今週のお題 平成最後の夏
今週のお題「#平成最後の夏」
今年の夏、自転車後輪タイヤを交換した。
この「平成最後の夏」というお題を見なかったら、タイヤ交換についてブログ記事を書くことなんてなかっただろう。
この自転車は、2004年(平成16年)7月に買ったものである。お題を見て、「『平成最初の夏~この自転車を買った夏』と『この自転車を買った夏~平成最後の夏』と、期間の長さがあまり変わらない」ことに初めて気づいた。
「平成最初の夏」が大昔のことに思えるのに、「期間の長さがあまり変わらない」ということが、何か意外という感じ。そして、「ひょっとしたら、平成の次の年号でもこの自転車を使っているかもしれない」ということに、驚いてしまった。
この自転車は、ブリヂストンの「サブナードスポーツ」という自転車である。外装6段変速である。現在では発売されていない。
この自転車を買うとき、私は変なことを考えていた。「安物の自転車を短い期間で何度も買い替える」のと、「少し高級な自転車を自転車屋で買う」のと、結局のところはどちらが安くつくのだろう? いっちょ実験してやるか。ということを。
最初は、大手メーカー製内装3段変速のものを買おうと思っていた。しかし、店内にあった「サブナードスポーツ」を見て、思いが揺らいだ。
「こちらのほうが安い。しかも6段変速という、想像してもいなかったタイプ。こちらも面白そう。」と。
どうやら、私の思いを店員が察した模様。サブナードスポーツを強く奨めてきた。
「外装6段のほうが面白いよ。実際乗ってみて。値引きしますよ。」と。乗ってみたら、快適だった。
「面白いということは、いろいろとメンテナンスが必要という意味だろうか? それなら不安だな。でも、今はネットの時代だからメンテナンス方法もわかるかもしれない。」と思った。
私のうちには、「メンテナンスをきちんとして、いろいろなものを長期間大切に使う」という文化がない。私以外の家族の場合、自転車は「屋根のない場所にカバーもかけず、ほったらかし」が平常である。当然、短期間で壊れてしまう。私の家族には、「ロードマン」という大手メーカー製自転車を、3年でダメにしてしまった過去がある。
迷ったが、決心した。「不安だけど、いっちょ賭けてみるか。本体価格3万2000円にまけてもらえるんだし、3年もったらあのかわいそうなロードマンよりはいいだろう。」
外装変速の自転車は、注油などのメンテナンスを定期的にする必要がある。取扱説明書の他に「整備手帳」なるものも付いていた。「定期点検・調整を、販売店へ依頼してください。」と書かれていた。
定期点検・調整について、「初回は、お買い上げ後100キロメートル到達時または2ヶ月以内。第2回目以降は、お買い上げ後6ヶ月以内、12ヶ月以内、その後は1年毎」と書かれていた。有料ということだ。
「やっぱり、外装変速の自転車は、メンテナンスをきちんとしなきゃいけないのだな。」と思った。
初回の点検・調整のために私がその店に行ったとき、「律儀に来る人なんてほとんどいない。」と店員から言われた。それを気にせず、第2回目も点検・調整に行った。買って1年経たないうちに、その店はなくなった。だから、それ以降は、店での点検や調整ができなくなった。
こういう状態で、不器用な私が自己流でメンテナンスを続けていた。家族からは、「面倒な自転車。どうせ掃除とか上手くできてないだろ。」と言われまくった。それでも、使える状態が14年以上続いている。自分でもびっくり。
この自転車を買ったばかりの頃、強風の日があった。その日、とある青空駐輪場に停めてあった自転車がたくさん倒れていた。しかし、この自転車は倒れていなかった。「やはり違うのかな」と思った。
もしもこの自転車に寿命が来たら、「サブナードスポーツの後継車(現在ではビレッタ)」にしたい。
そう思うほど、私はこの自転車が気に入っている。次の元号に変わっても、使える状態が続いてほしい。
『贈りもの』(岡野薫子 作)という児童文学を、突然思い出した
突然、『贈りもの』(岡野薫子 作)という児童文学を思い出した。
この作品は、私が小5の頃の国語教科書(教育出版発行)に掲載されていたものである。教科書ではタイトルが「おくり物」となっていた。
小学校の授業以来、この話を思い出すことなんてなかったと思う。「何故、唐突に今?」
更にそのとき、この話の細かい描写を次々と思い出してしまった。「これだけ覚えているにもかかわらず、何故、今の今まで思い出すことがなかったのだろう?」
私には2つ上の姉がいる。姉は昭和48年(1973年)度版の小5用国語教科書を使っていた。姉の教科書にも、この作品は掲載されていた。私の小学生時代、「教科書の音読」という宿題も担任から頻繁に出されていた。たぶん、姉も何度か音読していたのだと思う。この話は、4月の授業で扱った。参観日の授業にされたのも覚えている。
そういう条件があるとしても、何故、私は細かい描写をいろいろと覚えていたのだろう?
我ながら不思議。
今はネットの時代。検索してみたら、『砂時計』(偕成社文庫)という本に収録されているとのことだった。地元図書館にあったから借りた。再読して、「本当は恐ろしい話かもしれない『贈りものごっこ』」だと思った。
『贈りもの』は、次のようなお話である。(注 読解力がなく国語の成績も悪くひねくれた性格を有している私が、とんでもない誤読をしている可能性あり。)
学校で「贈りものごっこ」なる遊びがはやっていた。主人公を含む仲良しグループ(スクールカースト上位層)が、この遊びを楽しんでいた。
ある日、よし子ちゃんという女の子(内向的で友達がいない子)が、「私も(贈りものごっこに)入れて」と主人公に言う。
仲良しグループはよし子ちゃんを歓迎せず、「嫌がらせ的方法」を用いてよし子ちゃんと一緒に贈りものごっこをする。それにもかかわらず、贈りものごっこに参加した後のよし子ちゃんの態度は、「ぐう聖」的だった。
突然思い出した直後、私の頭の中には次のことが浮かんでいた。
スクールカースト、「集団が個人に及ぼす力」の怖さ、恐喝や暴行とは異なる「仲間外れ」系排除、要領のよいいじめっこと要領の悪いいじめっこ、「みんなと打ち解けて、話のできる子にならなきゃいけませんよ」的メッセージ
小5の頃の私は、「皆と打ち解けて……」的メッセージ以外は頭に浮かばなかった。「仲良しグループが嫌な奴らだ」とか「『よし子ちゃんを見習え』などと、担任や親から言われまくるだろうな」ということで頭がいっぱいだった。
よし子ちゃんの家は八百屋で、彼女はよく手伝いをしていた。よし子ちゃんの接客の様子、嫌がらせ的方法やよし子ちゃんの持ってきたプレゼントについての具体的描写を、何故か私は覚えていた。43年以上後に再読して、「私が覚えていなかった描写」を知ることができた。
「集団が個人に及ぼす力」とその怖さについて、主人公によるモノローグ的描写もあった。「主人公は要領の悪いいじめっこタイプのようだな。仲良しグループの他メンバーは、要領のよいいじめっこタイプで。」と思わせる描写もあった。それらの描写について、私は覚えていなかった。というより、「当時の私が精神的な面での成長が遅れていた」「関心を持つところまでいかなかった」のだと思う。
恐喝や暴行とは異なる「仲間外れ系」排除。それはしばしば、「仲良しグループ以外の人の関心をひきにくい、目立たない方法 と犠牲者を選ぶ」かたちの排除となる。
被害の証拠が残らない。更に、「仲間外れにされている」と誰かに訴えることは、「自分は人気のない劣った存在」と自己申告することに近い。それ故、「誰かに相談する」ということが困難となる。
『贈りもの』では、次のような形で「仲間外れ系排除」がなされていた。
仲良しグループのメンバーが、「内向的で友達がいないこと」=「よし子ちゃんに問題がある」と認識→逸脱の一種としてみなす。そして、「よし子ちゃんについての勝手なフィクション」を作り上げ、それを排除の理由とする。「勝手なフィクション」を作り上げたメンバーは、「自分たちが作り上げたフィクション」であることを忘れてしまい、最初からあった事実のように思い込んでしまう。
いわゆるいじめっこには、要領のよいタイプと要領の悪いタイプが存在する。例えば、要領のよいいじめっ子は直接には手を下さず、誰かをそそのかせていじめさせる。そそのかされて直接いじめるのは、要領の悪いいじめっこである。そして、しばしば、被害者が「自発的に」集団から出ていくのを待つという方法が取られる。
『贈りもの』では、「嫌がらせ的な贈りものの準備と、よし子ちゃんからの贈りもの受け取り」を、主人公がやる展開となっていた。
スクールカーストめいたものは、私の小学生時代にもあった。集団内部の力関係や人間関係をうまく読み取れる子がスクールカースト上位層だ。学校内部で最も力を持っている人が誰であるのか、その人と仲良くなるにはどの人を味方につければいいのか、必要以上に仲がよくなるとまずいのは誰なのか、といったことをうまく読み取れる子が、上位層となる。「友達のいない子」は、スクールカースト最下層とみなされる。
もっとも、それらの洞察力は、「他人との調和を上手にはかりながら集団をつくる」ことというよりも「波風を立てないようにする」ことに向けられているのだが。
学校内において、「教師や親」と児童生徒は、対立関係になることもあれば連帯関係になることもある。「教師や親が、スクールカースト上位層の子と連帯意識を強く持つ」こともある。そうなると、スクールカースト最下層の子は、教師や親からもみくびられてしまう。
私が小5のときの担任も私の親も、「スクールカースト上位層との連帯意識」を強く持つ人に思えた。私は「スクールカースト最下層」の子だった。「よし子ちゃんを見習って、友達をたくさん作る努力をしなきゃいけませんよ」的メッセージを、当時の私も感じていた。
贈りものごっこに参加した後のよし子ちゃんの態度は、「ぐう聖」的だった。その態度によって主人公は、「集団と個人との関係や力」について、自分を見つめ直した。そして、よし子ちゃんに対する認識を変えた。この出来事の後、よし子ちゃんは打ち解けて、主人公たちと話をするようになった。
ひねくれている私は、この結末にモヤモヤしている。
「ぐう聖」的態度の取られた場には、「仲良しグループの他のメンバー」はいなかった。つまり、主人公以外が、「よし子ちゃんに対する認識」を変えるきっかけになったか否か? 「ぐう聖」的態度という「結果オーライ」じゃねーの? 排除された側が「ぐう聖」的態度を取ることを、(特に大人が)アテにしてるんじゃねーだろうな? ついつい疑問を持ってしまう。
「この話はフィクションだろ。夏炉冬扇は大袈裟だな。」と思われるかもしれないが。
「スクールカースト上位層との連帯意識」を強く持った人(特に大人)によって、「一人でいるのは悪いこと。仲間になる努力をしなきゃいけない。」「排除されても、ぐう聖的態度を取ってがんばって強くならなきゃいけない。」という価値観が「隠れたカリキュラム」として作用するかもしれない。とも思った。もしもそうなら、個人的には嫌だな。
この単元で、「集団と個人との関係」や「仲間」ということについて、当時の小学校でどのような授業がなされていたのだろう? 教科書準拠の参考書や問題集では、どのような記述がなされていたのだろう? これらが気になってしまう。
フードコート感覚で気軽に入るのにちょうどいいカフェ
フードコート感覚で気軽に入るのにちょうどいいカフェ、それは「LABAR 車尾店」である。「車尾」は、鳥取県米子市の難読地名。「くずも」と読む。スーパーマーケットの中に店舗がある。
「フードコート感覚ではなく、ゆっくり時間を過ごせる店がいい。」という場合は、車尾店以外の店舗をおすすめ。
「鳥取や島根では、大手のカフェチェーンが進出しなかったからローカルチェーンが生き残る余地が生まれた」という説を、どこかで聞いたことがある。
だが、私はその説に同意できない。
「違う。順序が逆だ。鳥取や島根には、もともと地場コーヒー文化が強い。大手チェーンが進出しなかったのは、田舎だからというのもあるが、ローカルチェーンがすでに人気を持っていたという条件が大きい。」と思っている。
「全国で唯一、スタバの店舗がない鳥取県」と言われていた頃も、私の観測範囲内では次のような意見が結構聞かれていた。
「LABARや澤井珈琲や服部珈琲工房(のローカルチェーン)があるから、無理に進出しなくていいぞ。鳥取県に進出した時点で、スタバは特別な場所ではなくなるぞ。」
(注 「スタバが鳥取県にない」ということが話題になった後に、「すなば珈琲」というチェーンが新しくできた。)
それぞれのチェーンにそれぞれ違った魅力がある。同一チェーン内でも、店舗によってメニューが違うこともある。
更に言うと、個人経営カフェの中にも魅力的な店が結構ある。
これらのチェーンの中で私が一番気に入っているのが、LABARである。
今回の記事でとりあげるのは、「LABAR 車尾店」である。私の生活圏内では、この店舗だけが「フードコート的雰囲気」を持ったものになっている。この店舗にはランチメニューはないが、他の店舗ではパスタなどもある。
アレンジコーヒーがいろいろと楽しめる。エスプレッソが特に面白い。コーヒー系が苦手な人も、ジュースやスムージーなど、他のものも楽しめる。テイクアウトもできる。
オリジナルの工房で制作されたスイーツもおいしい。スーパー内ベーカリーのパンもおいしい。
「山陰の地場コーヒー文化、他地域の人にも味わってもらえる機会があったらいいな」と思う。
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チョコミント続報
家族に盗み食いされないチョコミントアイス - karotousen58のブログで、「今シーズンはまだ、チョコミントフレーバーのお菓子を見かけない」と書いた。しかし、書いた直後にそれらが店に並ぶようになった。
今までのところ、「特別よく売れている」という雰囲気ではなさそうである。ただし、「私の住んでいる地域は、チョコミント不人気ゾーンにある」とは決めつけられない状態にある。
というのは、「今年の夏があまりにも暑すぎる」からである。
一日の最高気温が36度以上となる日が続くと、やはり、「売れ行きのよいスイーツ」が変わってくる。
アイスなら、乳成分の多いものよりも「氷菓」の人気が高くなる。
暑すぎる日が続くと、やはりチョコレート系商品の売れ行きは落ちるようだ。
チョコレート系スイーツ、高級すぎる商品だと、私が食べられないケースがでてくる。
理由は、私が貧乏人であるということだけではない。高級すぎる商品だと、「洋酒使用。アルコールに弱い方はご注意ください。」という類の注意書きがあることが多いからだ。
私は下戸である。その種のスイーツを食べるだけでも、気持ち悪くなってしまう。
最近も、ある店で「○○乳業 焼スイーツ 夏限定チョコミント」なる商品を見つけた。「期間限定か。ちょっと買ってみるか。」と思って手に取った。やはり例の注意書きがあった。買えなかった。残念。
去年の今頃、鳥取県民自慢のアイス - karotousen58のブログという記事を書いた。
この記事でふれた「大山乳業協同組合」でも、今年、「チョコミント ラクトアイス」が発売となった。
しかし、私の居住地域ではその商品を見かけない。「チョコミント不人気ゾーン疑惑」がある地域だからなのか? 疑惑に関係なく、「暑すぎるから、乳成分の多いアイスよりも氷菓が売れそう」ということなのか? 理由は不明である。
この「チョコミント ラクトアイス」を売っている店、どのくらいあるのだろう? 謎だ。
この暑さが続くと、チョコミント系スイーツの売れ行きが心配になってくる。特に、「チョコミント不人気ゾーン疑惑」のある地域だと、「店頭に並ばなくなるかも?」いう不安がある。
チョコミント系スイーツを楽しめる程度の暑さにとどまってほしいものだ。
今週のお題「2018年上半期」
今週のお題「2018年上半期」
「考えれば考えるほど、『発達障害』というものがわからなくなってしまう。」
2018年上半期は、これを痛感した。
確かに、「発達障害、何それ?」ではなく、「あの子には問題があるけど、障害かもしれないから配慮してあげなきゃ。」というトーンで語られることは増えてきた。
では、その語りが何をもたらしているのか?
「親や支援者が特別に配慮してあげなければならない無力な存在」か「社会機構の円滑な運営を妨げる人達。だから、本人が自覚と自己管理をできるように、親や支援者が配慮してあげなければならない存在。」としてのポジション提供をもたらしたんじゃねーの? と私は疑っている。
発達障害に限らず、「障害者」を「他者」化して線引きする動きがある。そして最近、そのやり方が巧妙化しているのでは? という思いが新たに出てきた。
わかりやすい偏見に基づく差別に関しては、やはり批判はなされる。しかし、その批判は、「自らがどんな立ち位置にいるか」を意識しない状態でなされている。
何か世間を騒がせる問題が起こった際、「あの事件に関係のある人も、発達障害みたいだな。」というコメントを見ることが増えたように思う。特定の人を「発達障害者」に仕立て上げることによって他者化し、自分を「私は、そういう問題を起こさない、普通のみんなの仲間」に仕立てる。「発達障害者」とされた人の状況について調べたわけでもなく、その人の意見を聞いたわけでもなく、「普通」の内実について検討したわけでもない。
「あんな事件を起こすなんてけしからん」ではなく、「障害かもしれないから、考えなきゃ」という、一見「寛容」なコメント。実は、いろいろなシカトがなされている。私はそう捉えている。
「学校でトラブルを起こす子供」について、ホットエントリーとなったものがある。該当記事が削除されているため、詳細は書けないが。
この記事に対するコメントに、「発達障害と思われるから、病院に連れていけ」的内容のものがたくさんあった。
コメントを見て、私は驚いた。
「いきなり発達障害を持ち出すのか? 『意思疎通を図ることがあまりにも困難』とでもいうのならまだわかるが。相互行為のあり方とか、状況とか、その場に特有の構造的な制約とか、いろいろな条件を吟味して、その吟味の段階で発達障害概念を使うほうがよさそうと判断した場合に適用、という方向ではないのか?」
「障害名を、子供の全人格というふうに捉えているのだろうか? 障害名は、ある場所・ある目的・ある都合によって作り出されたという面もあるのでは?」
「子供の場合、『発達の途上』という軸と『どんな場面で障害として考えられるのか』という軸の両方があるんじゃねーの? 前者を軽視している可能性もあるぞ。」
といった思いが出てきた。
そういえば、発達障害関連本や発達障害啓発マスコミ報道やweb記事でも、始めに「関係性をきちんと作れないのが、発達障害」という見解が出されることがよくあるな。関係性って、他者や場との関係によって変わってくるものでは? 問題を「発達障害とされた個人」にだけ還元していいのか? この思いもある。
「安易に(←ここ重要)発達障害概念を『誰かの全人格』と仕立てて、ディスコミュニケーションの原因とする」よりも前に、「どのような文脈で、誰の、どんな言動が影響しているのかを。その都度、コミュニケーションの場にいる個々人がじっくりと考える」という方向性。これを踏まえる必要があると思った。
家族に盗み食いされないチョコミントアイス
私の家では、「アイスクリームを冷凍室に長時間入れておく」ことは危険な行為である。家族に盗み食いされる危険性が極めて大であるから。しかし、チョコミントだけは盗み食いを免れるアイスである。私以外の家族は、チョコミントを嫌うから。
私がチョコミントアイスを食べるようになったのは、15年ほど前からだったと思う。それまでは、チョコミント系スイーツを特別に意識していなかった。
チョコミント系スイーツを初めて食べたきっかけは、ある日、何も考えずに母がチョコミントアイスを大量に買ってきたことだった。完全閉店直前の店で、とんでもない値段になっていたから買ったということだった。
私を除いた家族全員が、一口食べて「これいらない。おまえにやる。」と私に言った。一方、私は「面白い味だな。氷菓でもなく、普通の乳製品系とも違う。別ジャンルとして気に入った。たくさんもらえてラッキー。」と思った。それ以来、新製品を見るとチェックするようになった。
チョコミント以外のアイスなら、買ってきたらすぐに食べなければヤバい。店でおいしそうなアイスを見かけたとしても、そのとき空腹でなかったら買わない。その点、チョコミントアイスだと安心して買える。
「チョコミントが好きだが、居住地域ではそれらは人気がない」という人の中に、同じようなことを考えている人や経験した人もいるのだろうか?
どうやら、私の居住地域ではチョコミントは人気がないようだ。
今シーズンはまだ、チョコミントフレーバーのお菓子を見かけない。
チョコミント系アイスは、2種類だけ見かける。スーパーカップのチョコミントと、とあるドラッグストアのみで売っているものとである。スーパーカップのチョコミントは、置いているスーパーとそうでないスーパーとが半々といった感じである。コンビニではほとんど見ない。
チョコミント系ドリンクを、コンビニで見かけることが稀にある。しかし、その場合でも、他系列のコンビニに行くとその製品が置かれていない。
今週のお題紹介ページでは、「今、チョコミントが旬な季節。店頭にはチョコミントフレーバーのお菓子がずらりと並びます。」と出ている。他の地域ではそうなのか? うらやましい。
『おしゃべり階段』を思い出した
記事とブックマークコメントを読んで思った。
今は、「『コンプレックスとどう向き合うか』というテーマでの会話がやりにくい時代なのかもな」「容姿にまつわるコンプレックスを煽る空気、私が子供だった頃よりもずっと強いんだろうな」と。
そして、『おしゃべり階段』(くらもちふさこ 作)という漫画を思い出した。最近、NHKの朝ドラ『半分、青い』関連でも話題になった漫画である。初出は、別冊マーガレット1978年9月号~1979年3月号。私の姉が、当時、別冊マーガレットを買っていた。
この漫画は、中学から高校、予備校を経て大学受験までの、主人公の成長を描いた作品である。主人公は、「いろいろなコンプレックスを抱えた女子中学生」としてスタート。主人公がいろいろな出来事を経験したりいろいろな人と交わって、コンプレックスと向き合いながら成長していく話である。
初出のとき、私は中2だった。リアルタイムで読んでいた。精神的な成長の遅れていた私は当時、この漫画での「コンプレックス」というテーマをほとんど意識していなかった。悪役的な人のうちの一人が、「国分寺さん」という人だった。
この「国分寺さん」、作品中の存在感は大きい。しかし、顔や姿は全然出てこない。活字だけの登場である。
「この国分寺って人、いったいどんな奴? どうして活字だけの登場なんだ?」ということが、当時の私の関心ごとだった。私の感性は、やはりズレている。
1990年の盆、私は帰省した。姉も帰っていて、古本屋で『おしゃべり階段』の単行本を買った。当時私は25歳。久しぶりにこの漫画を再読した。そして、「コンプレックスに対する描写、スゲー。やはり、別冊マーガレットの看板作家となるだけの実力派だ。」と思った。
この漫画に次のようなシーンがある。単行本が手元にないから、うろ覚えの記述になるが。
主人公は、「コンプレックスのかたまり」という感じの女子中学生でスタート。主人公にときどきちょっかいをかける男子生徒がいる。主人公はその男子生徒に対して、「いつも自信満々にふるまっている人」というイメージを持っていた。
しかし、あることがきっかけで、「その男子生徒もコンプレックスを抱えている」ことを知ってしまう。また、「それでも、その男子生徒は努力を続けている」ということも意識する。
そして、主人公は決心する。「私も、自信を持てるものを探していこう。私の巻き毛はきれいだ。」と。
(主人公の抱えていたコンプレックスのうちの一つが、天然パーマであることだった。)
「男子生徒のこと」→「決心」となる経過などについては、ネタバレになるから書けない。私が、「コンプレックスに対する描写、スゲー。やはり、別冊マーガレットの看板作家となるだけの実力派だ。」と最初に思ったのは、この場面だった。
変な説教に走らない、安易な解決策を持ち出さない。そういう描写だった。そういう描写で、結構大切なことを伝えていると思った。この場面に限らずいろいろな場面で。
リンク先記事を読んで思い出したのは、脇役のことだった。とんがらし、光咲子、立川先生、いい人だなあ。脇役のほうが頭に浮かんでしまう人って、他にもいるのだろうか? 単に私の感性がズレているだけかもな。
初出のときは、コンプレックスというテーマをほとんど意識しない状態で読んでいた。当時の私は、精神的な成長が遅れていた。しかし、「コンプレックスを感じることじたいは悪いことではない。コンプレックスとどう向き合うか、これも大切。」というメッセージを、当時の私も心のどこかで、この漫画から感じていたのかもしれない。
その当時、リアルの世界では、次のような言葉を私は受けていた。
「悩むなんてこと無駄だからやめなさい。いつもにこにこと楽しそうに暮らせないようではダメ。」
「そんなくだらないことで悩むなんて、バカとしか言いようがない。考えるならまともなことを考えろ。」
「スポーツに没頭しろ。そうすれば、くだらない悩みを持たなくてすむ。」
これらの言葉とは違ったメッセージ、「貴重だ」と思った人は他にもいるかもしれない。