karotousen58のブログ

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「例の県議をおもちゃ扱いすること」が、発達障害者や周りの人に及ぼしかねない影響について

【号泣県議の政務活動費疑惑】議会内でもトラブル、奇妙な選挙戦、議論をふっかけては謝った前職場…(1/2ページ) - MSN産経west

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「この県議が発達障害では?」という意見も見られるが、私には、真逆に思える。発達障害系には、「祖母の遺影を抱えて会見」「子供が大好きで議員に」とかいった「情に訴える」という発想が苦手な人が多いと思う。

 

号泣会見で話題の野々村竜太郎県議「理で説得するよりも情に訴求する人間の方が信頼できる」と過去にツイート!? – ガジェット通信

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発達障害者は、「情に訴えた駆け引き」をするのもされるのも苦手なケース多し。この県議は、発達障害者とは違うタイプに思える。

 

号泣県議、UR住宅を目的外使用か 自宅なのに…政治団体事務所 (産経新聞) - Yahoo!ニュース

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発達障害では?の声に疑問有。ルールに対する感覚や大袈裟な名前等、「自分の崇高な理念が他者から評価されること」に関心が向きすぎて、ルールや具体的方策に無関心な所に、発達障害的とは違うものを感じる

 

この記事は

例の県議は、発達障害とは違うタイプに思える - karotousen58のブログ

「例の県議と発達障害とは、違うタイプ」と思う理由 - karotousen58のブログ

の続きである。

 

パニックについて

http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/chusou/video/leaf.files/leafpdd.pdf

最初に、「発達障害の、いわゆるパニック」に関する補足を。

この「パニック」は、人によって表現のされ方が違う。「暴れる、大声や奇声をあげる」等の激しい形で出る人もいれば、「泣いてはいけないということは頭では分かっている。しかし、何故かメソメソ泣いてしまう」「何故か独り言を言ってしまう」という形で出る人、他の形で出る人もいる。

「暴れる、大声や奇声をあげる」などの激しい形のパニックは、学童期には大人が介入する・対策を考えるなどのことがなされるケースもよくある。

しかし、「メソメソ泣く」「独り言を言ってしまう」タイプのパニックは、余程のことがない限り一緒に対策を考える人など出てこない。

そして、このパニックは、他の児童生徒によるいじめを誘発してしまう。最悪の場合は、教師や親などの大人が率先して、パニックにかこつけたいじめを先導する。大人が率先するいじめには、しばしば、「教育的指導」の大義名分が付けられる。

教育的指導という大義名分が付けられると、「あいつは悪い奴」とか「いつも指導を受けている、情けない奴」というイメージを他の児童生徒も内面化してしまう。

そうなると、他の児童生徒がその子の言動をいくら悪しざまにあげつらったとしても、「あいつが極悪人なのだから、きちんと指導してあげたのだ。」という正当化がなされるようになってしまう。

このパターンに陥ってしまっても、「本人にとってもまわりにとっても事態を少しでも好転させるための、パニック対処法」なんてものは頭に浮かばない。実は本人も、「パニックを起こしてはいけない。起こさないための方法を見つけなければいけない。それは頭では分かっている。しかし、どうすればいいのかさっぱり見当がつかないから困っている。」という状態なのだが。

下手をすると、「あれだけ一生懸命指導や叱咤激励をしてあげたのに、本人は反省すらしない。」などという見解を新たに誘発してしまうことになる。

この記事がそのイメージに近い。

「空気読め」

 

例の県議の号泣は、この「泣いてはいけないと本人はわかっている。しかし、何故かわからないけれど泣きのスイッチが入ってしまう。」タイプのパニックと、表面的には(←ここ重要)似ている。

この県議がネット上でおもちゃになっている状況を見て、「ああ、(暴力や暴言系などの激しいもの以外の)パニック状態の発達障害者はどれだけいじめてもいいという認識が、強化されそうだな。」と思った。

パニック状態となった発達障害者は、「耐性がない」「泣けばすむと思っている」「冗談もわからないのか」「甘やかされ続けて、叱られたことがない」「コミュニケーション能力を鍛えようとする気なんか、さらさらない。」などという罵倒を受け続ける。それらを受け続けても、沈静化には結びつかない。

パニック状態の陰には、「パニックを誘発する人」も存在する。(前述の「空気読め」の記事参照)しかし、この「パニックを誘発する側」が批判されることはほとんどない。放置されることが多い。

「わざわざパニックを誘発する以外に、事態をすこしでも好転させる方法はないのか? 発達障害者本人も周りの人も利する方法は、ないのか?」などと誘発した側が問われることはほとんどない。

私の場合、「夏炉冬扇さんは、自分がトラブルメーカーにしかなれないからいじめられると言っている。だけど、いじめるという行為自体は、トラブルとはいえないのかな?」とか「パニック対処法について、具体的な策を一緒に考えていこう」という言葉を他の人から受けたのは、28歳のときが最初である。それまで受け続けた助言は、「あなたは耐性がなさすぎる。強くならないとダメ。」の類だけだった。

 

発達障害者が、いわゆるパニックに陥ること」と「非発達障害者にとって、それと似た状態になること」とでは、「身近の人による対処の仕方を変えたほうがいい」場合が、実はよくある。

発達障害者にとってのパニックと、似た状態」になったとき、一人にされたり声掛けをされなかったりしたら、更に不安になってなかなか落ち着かない。「大丈夫だよ」とか言ってくれた方が落ち着く。

というコメントを聞いて、驚いたことがある。

そのコメントに同意する人が結構多いと聞いて、二度びっくり。

前の記事でも書いたが、発達障害者の場合は「情的なコミュニケーション」に混乱する人が結構いる。また、「一挙にたくさんの情報が入ると混乱する」という人も結構いる。

そういったことが背景にあるのだろうか、「パニックの時に声掛けをされたり人が集まってきたりしたら、却ってパニックが収まりにくくなる。一人で落ち着こうとした方が、うまくいく。」と告白する発達障害者は結構いる。

私もそうである。

 

実は、私がこの「泣きパニック」に長年悩んでいる本人である。

子供の頃、できるものなら涙腺除去手術をしたいと思っていた。

また、「感情が湧かなければ、些細なことで泣くという事態にはならない。感情が湧かないようにする方法を考えなければならない。」と真剣に考え続けていた。

28歳のとき、カウンセリングの場で、何かの拍子にカウンセラーに次の言葉を私はぶちまけてしまった。

「高性能の感情抑制装置があれば、私の頭に取り付けたい。これがあれば、人前で泣いてしまって場をぶち壊しにしないようにできる。」と

すると、カウンセラーから次の言葉が返ってきた。

「感情が湧いてはいけないと思うから、余計にその感情にとらわれて、収拾がつかなくなってしまうもの。」

「感情は勝手に湧いてしまうもの。『ここらでいっちょ、嬉しいと思ってやるか』なんて器用なマネは、そうそうできるものではない。そのようなフリをすることがうまい人もいるが。」

そしてそれから、次のことを聞かれた。

「『そのようなときには、ひとまず落ち着こうとすることが大切だ。如何すれば落ち着くのか、いろいろ方法を考えてみよう。』といった類の助言を、これまでに受けたことがありますか?」

私は答えた。

「聞いたことはありません。怒鳴られたりなじられたりしただけでした。」

カウンセラーの言葉は続いた。

「助言がなかったのは不運だったね。あなただけが悪いというわけではないよ。そのような経験を重ねて、パブロフの犬のような状態になってしまったという面も大きい。」

 

これを聞いて、「私は20年以上、無駄な努力をしてきたんだな。苦しんだだけじゃないか。」と思った。

が、同時に解放された気分にもなった。

「本人も周りの人も利する、パニック対処法を一緒に考えていこう」という姿勢がどこからも見られない状態で、「パニック状態の発達障害者は、いくらでもおもちゃにされてよい」という空気作りに拍車がかかった場合、事態は悪化するだけだと思う。