地元の魅力を発見しよう!特別企画「地元発見伝」
「地元」をどう定義するか? 迷うところだ。昭和40年代から50年代半ば頃まで、私は鳥取市と米子市をよく行き来していた。鳥取市内にも「記憶に残る風景」がある。
一枚目は、鳥取駅北口の写真である。二枚目は、鳥取駅南口近くにある「鳥取鉄道記念物公園」の写真である。
これらの写真と記事タイトルで、「ああ、1978年11月のことについて書くんだな」と思われた人もいるかもしれない。おそらくその人は、その当時鳥取市在住でかつ現在40代後半以上の人だろう。
1978年11月、鳥取駅は高架駅化された。その当時、鳥取市民は大騒ぎをしていた(と私には思えた)。特に、大人がはしゃいでいた。その当時、高架を走る列車が見えるところにある中学に通っていた友人も語っていた。
「大人がはしゃいでいる。数学の授業中に先生までが、『今だけなら見ていいぞ』ときたもんだ。」と。
鳥取駅の高架駅化工事は、1972年に決定し開始された。高架駅化後、1980年に駅北口周辺の広場整備完了、1985年に南口周辺の広場完成となった。「工事中、高架化完了時、それぞれの広場整備完了時、現在」で、駅や近くの雰囲気は大きく変わった。「行くたびに風景が変わっている」と、当時の私も驚いた。
鳥取鉄道記念物公園は、1981年10月にできた。高架駅化よりも前に使っていた鉄道備品を移設してできた。「高架駅化記念に、それまでの駅の様子を残しておこう」という目的でできた。
それぞれの段階での駅とその近くの雰囲気、鳥取鉄道記念物公園は、私にとっては記憶に残る風景である。
「どうして、鳥取レベルの駅で高架駅が必要なんだ?」と思われた方もいらっしゃると思う。私も不思議に思っていた。
鳥取駅西側に、国道53号線がある。地平駅だった頃は鉄道車両を移動させる「入換」がなされていて、道路交通上不都合があったらしい。その不都合解消のために高架駅化されたということだ。
地平駅だった頃は、駅には南口はなかった。私が駅南に行くことは、当時ほとんどなかった。例の友人も、「南口の住宅地と北口近辺とが分断されている感じだった」と話していた。
高架駅化後に南口ができて初めて、私は駅南を見物した。
南口周辺の広場完成後、大手スーパーやホテル等ができた。そして、平成に入ってからは、鳥取市中心部における官公庁街となっている。昔の分断イメージは、もうない。
鳥取鉄道記念物公園には、「地平時代の鳥取駅ホームの雰囲気を、再現させた場所」もある。
10年ほど前までは、「駅のベンチ、当時の時刻表示版、駅看板、大時計」といったものがその場にあったはずである。何故か今は殺風景になっている。残念だ。
私は特に、当時の時刻表示版が気に入っていた。それを見て、「とても気の長い鈍行夜行列車だな」とか、「え、こんなところまで直通列車が走ってたの?」とか思っていた。
この高架駅化決定までは、やはり、地域ぐるみの一大市民運動がさかんになされたそうだ。
「なるほど、大人が大喜びをするはずだ」と、今ならわかる。