とは、「限りなくぜんざいに近いもの」なのである。ぜんざいよりも、少し小豆が少なめだが。

こういう雑煮を食べてきたから、「餅は甘いもの」という感覚が私から抜けない。

こういうしきたりがあるから、絹ごし豆腐と片栗粉をたくさん買うことになる。

 

私は甘いものは嫌いではない。しかし、9食続くと流石に飽きる。麺類やレトルト食品がとんでもないごちそうに思えてくる。

そこで正月三が日が終わったばかりの昨日、餅以外のものを食べることにした。某スーパーの「お買いもの上手コーナー」に、「マルちゃん正麺 鴨だしそば」があった。それを試すことにした。とてもおいしかった。きょうからは、また、餅を食べなければならない。

 

私がこの餅を食べきるのはいつになるのだろう? そのときには、麺類やパンがとんでもないごちそうに思えるんだろうな。おそらく。

今年は、私にとっての「年始の風景」は、スーパーの「麺類やパンの売り場」になってしまった。

今週のお題「2015年のマイベストエントリー」

今週のお題「マイベストエントリー」

 

今年私が投稿した記事の中で最も印象に残っているものは

karotousen58.hatenablog.com

である。

印象に残っている理由は

1.「これって私だけ?」というお題を見たとき、書きたいテーマが5つほど浮かんできたから。これだけたくさんテーマが頭に浮かぶことは、私には珍しい。

2.この記事を書いたとき、「検索からは、なかなかこの記事には辿り着かないだろうな」と思ったから。実際、今までのところ、検索からの流入はない。

3.今までのところ、文字通りの「手をたたかなかったことのある人」が見つかっていないから。

である。

 

記事には書かなかったが、動画検索をすると、この歌は意外とたくさん出てくる。

オカメインコがでてきたり、保育士実技試験練習用に使われていたり、外国語バージョンがあったり、バリエーションが豊富である。

しかし、「この歌に疑問がある」とか「この歌で手をたたかなかったことがある」とかいったコメントは、やはり見つからない。

「誰が、誰の手をたたくのか。どんなたたきかたをするのか。」という疑問を持ったことのある人については、いまだに見つけたことがない。「どうせなら、当時の担任の手を、とんでもない方法でたたけばよかった。」などとくだらないことを、記事を書きながらついつい考えてしまった。

これって、今だからお笑いごとにできるんだよな。当時の私には想像がつかなかったことだが。