謝罪は本当に難しい 1
A.ホント!? 『反省させると犯罪者になります』 – HONZ
「ある程度自分の心理状態が落ち着いていて、しかも、周りの状況もわかった状態」でなければ、反省という行為は難しいのかもしれない。そのような状態でなければ、その場をしのぐことだけで頭がいっぱいなのかも。
B.渡辺美樹理事長の学校法人生徒に反省文100枚書かせるなどして退学者続出 | スクープ速報 - 週刊文春WEB
反省文を「書きたくなくて」転校? それならまだいい。「書かなきゃいけないと思うのだが書けない」生徒が追い詰められたのでは。「問題を起こした」となっているが、誰にとってのどんな問題なのかも気になる。
C.
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『反省させると犯罪者になります』という本と『心はなぜ不自由なのか』という本と400字詰原稿用紙100枚の反省文を要求される学生に関する記事を読んで、私の頭の中には「反省・謝罪・許し」についていろいろなことが浮かんでいる。
『心はなぜ不自由なのか』という本には、「無実でも自白してしまう、冤罪が生まれるメカニズム」についても書かれている。このメカニズムを、Bの記事を読んで連想した。
それらがうまくまとまらないが、強引に書いてみる。
「謝罪は本当に難しい。するのもされるのも。」という思いを私はずっと持っている。
「謝罪するスキル」について語られることは、よくある。しかし、「許すスキル」や「許せないという思いを持ちながらも、意趣返しなどの不適切な行動をとらないで、その思いとうまく付き合っていくスキル」についてはほとんど語られないように、私には思える。
ほとんど語られないのは何故なのだろう? 「許しに関するスキル」について、大方の人のもつ「スキル像」が一致しているということなのだろうか? それとも、「許しに関するスキルについて、考える」ということが軽視されているのだろうか? 謝罪するスキルを上達させるには、許しに関するスキルを上達させることも必要だろうか? などなどいろいろな疑問が私の中で湧いている。
一般論として、何らかのトラブルが生じた場で、トラブルを起こしたとされる本人が何もしない(或は、固まってしまって何もできないとか本人が状況を把握できていない)と「謝れ」と迫られ、謝ったら「謝り方に誠意がない」とか「ゴメンですむなら、警察は、いらない」と迫られるというケースが少なからず存在する。
このような場合、「謝罪スキルが欠けている」という方向性だけではなく「許しに関するスキル」について考えてみてもいいのでは? と私には思えるのだ。
私は謝罪が下手だ。
「こういう謝罪を受けたならば、許せる。或は、許せないにせよその思いとうまく付き合うことはできそうだ」というイメージを、他の人はどのようにとらえているのか、どうやら私にはそれがわかっていないようだ。
また、私にとっての「そのイメージ」は、他の人の持っているそれとは大きくずれているような気がする。
「誰かが、他の誰かのことを謝罪下手だと認識する」場合、「許しに関するイメージ」が双方でまるっきり違っているケースがあるのかもしれない。「400字詰原稿用紙100枚の反省文を要求される学生に関する記事」を読んで、「反省文を書かせる側は、どういう条件が満たされたら反省したとみなすのだろうか?」という疑問が私に沸いた。その疑問から、「許しに関するイメージ」という言葉が私に浮かんでしまった。
『心はなぜ不自由なのか』は、2009年に読んだ本である。『反省させると犯罪者になります』は今月読んだ本である。Bの記事は、これらの本を読んだ後に知った。
今回は、私の思いが変わっていく様子を次のような時系列で書いていく。
『反省させると犯罪者になります』を読む前
↓
『反省させると犯罪者になります』を読んだ直後
↓
Bの記事を読んだ後
この2冊の本とBの記事を読む前の、私の本音
1.白状すると、私は「反省した状態での謝罪」ということがほとんどできていない。
「他の人に対して悪いことをした」という思いに至ることができる程度の、精神的余裕がないという感じだ。
トラブルの全体像の把握ができていない。また、どうすればその把握ができるのか想像できない。当然、「適切な善後策」への道筋も思いつかない状態である。
この「状況把握」とそれらがわからない故の「混乱した気持ち」だけで、頭がいっぱいである。「他の人の思いや気持ち」まで頭が回っていないのである。
2.どうやら、私以外の人のほとんどの人は、「他の人の思いや気持ち」がわかっている状態で、謝罪ができているようである。この謝罪は、言葉だけではなく非言語的表現(こちらはもっと重視されていると思われる)においてもきちんとなされているようである。「ロボットに喋らせたような、感情も誠意も感じられない、セリフ棒読み調の謝罪」や「わざとらしい大袈裟な芝居がかった謝罪」ではなく、「迷惑をかけて申し訳ありません。もうしません。」というメッセージを感じさせる謝罪ができているようである。
そして、双方が、その謝罪についてを「人間関係を円滑にする潤滑油のようなもの」とみなしているようである。
「発達障害者は謝らない・謝っているようには見られない。彼(女)らは人の心がわからないからそのようなことになるのだ。だから、彼(女)らには謝罪スキルを徹底的に練習させる必要がある。」という発言がいろいろな場でなされていることから考えるに。
3. 1のような状態で私が謝罪をしても、2のような謝罪とはみなされない。
4.「反省」に関しては、私の場合、ホント!?『反省させると犯罪者になります』の記事に対する、私のブックマークコメント の状態である。
『反省させると犯罪者になります』新潮新書 岡本茂樹 著 を読んだ直後の、私の本音
1.あれれ、「反省した状態での謝罪にはなっていない」と自己申告している(と私は認識した)。そして、「反省した状態ではない状態で謝罪の意を表明する」ということは、意外と頻繁になされていることらしい。
一方で、「反省していない状態での謝罪について咎められた」という見解を、私は聞いたことがほとんどない。私の場合は、「反省していない」と罵倒されることがよくあるのだが。その違いはいったい何なのか?
2.反省「させて」も、「被害者の思いや気持がわかった状態」にはならない。この本の紹介記事に関する私のブックマークコメントのようなことが、他の人にも当てはまっているみたいだ。ただ、このことが当てはまる人は少数派なのかもしれないな。
Bの記事を読んだ直後の、私の本音
1.「400字詰原稿用紙100枚の反省文」を書かせる側は、どういう条件が満たされた場合に「生徒が反省した」と認識するのだろう? どういう条件が満たされた場合に、「生徒を許せる」と認識するのだろう? 想像がつかない。
2.「400字詰原稿用紙100枚の反省文」を書くとなれば、徹底的な自己否定を続けなければ原稿用紙の升目は簡単には埋まらないと思われる。「反省文を書かされる原因となった行為」とは直接関係のない、過去の行為に対する自己否定も書き連ねることになるケースが極めて多くなるのでは?
↓
Cの本を思い出した。
3. Cの本では、「無実でも自白してしまう、冤罪が生まれるメカニズム」についても書かれている。このメカニズムが、2の「徹底的な自己否定を続けさせられた結果、生じる(と私が思った)事態」と似ているのでは?
4. 2の「徹底的な自己否定を続けさせられた結果、生じる(と私が思った)事態」は、避けないと危険だと思う。このような事態を呼ばない「謝罪・反省」は、とても難しいと思う。「謝罪や反省をしていない」と相手に思われるのも危険、「自己否定の闇にはめられた状態での謝罪や反省を続ける」のも危険。どうすれば避けることができるのだろう? 想像がつかない。
5.ひょっとしたら、『反省させると犯罪者になります』で書かれていることは、「『許しに関するスキル」』を磨いたうえで『反省』という行為をとらえなおすことが、大切だ」という意味なのだろうか?
こういう経緯を経て、「謝罪するスキル」と「許しに関するスキル」について、いろいろなことが頭に浮かんでしまった。