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karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「ひきこもり」のまわりにあるもの 3

はてなブックマーク - ひきこもりを地域の力に  - NHK クローズアップ現代

私のブックマークコメント

「集団でうまくやれない個人の、病理が原因。何とか外に出せば解決。」という見解のようだな。集団というものは、ときとして暴力的な性質を持つ。「その暴力性への対処法が見つからないから外に出られない」のかも。

 

ニート学部から“黒歴史学”“奇業学”が誕生!?「NEET株式会社×ひきこもり大学」の化学反応|「引きこもり」するオトナたち|ダイヤモンド・オンライン

私のブックマークコメント

記事中の「自分哲学」が、「黒歴史を自虐的にネタにすることに、抵抗有」の場合はどうなのか?私の場合、黒歴史の意味づけや社会規範や価値規範との距離への折り合いを熟考することが必要だった。

 

 

 「ひきこもり」のまわりにあるもの 2 - karotousen58のブログで、次のことを書いた。

・ひきこもっている本人にとっては、「世間一般で言われているところの、社会参加」は、「ひきこもりに対する非難に満ちた、外傷をもたらすだけの迫害的な場で、自己否定感を抱えたまま、利益の得られる行動を積極的に行うこと」である。

・そのような世界で生きていくには、相当の覚悟が必要。

・激しい自己批判や、他者や社会に対する不信感とどう折り合いをつけるか。ひきこもったことへの意味づけや、社会規範や価値基盤との距離をどう意識化して折り合いをつけるか。それらを考えることが必要となる。

・それらを考える際に、「いろいろな人の生き方」を「自分に重ね合わせて」少しずつ組み立てる。自分なりに考える、納得することが必要。

 

今回は、「ひきこもっている本人がこれらを考えていくこと」と「本人以外の人(特に、ひきこもりではないと自己規定している人)」との関係性について書く。

私が過去に見聞きした、ひきこもりやニートに関するマスコミ報道は、次のような見解を垂れ流してきたように思えて仕方がない。

・対人的にも実務的にもスキルが乏し過ぎ、自信や意欲もない」ひきこもりと、「そうではない」我々がいる。劣等な位置にあるひきこもりを、そうではない我々が引っ張り上げてあげることが必要だ。

・ひきこもりの人を引っ張り上げてあげる場として、本人にかかるプレッシャーが少ない場(実は、労働法の適用されない場なのだが)が望ましい。そういう場をできるだけ多く提供してあげたいのだが、現状としては難しい。何とかひきこもり本人が逃げずに勇気を出して、耐性を高めるように努力してほしい。感謝される経験や必要とされる経験を重ねていけば、耐性は高まる。そしてひきこもりは解決する。

 

今回は、この、「与えられてばかりのひきこもり」と「与えてばかりの我々」という認識に、次のツッコミを入れたい。

「個人」と「社会」の間にある「関係的な生きづらさ」が無視されてる認識と違うか? 

 

「関係的な生きづらさ」について考える際、次の3点に着目する必要があると私は考える。

1.「ひきこもり」とされる人に乏しいとみなされている、「社会性」や「社会参加」とはいったい何なのか?

2.「ひきこもり」をめぐる問いは、「ひきこもり」本人のみを問うだけにはとどまらないのでは? 本人をめぐる「社会」や「その社会を構成している無数の『個人』」を問う視点も関係してくるのでは?

3. 2.での両者とも見なければ、本人を無駄に苦しめるだけに終わるのでは?

 

「ひきこもり」のまわりにあるもの 1 - karotousen58のブログ

「ひきこもり」のまわりにあるもの 2 - karotousen58のブログ

で述べたように、「ひきこもりを解決」しようとするのならば、「ひきこもっている本人を矯正」する方針では目的は達成困難である。

まず最初に、「ひきこもっていない我々」の、ひきこもりに対する「攻撃的な見方」が彼(女)らをひきこもらせていると認識する必要がある。

そして、彼(女)らに対してそのような見方をしてしまうのは、実は、(程度や場面の違いはあれど)彼(女)らが向き合っている問題が「ひきこもっていない我々」にも共通するものでもあるからなのでは……と私は考える。

ひきこもっている本人を、「社会性のない人」とみなす根拠はどこにあるのだろう?

「何らかの職に就いているか否か」という評価軸だけで、彼(女)らが判断されているという可能性はないのだろうか?

本当に彼(女)らと接したうえで、「社会性がない」という判断を下したのだろうか?

その評価軸だけで彼(女)らと接した場合、おそらく、彼(女)らは語ることが出来なくなるだろう。

語ったとしても、その語りの内容や正当性が無視され、曲解され、貶められることが予想できるから。

そして、その評価軸は、ひきこもっていない人に対しても似たような適用がなされていそうだ。

「職の上で、どういうポジションにあるか?」といった類の適用が。

 「ひきこもっている本人に対して攻撃的な見方が生まれる、背景」には、この「似たような適用」があるのでは……と私は考える。「ひきこもっている本人に対する攻撃的なまなざし」を向けて、安心感を得ずにはいられないといったところだと、私は考える。

 「ひきこもりを排除することを迫る、社会」は、実は「ひきこもっていない我々をも、追い詰めている社会」である。「ひきこもっている本人を矯正の対象とする」ことは、「ひきこもりを排除する社会のありかたを、温存させる」ことにつながる。

ひきこもりの本人を、社会に「順応」させるという方向よりも、「我々全ての生活を充実させる社会」を構築するという方向で考える必要があると、私は思う。

 

最初に、ひきこもりの本人を排除させるような、社会の構造や価値観を見直すことから始まる。

社会を広げようとする試みは、足がかりとなる「人」や「場」が多いほど成功しやすくなると思われる。そこで問題となるのは、そうした人や場をいろいろな場面で生み出していく土壌がこの社会にあるか否かである。

そうした人や場を生み出すには、次の発想が必要だと私は思う。

「ひきこもることが、本人にとって、生き方を再編成するきっかけとなっている」のと同様に、「我々個々人の生き方や社会のありかたを、見直し再編成していくきっかけ」としてひきこもりを位置づける。

 

他者と交わることによって、傷が広がる危険性は確かに存在する。だが、逆に言えば、自己を傷つけられるだけの「力」があるからこそ、他者は自分を承認するに足る存在ともなりうる。

心のどこかでそう思えることが必要だと、私は思う。

しかし、「人として劣っているひきこもり」を「そうでない我々が引き出してあげよう」という発想の下では、そのような発想はでてこないだろうと思えて仕方がない。

「ひきこもっている人を、社会的に劣った人とみなす」社会と、「社会を広げる足がかりとなる人や場を生み出すことについて、関心が払われない」社会は、コインの裏表の関係にあるのかもしれない。

(ひとまず完結)