karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

今週のお題「私がブログを書く理由」

今週のお題「私がブログを書く理由」

 

ブログを書くと時々、「おお、思ってもみなかった視点からの説明があった。面白い。」とか「『それも一理ある』という納得」につながる場合がある。つながるとうれしい。「私がブログを書く理由」は、それである。

私がブログを始めたきっかけを書いた、過去記事今週のお題「私がブログを始めたきっかけ」 - karotousen58のブログでもそのことについてふれている。

では、「思ってもみなかった視点からの説明」や「納得」に、どんなルートを経由してつながるか?

ブログを始めて私が最初に驚いたことは、「『ブログを実際に書いてみるまでは、想像すらしていなかったルート』も存在するものなのだな」と知ったことだった。

 

ブログには、簡易アクセス解析の機能がついている。実際にブログを書いた経験のない状態では、この「簡易アクセス解析機能」がどんなものなのか意識することはほとんどない(少なくとも私は、そうであった)。「どんな言葉で検索されたかがわかる」程度の意識しかなかった。

だが、この「検索ワードを知る」ことは実は、「ブログを実際に書いてみるまでは、想像すらしていなかったルート」になりうることだった。

 

ブログを始めたばかりの頃、「私が想像すらしていなかった検索ワード」でアクセスがあったことに驚いた。そして、「検索して辿り着いてくださった人が読みたかったのは、この記事の内容なんかではないだろうな。役に立たないブログでごめんなさい。」と思った。

 

検索ワードによっては、拙ブログが上位に表示されることもある。「こんなブログでさえも、上位に表示されることがあるものなのか……」と驚いた。

心因性てんかん性 てんかん」について、このブログで書いたことがある。この検索ワードでのアクセスもよくある。そこで、このワードで私も検索してみた。すると、表示された記事の多くが、医療関係者によるものだった。患者本人のブログ等はほとんど見つからなかった。

「患者がネット上で意見発表するというケースが稀とか、意見発表しても上位に表示されないとか、いったところなのだな」と思った。私が実際にブログを書いていなかったら、こういうことを意識できないままだったと思う。

また、時々、「この検索ワードは鋭い。私も、この検索ワードを使って調べてみよう。面白い記事が見つかるかもしれない。」と思うワードが見つかることもある。実際、面白い記事をいくつか見つけた。

 

頻繁には更新できないが、ブログを私は楽しんでいる。 

今週のお題「犬派? 猫派?」

今週のお題「犬派? 猫派?」

 

結論から言うと私は「犬派」である。

・私は、犬とのつきあいは長いが、猫とのつきあいはほとんど経験がない。

・私が子供の頃、近所のノラ猫に近づいてもしょっちゅう逃げられていた。

・うちで飼ってきた歴代犬は、「近所の猫によく挑発される」→「抵抗を試みても、猫に垂直移動をされて、はいおしまい」パターンの行動をしょっちゅう取っていた。

・庭犬として飼っていた犬を、家族が座敷で飼うように変更したことがある。その後、外で使っていた犬小屋は猫に乗っ取られてしまった。

といった経験からくるイメージが大きいからだ。

ただ、私は猫も好きだ。猫の奔放なイメージも好きだ。一度猫カフェに行ってみたいが、うちの田舎には猫カフェがない。残念。

「猫派ではない」というより、「猫とつきあった経験がほとんどないから、イメージが持てない」といった感じである。

 

犬を飼う際には、「狂犬病予防注射」を毎年一回受けさせなければならない。

この「狂犬病予防注射」をする方法は2とおり。どちらかを選ぶ。「公民館等での集合注射」か「動物病院での個別注射」かを。

うちでは、「当日に雨が降りそうにない場合は、集合注射。雨が降りそうなら動物病院で接種」という方針を取っている。集合注射では、いろいろな犬を見ることができるからだ。この理由で集団注射を選ぶ「犬派」の人も、たぶんいると思う。

 

集合注射の会場には、当日いろいろな犬が来る。

獣医に対して睨みを利かせる犬、しっぽを丸めてその場から動かまいとする犬、不穏な気配を感じてぶるぶる震える犬、ビビって失禁する犬、他の犬に興奮してはしゃぎまくる犬、しっぽを振って注射も平気な犬、注射をされて「キュアーン」と鳴く犬、さまざまである。

うちの歴代犬は

玄関を出たときは「わーい、散歩」とはしゃぐ。→途中で、「何か変なことをされそう」と感づく。→会場に付いたら、しっぽを丸める。→それでも、本番ではトラブルを起こさず終わる。

というパターンが多かった。

他の犬に興奮してはしゃいだ犬は、うちの歴代犬では一匹だけ。ヨーキーだった。「日本犬と洋犬との違いかな?」と思った。

昔担当なさっていた獣医さんも、人当り(というか犬当りというか)のいいかたで、「すぐだからね。いい子。」と穏やかに声をかけて注射をなさっていた。注射をされて「キュアーン」と鳴いた犬に対して、「痛かったか。ごめんよ。」と穏やかに声をかけておられた。この獣医さんは、いわゆる「いかつい顔」の人だった。穏やかな声とのギャップがまた楽しかった(というと失礼だが)。今は、他のかたが担当なさっている。

 

接種前には、受付をすませる必要がある。受付事務の人が持っておられる書類には、犬の名前や生まれた年が書いてある。うちの先代犬は17歳まで生きた、昭和生まれの犬である。この先代犬の接種受付時(15年ほど前のこと)、たまたま書類の一部が私の視界に入った。「昭和生まれって、こいつだけか?」とか「洋風の名前が多いな。これだと『ポチ』とか『コロ』とかいった類の犬らしい(?)名前のほうが、かえって目立つぞ。」とか思った。

この受付では、私の直前で受付をすませた洋犬のことも印象に残っている。

この洋犬は、「わーい!お友達がいっぱい!」という感じではしゃいでいた。そして、受付事務の女性に愛想をふりまいていた。女性のひざにも乗った。しっぽを振って、注射も平気だった。テリア系という感じの犬だった。

 

会場に来る犬を見ていると、やはり、流行の犬種が年によって違っていることがわかる。今世紀に入ってからは、会場でシベリアンハスキーを見かけない。レトリーバーなどの大型犬も少なくなった。ここ5年ほどは、小型犬が多い。中型犬レベルでも少なくなっている。今年は、大型犬や中型犬も見たいものだ。

「よだきい」という方言

今週のお題「方言」

 

私は高校卒業まで、鳥取県内で暮らしていた。鳥取県の、中部と東部でよく使われる方言のひとつに「よだきい」がある。

高校を卒業してすぐ、九州の大学に進学した。九州で暮らすようになって初めて、大分県や宮崎県の方言にも「よだきい」という表現があることを知った。しかも、まるっきり違う意味で使われているということを。

鳥取県中部/東部の出身者が、大分/宮崎方言の「よだきい」を初めて聞いたらどう反応するだろう? おそらく、「え、私、何か悪いことをしてしまったのだろうか」というふうに思うだろう。私は、初めて聞いたときビビった。

 

鳥取県中部/東部方言の「よだきい」は、罵倒語である。しかも、「人間として最低」という感じの罵倒語である。強欲、うるさい、不快だ、汚い、などいろいろな意味で使われる。

高校時代、漢文の授業で荘子の言葉「君子の交わりは淡きこと水のごとし、小人の交わりは甘きこと醴のごとし」を習った。そのとき、ある生徒が「醴のごとし」の部分を「よだきい」と訳した。教師も生徒も「ああなるほど」と思ったようだった。

大分/宮崎方言の「よだきい」は、「面倒だ」「疲れた」という意味らしい。語源は古語の「よだけし」らしい。

 

「激しく立腹しているわけではなさそうだが、『よだきい』という言葉がよく使われる。ひょっとしたら、『よだきい』は方言かもしれない。」と私が最初に思ったのは、大学に入った年のゴールデンウィークの頃だった。

思い切って、「よだきい」の意味を聞いてみた。すると、説明がなされた。

鳥取県中部/東部方言としての意味を話したら、やはり驚かれた。「鳥取出身者のいる場では、方言の意味を説明したほうがよさそうだな。」と言われた。

大分/宮崎出身者が、鳥取県中部/東部方言の「よだきい」を聞くことは、あまりないだろう。陰口以外では、ほとんど使わない言葉である。私も、九州では使わなかったと思う。(私の場合は、「陰口」よりも、回避という策を取ることが多い。)

 

同じ言葉が、地域によって全く違った意味を持つものになってしまう。しかも、「とんでもない罵倒語」と思い込んでしまってコミュニケーションを取る。今なら笑い話である。が、当時は本当にビビりまくっていた。

これから先、他の地方の方言でもこのような経験をすることがあるだろうか? 他の人はこういう経験はないのだろうか? この記事を書いていて思った。

因幡の「から方言」

今週のお題「方言」

 

因幡の「から方言」について書く。「因幡」とは、因幡国(現在の鳥取県東部)を意味する。私の両親は、そこの出身である。

この「から方言」は、鳥取県東部を離れて暮らした経験のない人ならば、方言だと意識することはほとんどないだろう。私自身、大学進学で九州に出て初めて、「他の地域出身者が驚く」表現であることを知った。

 

共通語では、「~から」は、出発点や経過点を表す助詞として使われる。

例 家から会社まで

しかし、鳥取県東部の場合は、この用法以外にも「動作の行われる場所や場面を表す助詞」(共通語では「~で」)としても使われる。

例 (共通語なら)「会社で働く」

  (因幡の「から方言」なら)「会社から働く」

 

私が中学生だった頃、国語の授業で1年に1回は、この「から方言」について指導がなされていた。

中2のとき、次のような説明がなされたのを覚えている。

1960年代になされていた「全国学力テスト」で、「空欄に適切な助詞を入れよ」という問題(四択)が出された。

動作の行われる場所や場面を表す助詞である、「で」を入れるのが、正解となっていたテスト問題だった。そして、他の選択肢のうちの一つが「から」となっていたらしい。その問題の正答率は、鳥取県だけが異様に低かったということだ。

やはり、「から」を選んで誤答となったものがほとんどだったらしい。

私よりも下の世代の人は、学校で「から方言」に関する指導がなされなかったらしい。「指導があった」と私が言うと、「え、そんなのなかった」という類の言葉しか返ってこない。

 

私が初めて、九州でついうっかり「から方言」を使った時のことも覚えている。

「昼ごはん、学食から食べるの?」と聞いてしまったのだ。

それを聞いた友人(九州出身)が、「学食で食べたあと、また別のところに行って食べるのか?」と答えた。

「え、ここで何故唐突に、別のところなんて言葉が出てくるんだ?」と一瞬思ったが、すぐに「あ、から方言だ」と思った。

そして、学食では、「から方言」関連で会話が盛り上がった。他の友人は「こいつは学食を食うのか?」と思ったらしい。

1985年、鳥取で国体が開催された。インタビューに答えていた地元の関係者が、「国体が鳥取からあってうれしい」と発言したシーンが放送された。「あ、これ、鳥取県外の人には通じないぞ」と思った。ちょうどそのとき、件の友人たちも一緒にいた。「ほんとに、から方言って通用してるんだ」と驚いていた。

 

韓流ブームのころ、友人のうちの一人が韓国語の勉強を始めた。その友人が、「あんたの言ってた『から方言』って、韓国語の助詞の『エソ』と似てるんじゃねーの?」と言った。

友人曰く、韓国語の助詞「エソ」も、「動作の行われる場所」と「起点・経過点」の両方を表す助詞ということだ。

「会社で働きます」を「会社エソ働きます」、「会社から帰ってきました」を「会社エソ帰ってきました」という感じで使うらしい(もちろん、「エソ」以外の部分は韓国語表記)。

この「エソ」、韓国語を勉強する日本人が混乱するケースは多いらしい。「鳥取県東部出身者なら、悩まないんじゃねーの?」と、その友人から言われた。

韓国と鳥取県東部で、どうして似た表現になったのだろう? 不思議だ。

 

「この『から方言』のような方言は、変だと思っても指摘しづらい」という声を聞いたこともある。

「些末な文法的間違いに目くじらを立てる人」と思われたら嫌ということらしい。

こうして、から方言は、「地元民には方言と思われていない状態で使われ続けている、方言」となっているようだ。

こういうタイプの方言、他の地域にもあるのだろうか? 知りたい。

発達障害者と「暗黙の了解」との間

 

 

 

発達障害の子への障害告知とセルフアウェアネス~自分の強みを知っている事の大切さ~ - ひろげていこう 発達障害のWA!~「困ってる子」という視点からの支援~

「告知」からずれたコメントを。暗黙の了解が理解困難、「太ってますね」発言は、悪気がなくて正直なだけ→代わりの行動を の間には「何か」有。その「何か」が、現場では非発達障害者サイドで語られている。疑問有

2016/02/25 02:12

「何か」の中身を、夏炉冬扇による語りとして書いてみる。今週のお題「憧れの人」 - karotousen58のブログと重なる部分もあるが。

 

暗黙の社会のルールに気づくのが苦手なアスペルガーの子は、太ってる人に「太ってますね」なんて言っちゃいますよね。でもこれ悪気がなくて、正直なだけなんですよね。悪気がないからと言って人を傷つけていいわけではありません。でも、「正直である事」は否定すべき・修正すべき行いですか?違いますよね。だから「そんな事言っちゃいけません」では正直である事を否定してしまいアスペルガーの子にとっては問題解決にはならないんですよね。そんな時に必要なのは「代わり」の行動を教えてあげる事なんです。

息子の学校では、「自分以外の人達の考え方を知って、自分を見つめ、自分を知る」というセルフアウェアネスという方法と「自分と他者の立場を知った上で、どう行動すれば自分も周りの人達も気持良く過ごせるか」という、問題解決の為のコーピングスキルという事を息子の社会性の向上を目指すプログラムとして取り入れています。

 

 発達障害系の人の場合、「太ってますね」という発言を「悪意の有無」という観点以外からも考える必要があると私は思う。次のようなケースが本当にあるから。

1.今週のお題「憧れの人」 - karotousen58のブログで述べた、相撲好きな子の事例。(「太っている」という表現に、好意的な価値判断が隠れている。)

2.これは私の本心。「『太っていることや、脚が短いことや、女性の肌が黒っぽいことなどは、美醜の観点からは好ましくないことだ』という価値判断が、正しいことになっている」ということが、感覚的に腑に落ちない。「人の身体は千差万別。それらは身体の特徴のうちの一つであるというだけで、それを超えているものでもそれ未満でもない。それに対して、個人的に美醜の基準を持つというのならわかる。しかし、どうして、世間一般の基準などというものまでが押し付けられるのかわからない。「単なる、特徴のうちの一つ」に対して、「世間一般的に、好ましいとか好ましくない」という価値判断をわざわざくっつけることのほうが、失礼だと思う。

 

 ブックマーク元の記事では、「息子を否定していない」「自分以外の人達の考え方を知って」「ありのままの自分」という記述が出てくる。

ここで、私は疑問を持ってしまうのだ。「太っていることは、好ましくないことである」という価値観を外れたものは、「自分以外の人達の考え方」「ありのままの自分」のうちのひとつとしてカウントされうるのだろうか? ひょっとしたら、支援者的ポジションの人は、「その価値観を外れた考えなんて、ありえないし許されない。」とでもお思いなのではなかろうか? という疑問を。

 

「『太ってますね』と言われたら傷つく。そのことをみんなは、いちいち教わらなくてもわかる。わからないのは、発達障害があるからだ。だから、面倒でもいちいち教えてあげなければいけないのだ。価値観を外れた考えなんて、屁理屈だ。」という反論もあるかもしれない。

しかし、「『わからない』の背景にある事柄は、発達障害者本人にとっては無視できない事柄だ」という思いが私にはある。

「太っていることは、好ましくないことである」という価値観が伝達される際、「太っていると発言した側と発言された側それぞれの、口調や表情などの非言語性情報」も含めた、いろいろな情報がやりとりされる。

発達障害系の人の中には、その際、「非言語性情報」を読み取ることに難儀する人もいる。私がそのうちの一人である。「太っている人は、かっこ悪い」という類の罵倒がなされるとか、マスコミがダイエットを煽るとかいった、他の情報が入って、「どうやら、(今の日本の)世間一般では、太っていることは好ましくないという価値観が主流となっているらしい」と認識することになる。人によっては、「それでも、その価値観は腑に落ちない」という思いも同時に持つことになる。

他の情報が入ってくる場合は、まだよい。「他の情報が見つからない事柄に対して、暗黙のお約束事を理解できている自信がない」という思いを、私はいつも抱えている。

「たとえ腑に落ちないとしても、とりあえずルールやパターンとして頭の中に入れる。そうしなければ生きていけないから。」という形で、「太っているのは好ましくないことである。」という価値観をとりあえずインストールする。もう一歩進んだ形として、「他の人の容姿については、自分からは話さないようにしよう。」というスキルをインストールする。こういう方法を、発達障害系の人はおそらく取っている。

一方、その「非言語性情報把握」は、発達障害の傾向が低い人の場合はおそらく瞬間的に無意識的になされる。「言われた人の眉間にしわが寄ったから、まずい発言だったのだろう」などと、いちいち意識して把握するわけではないと思われる。

つまり、「母語ではない言語による会話を、文法を駆使してぎこちなく行う」ことと、「ネイティブスピーカーが、文法をいちいち意識することなく、スラスラと会話していく」ことのような違いがあるのでは……と私には思えて仕方がない。

 

では、「暗黙のお約束事」を把握することが困難な子供だけを集めて、「常識や代わりの行動」を教えれば解決するというものなのだろうか?

おそらく、彼(女)らは、過去にも同じような注意や指摘を何度も周囲の人になされてきているだろう。「どうしてあなたは、そんなに意地悪なの」などと。

「脚が長い人に対しては『脚が長い』と言ってよい。しかし、太っている人に対しては『太ってますね』と言ってはいけない。」などと説明されたら、再度混乱してしまうこともありうるのだ。「脚が長い」とか「太っている」ということに対して、「価値判断がくっついている」ということに混乱してしまうのだ。

 

「人を嫌な気分にしたり傷つけたりすることを言わない」「本音を言ってよいか否かは、場の空気によって決まる」ということは、世間一般において「常識的な規範」となっている。そして、それを犯すことは、あってはならないことである。

という前提条件を、ブックマーク元記事の登場人物は、どうやら共有しているらしい。

そして、その「あってはならないこと」に対して、「礼儀正しくするために、社交辞令を用いる」→「嫌な気分や傷つきを回避」という対策を、登場人物が提供しているらしい。

提供された具体的方法としては、ママや先生や友達と発達障害者本人とで話し合って「嫌な言葉リスト」めいたものを作ったということらしい。この「リスト作成」は、一歩間違えると怖いものになりうるのでは? と私は思った。

・このリストを作った過程において、ママや先生や友達は、「あってはならないこと」を強く認識したことにならないだろうか?

・強く認識したもとでは、「人を嫌な気分にしたり傷つけたりする、意地悪で思いやりのない子」「場の空気が読めない子」「リスト作成などをいちいちやらないといけない、誰かの助けがなければダメな子」というイメージが、発達障害者本人により強く貼り付けられないか? そうなると、自己肯定やありのままの自分どころではなくなるのでは?

・この「あってはならない(とみなされた)こと」に対する、相互監視めいたものが強まらないか?

と思ったのだ。

 

「暗黙のルール」に隠れた価値基準を絶対視しない態度、その価値基準が造られていった過程や意味をいろいろな角度から考えてみること、こういった態度も重要かもしれない。こういう思いから私は、今週のお題「憧れの人」 - karotousen58のブログの記事を書いた。

こういう態度の下では、「場の空気が読めず、トンチンカンな行動を取る発達障害者」という評価だけでは終わらず、「『コミュニケーションのふくらみや楽しさ』を生み出す可能性も持つ人」という評価が生み出される可能性もある。「コミュニケーションのふくらみや楽しさ」が、発達障害者以外の人にも共有される可能性もありうる。私はそう捉えている。

このような段階を経て初めて、

・「正直に話してよい世界」と「社交辞令を使うべき世界」の両方を知る

・社交辞令を使うべき世界での、マニュアルやツールやスキルの研究や使用方法を習得する

ことに対して前向きになれるのではないだろうか? 

そして、発達障害系本人以外の人も、「発達障害系本人を対等な他者として見る」ことにつながっていくのではなかろうか?

私にはそう思える。

今週のお題「バレンタインデー」

今週のお題「バレンタインデー」

 

私は今まで、「バレンタインデー」「ホワイトデー」という国民的行事(?)に参加したことがない。そして、これからも没交渉を貫くつもりである。

没交渉を貫く理由は、私が「日本の贈答文化を理解することが困難な、おバカさんだから」である。

「日本の贈答文化」のどんな点が理解困難なのか。それについて書いてみる。

 

日本の贈答文化は、「贈答、受贈、返礼」の三つの過程から成り立っている(と私は思う)。おそらく、「誰かが誰かに贈り物をする。贈られたほうは『ありがとう』といった類のお礼を言う。それで、はい完了。」とはみなされていない(と私は思う)。

この贈答文化の特徴は、「『贈答』が行われた際に、受贈者側がそれを『義理』と解して、直ちにそれに対して『返礼』を迫られる」ことにある。バレンタインデーやホワイトデーでの贈答も、この文化に組み込まれている。

「そんな、おカタいことを言わなくてもいいじゃないの。贈り物を交換することを通じて、対人関係を円滑にしているだけよ。」という反論もあるだろう。確かに、そういう面がゼロだとは言わない。しかし、私には、この贈り物交換の背後に「ある種の強制力」があるように思える。「参加したことがない。これからも没交渉を貫く。」と私が表明すると、ほとんどの人が驚くことから考えるに。

 

私は、物を贈る行為に対しては「物を贈る→受け取る→はい、完了」型の感性を持つ人間だ。

私は「下心のこもった贈り物」というものが苦手だ。するのもされるのも。私が贈り物をするときは、見返りを求めていることはほとんどない。「受け取る」という行為自体も、お礼のひとつだと思う。「ありがた迷惑」と穏やかに(←ここ重要)告げることも、お礼のひとつだと思う。返礼の品物がなくても、物を贈られたことじたいがうれしかったとか役に立ったとかいう「事実」があったのなら、それだけでうれしいと思う。私はこういう人間だ。

「三つの過程から成り立つ贈答文化」は、私にとっては複雑なものに思える。所謂発達障害系の人の中にも、この贈答文化に戸惑う人が少なからず存在するのでは……私はひそかに疑っている。

 

この贈り物交換は「個人が他の個人と行うもの」ではないように、私には思える。「集団と集団との間で行われているもの」に思える。

この国民的行事(?)での贈り物は、所属集団における「相手の地位」に贈られるのでは? と私はひそかに疑っている。それだけではない。これらの贈り物には、「贈ることによって、相手に『義理』という心理的負担を負わせ、自分が相手よりも心理的に優位な位置に立つ」という意味がつけられているのでは? と私は疑っている。

返礼もまた、(少なくとも私にとっては)厄介な行為である。返礼は、「(地位の反映された)贈り物」に見合ったものでなければならないと思われる。「返礼」の価値がそれを超えたものだと不審に思われる危険性がある。それ未満のものだと、「侮蔑された」と解釈されかねない。

どうやら、この国民的行事(?)での「贈り物交換」には相場めいたものが存在するらしい。

この国民的行事(?)では、ある特定のチョコレートに、変な意味がつけられてしまうようだ。昭和時代なら、チロルチョコに変な意味がつけられていた。今は、ブラックサンダーもそのポジションにあるようだ。

私が一番好きなチョコレートは、チロルチョコである。このチョコレートに変な意味をつけられて消費されるのは、私としてはおもしろくない。

 

この国民的行事(?)に対して、「一度に複数の人から、同じような品物をもらってもうれしいものなのだろうか?」という素朴な疑問を私は持っている。

「参加したことがない。これからも没交渉を貫く。」と私が表明する際には、次の言葉も付けている。

「夏炉冬扇関連でその行事(?)にカネや時間やエネルギーを使わなくていい。それらを他の人に使ってくれたほうが、お互いずっといい。」

今までのところ、没交渉宣言については(少なくとも表面的には)波風は立っていない。

時々、アビリーンのパラドックス - Wikipedia めいたコメントが、私にカミングアウトされることもある。

「本当は面倒と思っている」「受け取らないという選択肢が、事実上ないというのが嫌」とか。

そしてその結果、「職場内でこの行事(?)に関する話が出なくなり、参加者もいなくなった」ということも過去にあった。

「一度に複数の人から、同じような品物をもらってもうれしいものなのだろうか?」この疑問を呈する人、他にはいないのかな? 気になる。

てんかんと救急医療

 

トリアージとは?正しい救急車の使い方 - ナースほど誇れる仕事はありません

私はてんかん患者。1980年代、「所謂てんかん大発作で救急車が呼ばれて、タクシー代わりに呼ぶなと叱られた。」という話を何度か聞いた。この病気の場合、呼ばないと危険な場合も稀にある。一般には知られてないかも

2016/01/28 01:27

てんかんという発作性の病気がある。この病気の発作には、いろいろなものがある。意識消失を伴うものやそうでないもの、けいれんの起こるものやそうでないもの、その他いろいろある。

所謂「てんかん大発作」では、全身けいれんと意識消失を伴う。けいれんや意識消失は、たいていの場合1~2分のうちにおさまる。救急車を呼んだ場合、到着したころには発作はおさまっている。

しかし、稀に、けいれんや意識消失が5分以上続く場合がある。これをてんかん重積状態という。この場合は救急車を呼ばないと危険である。

 

はてなブックマーク元の記事を読んで、

・この「てんかん大発作」が起きている患者を目撃した人が救急車を呼ぶ→救急車が到着したころには患者の意識は戻っている→「意識が戻っているのなら、タクシー代わりに呼ぶな」と叱られる

というケースって、どの程度あるのだろうか? 

・「呼んだ人が叱られる」という、気の毒なケースも結構あるのだろうか?

・「てんかん大発作で、救急車を呼ぶ必要があるかどうか」について、患者や家族に情報がきちんと伝わっている状態ではないケースもあるのでは? 伝わったとしても、対策について関心が持たれないという事態になっていないだろうか?

という疑問が、私の頭に浮かんだ。

 

私がてんかんと診断されたのは1981年。ちょうどその頃、「救急車をタクシー代わりに呼ぶこと」がマスコミでしばしば話題にされた。

診断された当時から私は、「てんかん」関連の書籍や新聞記事等はできるだけ読むようにしている。私の親がてんかんに対して偏見を持っていて、てんかん患者であることを今でも認めていないからだ。(てんかん患者と家族 - karotousen58のブログ)こんな状態では、この病気に対しては自分が知識をつけていくしかない。

私の場合、発作は夜間睡眠時に起こる。だから、「救急車を呼んで、注意される」という事態にはなっていない。だが、「てんかん大発作で、救急車を呼ぶ必要性」について、医療関係者から説明を聞いたことがない。

他患者の大発作が起こった場合、適切な行動を取れる自信が私にはない。

 

てんかん患者の間で、「救急車が着いたころには意識は戻っている。『意識がもどっているのなら、タクシー代わりにしないでください。』と医療関係者に言われた。」という声がいくつか出ている。患者の手記等でそれを知った。

これらの患者の声とマスコミ報道から、私は、てんかん大発作の患者を目撃した場合は次の方針を取ろうと考えた。この方針を考えたのは1983年頃である。

・まず最初に、患者の様子を観察し、後で本人や医療関係者に説明できるようにする。

・けいれんや意識消失が5分以上続いたら、救急車を呼ぶ。そうでない場合は、その後のことは本人の判断に任せる。

(つまり、発作を見た→すぐに救急車を呼ぶ とはならない。)

 

ネットが普及してから、私はてんかん関連サイトからも情報を得ることにしている。サイトを見るようになってから、「1983年ごろに考えた方針は、修正の必要がある」と思った。

発作の様子をどのように観測すればいいか? ということについては、次のサイトが参考になる。

第3章 発作の観察と処置 | てんかん情報センター

また、今ではスマホなどで動画を撮ることができるようになった。発作を起こした人の家族がそばにいた場合、「発作の様子を動画で撮ったほうが、病状を伝えやすいかもしれない」と考えて、家族が動画を撮るということもあるかもしれない。

 あるサイトによると、「あなたの場合は、てんかん重積状態にならなくても救急車を呼んでください。」と医師から指示のあった患者もいるらしい。こういう場合は、「てんかん発作で救急車を呼ぶと、非難される」という思い込みを持ったまま接するのは危険だろう。

これらを踏まえて考えるに、患者の側も「発作が起きた時の対応方法、薬の処方、連絡先」等をメモにして身につけておいたほうがいいと思う。

 

結論として

てんかん大発作の起きている人を目撃した場合は、救急車を呼ぶ。(家族等事情のわかっている人が目撃の場合を、除く)

・発作の様子を観察して、本人や医療関係者に説明できるようにする。(とはいっても、身近に患者のいない人が目撃した場合は、何をどうすればいいのか混乱するのは当然です。発作の持続時間、身体の左右どちらかにだけ起こった発作か否か、意識が戻った直後の状態、といったところだけでも注意してくださったらありがたいです。)

・発作の処置について、やってはいけないことを一点。「舌をかまないようにするため、スプーンなどを発作を起こしている人の口に入れる」という対処法を聞いたことがある人も多い。しかし、それをするとかえって危険である。

・患者の側も、「発作が起きた時の対応方法、薬の処方、連絡先」等をメモにして身につけておく。

 といったところでは? と私は考えている。

(注 今まで私は、こういうことを医療関係者や他の患者の前で発言したことがない。現段階で私が出した結論は、医療関係者や他の患者から見れば的外れなものかもしれない。)