karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

今週のお題「わたしの一足」

今週のお題「わたしの一足」

 

結論から言うと、「『わたしの一足』などという贅沢なことは言ってられない」状態である。

私の体は小ぶりにできている。足も小さい。私に合うサイズの靴は数が限られてくる。「どんな靴を置いているか」ではなく、「小さいサイズの靴をどれだけ置いているか」で優先的に行く靴屋が決まってしまう。

 

ここまで書いて唐突に、「十六文キック」なる言葉が頭に浮かんでしまった。画像までが。

この言葉が頭に浮かぶのって、いったい何年振りだろう? どのくらいの年齢層までなら通じるのだろう?

「十六文キック」とは、ジャイアント馬場というプロレスラーが使っていた蹴り技の名前である。

「十六文キック」という名前は、ジャイアント馬場の足の大きさからきている。アメリカのサイズ規格での16号に相当する大きさである。ところが、当時の新聞記者がこの数字を昔の日本の靴などの大きさを示す「文」と間違えて表記したことから、「16文キック」と呼ばれるようになった。

1文は約2.4cm。これだと16文は38.4cm程度となる。実際には本人の脚の大きさは32cm前後だったらしい。足の大きさが32cm? どんな感じなのか想像できない。

 

長さを表す単位「文」なんて、この言葉以外で見聞きしたことないぞ。「尺」や「寸」なら何度か見聞きしたことがあるが。

そういえば子供の頃、「文」という単位、通貨単位の「文」と関係があるのだろうか? 尺とか寸とか、どのくらいの長さなのだろうか? と思ったことがある。親に質問したら、「どうでもいいこと」という返事しかなかった。調べようにも、何をどうすればいいのかわからなかった。

小学生向け学年別雑誌に、「ヤード」や「フィート」や「インチ」の由来が出ていたのなら読んだことがある。尺貫法や「文」について書かれていたかどうかは、記憶にない。人の体の大きさから考え出された単位と出ていて、「おもしろい」と思ったんだな。そういえば。

大人になって、「尺」の由来も人の体の大きさだと知った。「考えることは似ているんだな」と思った。

この、唐突に浮かんだ「十六文キック」がきっかけで、「文」という長さの単位と通貨単位との関係について検索してみた。

やはり、「一文銭が何枚並ぶか」に由来した長さだった。足袋などの大きさを表す場合に使うらしい。

 

お題「わたしの一足」から、とんでもない方向に脱線した記事だな。

今週のお題」から、とんでもない方向の話題まで連想。→それについても書きたくなって、記事がむちゃくちゃ長くなってしまう。また、お題から内容がどんどんずれていく。→「今週のお題」投稿をやめる。

という展開になってしまうことが、私の場合はよくある。

あなたの(おそらく)知らない『花咲か爺』

今週のお題ゴールデンウィーク2016」

 

去年のゴールデンウィークは、日本昔話『ふるやのもり』にのめりこんでしまった。そのことについては 今週のお題「ゴールデンウィーク2015」 - karotousen58のブログ で書いた。

 

『日本昔話通観第17巻 鳥取』によると、鳥取県に伝承されている「花咲か爺」は、その類話が多様な変化を持っているということだ。

今週のお題「ゴールデンウィーク2015」 - karotousen58のブログ

 と、去年のこの記事で書いた。

そして最近、はてなハイクで『花咲か爺』について書かれた投稿を読んだ。投稿を読んで去年の記事を思い出し、「今年のゴールデンウィークは、『花咲か爺』を調べてみよう」と思った。

 

最初に「花咲か爺 鳥取」で検索したら、  花さか爺 が見つかった。

これを読んで、「何これ? 私の知っている『花咲か爺』ではない。」と思った。

私の知っている『花咲か爺』は

・「犬がどこから来たか」について、書かれていなかった。

・裏の畑で犬が、「ここ掘れわんわん」と指示(「赤、カーカッカッカー」などといった、意味不明の科白ではない)。

・木について、詳しく書かれていなかった。

・臼を使って餅をつくと、宝物が出てきた。

私の知っていた『花咲か爺』は、花咲じいさん <福娘童話集 きょうの日本昔話> のような話だった。

更に調べると、 ir.c.chuo-u.ac.jp/repository/search/binary/p/5308/s/3128/ が見つかった。

これを読んでさらに吃驚。

 「このオープニングは『桃太郎』じゃないか? これも私の知っている『花咲か爺』ではない。」と思った。

この論文を読んだところ、各地に伝わる『花咲か爺』は

・犬はどこから来たのか?

・犬が飼い主に、最初に富をもたらす方法は何か?

・犬を埋めた後の、富の入手方法

・犬を埋めた場所にある植物から富を得たところで完結、次の灰撒きの結末を持たない話もある

といったところに、多様な変化があるらしい。

 

その後、『日本昔話通観第17巻 鳥取』を見て鳥取県バージョン『花咲か爺』を調べた。

この本では、「花咲か爺タイプの話」と「灰撒きの結末を持たない話」とをまとめて、「犬むかし」としてあった。

「犬むかし」は5つのサブタイプに分けてまとめてあった。

1.花咲か爺型 2.鳥とり爺型 3.金の木型 4.天の金倉型 5.梨の舞い型 の5つだ。

サブタイプ5つというところからも、バリエーションが豊富であることがわかる。また、「花咲か爺型」だけでも、8種の話が出ている。(始めに紹介した「赤、カーカッカッカー」の話は、この本には出ていなかった。)灰を撒くところからは、「私の知っていた『花咲か爺』」とあまり違いはない。

2.鳥とり爺型は、「灰を撒いたら、鳥が落ちてくる」という話になっている。

こんなに種類が豊富だとは、思ってもいなかった。

 

1.花咲か爺型

(原題 花咲じい)  鳥取県中部

構成

・爺の犬は山で、爺が「しいきしき」と言うと右の方から雉をくわえてき、「左の方にしいきしき」と言うと左の山から雉をくわえてくる。隣の悪い爺が無理にその犬を借り、山で同じ言葉を言うが、そのたびに右と左のすねに食いつく。そして、隣の爺は犬を殺してしまう。

・爺は犬を持ち帰って埋め、そこに梨の木を植え、「芽を出せ、花が咲け、実がなれ」と言うとその通りになる。「下がれよ」と言うと金が落ちてくる。隣の爺がその木のところへ行って「下がれよ」と言うと、汚物が落ちてくる。隣の爺は木を切って、かまどにくべる。爺はその木の灰をもらって帰る。(以下略)

類話1 鳥取県中部

・犬が爺を畑に連れて行って鳴くのでそこを掘ると、小判が出てくる。隣の爺が犬を借り、無理やり鳴かせてそこを掘ると汚物が出てくる。隣の爺は犬を殺す。

・爺は犬のなきがらを持ち帰って墓をたてて木を植えると、木はぐんぐん大木になる。爺はその木で臼をつかって餅をつく。つくときに声をかけると、そのたびに小判が出てくる。隣の爺が臼を借りて帰って、米をつくが、餅は顔にくっついてしまう。隣の爺は臼をこわして焼く。爺はその木の灰を持って帰る。(以下略)

類話2 鳥取県中部 

・爺が山で、「西の谷へけえしけし」と言うと、犬が西の谷で兎をくわえてくる。つぎには東の谷で雉、つぎには中の谷で兎、といったふうなので、隣の爺が犬を借りた。しかし、犬は隣の爺に食いつく。隣の爺は犬を殺す。

・爺が犬のなきがらを埋めて、そこにはえた木で臼を作って餅をつくと小判が出る。隣の爺が臼を借りて餅をつくが、変なものばかり出るので怒って臼を焼く。爺がその灰をもらって帰る。(以下略)

類話3 鳥取県中部

・爺と婆が三毛の男猫を飼っている。いつもお金をくわえて戻ってくるので隣の爺が借りる。しかし、爺の注意を守らず、くわえてきたお金で買った魚をたくさん食わせたので死んでしまう。

・爺がそのなきがらを屋敷に埋めると、そこから木が生えたので大きくしてそれで臼を作る。その臼で米をつくと、一升つけば二升に、と増える。隣の爺が借りて米をつくが、一升つけば五合に減る。隣の爺は臼を風呂の焚き物にする。爺がその灰をもらって帰る。(以下略)

類話4 鳥取県西部

・爺は犬好きで、犬を連れては猟に行っている。隣の爺が犬を借りて猟に行くが、「右(左)の谷へ行け」と命じても言うことをきかずに隣の爺の膝を噛んだので、怒って叩き殺して埋める。

・犬好きの爺が犬の埋められた所に行ってみると、木が生えている。その木で臼を作って使うとたくさんの餅ができるが、隣の爺が借りて使うとうまくいかないので、叩き割って焼く。よい爺がその灰を持ち帰る。(以下略)

類話5 鳥取県西部

・爺と婆が黒と赤という犬をかわいがっている。黒に、「米俵をくわえてこい。ハアキハアキ」と言うと、米俵をくわえてくる。赤に、「銭をいっぱい持ってこい」と言うと、銭を持ってくる。「黒や、赤や、ハアキハアキ」と言うと大きな雉をくわえてくるので、爺と婆は分限者になる。隣の爺が黒と赤を借りて「右の谷へ ハアキハアキ」と言うと右の脚をかまれる。左や中と言った場合も噛まれる。そして、隣の爺は犬を殺して埋める。

・爺が犬のなきがらを埋めてそこに生えたけやきの木で臼を作る。銭一文を入れてつくと銭が臼いっぱいになり、米を入れてつくと米がいっぱいになって分限者になる。隣の爺が臼を借りて銭を一文入れてつくと、汚物が出る。隣の爺は臼を焼く。爺が灰をもらって帰る。(以下略)

類話6 鳥取県東部

・爺が飼い猫に虫干しを食わせると小判を一つずつひる。隣人がうらやましがって、借りて帰るが、いくら虫干しを食わせても小判をひらないので叩いていると死んでしまう。

・爺がなきがらを埋めると、そこから木が生え、小判がなる。隣人がその木を借りるが小判はならないので、怒って切り、焼いてしまう。爺が灰を取る。(以下略)

類話7 鳥取県東部

・性のいい爺と性の悪い爺とが隣合わせに住んでいた。性のいい爺の飼い犬が、「ここを掘れ」と言うので掘ると小判が出て金持ちになる。悪い爺が犬を借りて山で掘ると汚物が出てきたので、叩き殺して松の木の根に埋める。

・いい爺がそれを知り、怒ってその松を切って臼を作り餅をつくと、一升つくと五升の餅ができる。悪い爺が臼を借りてつくと、一升つくと一合の穢い餅ができるので、臼を割って釜にくべる。いい爺はその灰を持ち帰る。(以下略)

 

「花咲か爺型」だけでも、いろいろと変化しまくりである。他の型についても紹介したいのだが、書くと長くなってしまうので詳細は省略。

・犬について

犬がどこから来たか? 他の型に収録された話には、リンク元の話や「花咲か爺型」と違うタイプの記述もある。

リンク元の話や「花咲か爺型」では、犬の名前は「シロ」や「黒」や「赤」。他の型収録の話には、「コロ」という名前もあった。「ポチ」という名前は出てこなかった。

犬ではなくて猫となっている話があったことにも吃驚。しかも、「三毛の男猫」ときたもんだ。三毛猫の三色の毛色は、原則として雌にしか見られない筈だぞ。「三毛」や「猫」の意味が、当時と今とは違うんだろうか?

・犬が飼い主に、最初に富をもたらす方法は何か?

私の知っていた『花咲か爺』は、「発掘型」だった。しかし、鳥取で語られた話は、それ以外の型が多い。隣の爺婆にもたらしたものも、バリエーションが豊富だ。吃驚。鳥取県東部では「狩猟型」以外の話になっているのも、面白い。

・犬を埋めた後の、富の入手方法

木を臼に加工して富を得る他に、木の実りとして富を得る場合もある。私は前者しか知らなかった。木の種類も、結構豊富だ。栗、松、梨、けやき。他の型では、よのみ、柿、竹も見られる。

木の実りとして富を得る方法も、混乱するほどにいろいろと出てくる。他の型になると、更に違った方法も出てくる。臼に加工して富を得る方法もさまざま。他の4つのサブタイプでは、臼への加工はない。また、隣の爺婆にもたらされるものもさまざま。

 

鳥取県で語られた『花咲か爺』だけでも、たくさんあるもんだな。これまで、童謡『はなさかじいさん』の歌詞のイメージしか持ってなかったから吃驚。他の地域バージョンも読んでみたい。灰撒きの結末を持たない話も含めて。

今週のお題「私がブログを書く理由」

今週のお題「私がブログを書く理由」

 

ブログを書くと時々、「おお、思ってもみなかった視点からの説明があった。面白い。」とか「『それも一理ある』という納得」につながる場合がある。つながるとうれしい。「私がブログを書く理由」は、それである。

私がブログを始めたきっかけを書いた、過去記事今週のお題「私がブログを始めたきっかけ」 - karotousen58のブログでもそのことについてふれている。

では、「思ってもみなかった視点からの説明」や「納得」に、どんなルートを経由してつながるか?

ブログを始めて私が最初に驚いたことは、「『ブログを実際に書いてみるまでは、想像すらしていなかったルート』も存在するものなのだな」と知ったことだった。

 

ブログには、簡易アクセス解析の機能がついている。実際にブログを書いた経験のない状態では、この「簡易アクセス解析機能」がどんなものなのか意識することはほとんどない(少なくとも私は、そうであった)。「どんな言葉で検索されたかがわかる」程度の意識しかなかった。

だが、この「検索ワードを知る」ことは実は、「ブログを実際に書いてみるまでは、想像すらしていなかったルート」になりうることだった。

 

ブログを始めたばかりの頃、「私が想像すらしていなかった検索ワード」でアクセスがあったことに驚いた。そして、「検索して辿り着いてくださった人が読みたかったのは、この記事の内容なんかではないだろうな。役に立たないブログでごめんなさい。」と思った。

 

検索ワードによっては、拙ブログが上位に表示されることもある。「こんなブログでさえも、上位に表示されることがあるものなのか……」と驚いた。

心因性てんかん性 てんかん」について、このブログで書いたことがある。この検索ワードでのアクセスもよくある。そこで、このワードで私も検索してみた。すると、表示された記事の多くが、医療関係者によるものだった。患者本人のブログ等はほとんど見つからなかった。

「患者がネット上で意見発表するというケースが稀とか、意見発表しても上位に表示されないとか、いったところなのだな」と思った。私が実際にブログを書いていなかったら、こういうことを意識できないままだったと思う。

また、時々、「この検索ワードは鋭い。私も、この検索ワードを使って調べてみよう。面白い記事が見つかるかもしれない。」と思うワードが見つかることもある。実際、面白い記事をいくつか見つけた。

 

頻繁には更新できないが、ブログを私は楽しんでいる。 

今週のお題「犬派? 猫派?」

今週のお題「犬派? 猫派?」

 

結論から言うと私は「犬派」である。

・私は、犬とのつきあいは長いが、猫とのつきあいはほとんど経験がない。

・私が子供の頃、近所のノラ猫に近づいてもしょっちゅう逃げられていた。

・うちで飼ってきた歴代犬は、「近所の猫によく挑発される」→「抵抗を試みても、猫に垂直移動をされて、はいおしまい」パターンの行動をしょっちゅう取っていた。

・庭犬として飼っていた犬を、家族が座敷で飼うように変更したことがある。その後、外で使っていた犬小屋は猫に乗っ取られてしまった。

といった経験からくるイメージが大きいからだ。

ただ、私は猫も好きだ。猫の奔放なイメージも好きだ。一度猫カフェに行ってみたいが、うちの田舎には猫カフェがない。残念。

「猫派ではない」というより、「猫とつきあった経験がほとんどないから、イメージが持てない」といった感じである。

 

犬を飼う際には、「狂犬病予防注射」を毎年一回受けさせなければならない。

この「狂犬病予防注射」をする方法は2とおり。どちらかを選ぶ。「公民館等での集合注射」か「動物病院での個別注射」かを。

うちでは、「当日に雨が降りそうにない場合は、集合注射。雨が降りそうなら動物病院で接種」という方針を取っている。集合注射では、いろいろな犬を見ることができるからだ。この理由で集団注射を選ぶ「犬派」の人も、たぶんいると思う。

 

集合注射の会場には、当日いろいろな犬が来る。

獣医に対して睨みを利かせる犬、しっぽを丸めてその場から動かまいとする犬、不穏な気配を感じてぶるぶる震える犬、ビビって失禁する犬、他の犬に興奮してはしゃぎまくる犬、しっぽを振って注射も平気な犬、注射をされて「キュアーン」と鳴く犬、さまざまである。

うちの歴代犬は

玄関を出たときは「わーい、散歩」とはしゃぐ。→途中で、「何か変なことをされそう」と感づく。→会場に付いたら、しっぽを丸める。→それでも、本番ではトラブルを起こさず終わる。

というパターンが多かった。

他の犬に興奮してはしゃいだ犬は、うちの歴代犬では一匹だけ。ヨーキーだった。「日本犬と洋犬との違いかな?」と思った。

昔担当なさっていた獣医さんも、人当り(というか犬当りというか)のいいかたで、「すぐだからね。いい子。」と穏やかに声をかけて注射をなさっていた。注射をされて「キュアーン」と鳴いた犬に対して、「痛かったか。ごめんよ。」と穏やかに声をかけておられた。この獣医さんは、いわゆる「いかつい顔」の人だった。穏やかな声とのギャップがまた楽しかった(というと失礼だが)。今は、他のかたが担当なさっている。

 

接種前には、受付をすませる必要がある。受付事務の人が持っておられる書類には、犬の名前や生まれた年が書いてある。うちの先代犬は17歳まで生きた、昭和生まれの犬である。この先代犬の接種受付時(15年ほど前のこと)、たまたま書類の一部が私の視界に入った。「昭和生まれって、こいつだけか?」とか「洋風の名前が多いな。これだと『ポチ』とか『コロ』とかいった類の犬らしい(?)名前のほうが、かえって目立つぞ。」とか思った。

この受付では、私の直前で受付をすませた洋犬のことも印象に残っている。

この洋犬は、「わーい!お友達がいっぱい!」という感じではしゃいでいた。そして、受付事務の女性に愛想をふりまいていた。女性のひざにも乗った。しっぽを振って、注射も平気だった。テリア系という感じの犬だった。

 

会場に来る犬を見ていると、やはり、流行の犬種が年によって違っていることがわかる。今世紀に入ってからは、会場でシベリアンハスキーを見かけない。レトリーバーなどの大型犬も少なくなった。ここ5年ほどは、小型犬が多い。中型犬レベルでも少なくなっている。今年は、大型犬や中型犬も見たいものだ。

「よだきい」という方言

今週のお題「方言」

 

私は高校卒業まで、鳥取県内で暮らしていた。鳥取県の、中部と東部でよく使われる方言のひとつに「よだきい」がある。

高校を卒業してすぐ、九州の大学に進学した。九州で暮らすようになって初めて、大分県や宮崎県の方言にも「よだきい」という表現があることを知った。しかも、まるっきり違う意味で使われているということを。

鳥取県中部/東部の出身者が、大分/宮崎方言の「よだきい」を初めて聞いたらどう反応するだろう? おそらく、「え、私、何か悪いことをしてしまったのだろうか」というふうに思うだろう。私は、初めて聞いたときビビった。

 

鳥取県中部/東部方言の「よだきい」は、罵倒語である。しかも、「人間として最低」という感じの罵倒語である。強欲、うるさい、不快だ、汚い、などいろいろな意味で使われる。

高校時代、漢文の授業で荘子の言葉「君子の交わりは淡きこと水のごとし、小人の交わりは甘きこと醴のごとし」を習った。そのとき、ある生徒が「醴のごとし」の部分を「よだきい」と訳した。教師も生徒も「ああなるほど」と思ったようだった。

大分/宮崎方言の「よだきい」は、「面倒だ」「疲れた」という意味らしい。語源は古語の「よだけし」らしい。

 

「激しく立腹しているわけではなさそうだが、『よだきい』という言葉がよく使われる。ひょっとしたら、『よだきい』は方言かもしれない。」と私が最初に思ったのは、大学に入った年のゴールデンウィークの頃だった。

思い切って、「よだきい」の意味を聞いてみた。すると、説明がなされた。

鳥取県中部/東部方言としての意味を話したら、やはり驚かれた。「鳥取出身者のいる場では、方言の意味を説明したほうがよさそうだな。」と言われた。

大分/宮崎出身者が、鳥取県中部/東部方言の「よだきい」を聞くことは、あまりないだろう。陰口以外では、ほとんど使わない言葉である。私も、九州では使わなかったと思う。(私の場合は、「陰口」よりも、回避という策を取ることが多い。)

 

同じ言葉が、地域によって全く違った意味を持つものになってしまう。しかも、「とんでもない罵倒語」と思い込んでしまってコミュニケーションを取る。今なら笑い話である。が、当時は本当にビビりまくっていた。

これから先、他の地方の方言でもこのような経験をすることがあるだろうか? 他の人はこういう経験はないのだろうか? この記事を書いていて思った。

因幡の「から方言」

今週のお題「方言」

 

因幡の「から方言」について書く。「因幡」とは、因幡国(現在の鳥取県東部)を意味する。私の両親は、そこの出身である。

この「から方言」は、鳥取県東部を離れて暮らした経験のない人ならば、方言だと意識することはほとんどないだろう。私自身、大学進学で九州に出て初めて、「他の地域出身者が驚く」表現であることを知った。

 

共通語では、「~から」は、出発点や経過点を表す助詞として使われる。

例 家から会社まで

しかし、鳥取県東部の場合は、この用法以外にも「動作の行われる場所や場面を表す助詞」(共通語では「~で」)としても使われる。

例 (共通語なら)「会社で働く」

  (因幡の「から方言」なら)「会社から働く」

 

私が中学生だった頃、国語の授業で1年に1回は、この「から方言」について指導がなされていた。

中2のとき、次のような説明がなされたのを覚えている。

1960年代になされていた「全国学力テスト」で、「空欄に適切な助詞を入れよ」という問題(四択)が出された。

動作の行われる場所や場面を表す助詞である、「で」を入れるのが、正解となっていたテスト問題だった。そして、他の選択肢のうちの一つが「から」となっていたらしい。その問題の正答率は、鳥取県だけが異様に低かったということだ。

やはり、「から」を選んで誤答となったものがほとんどだったらしい。

私よりも下の世代の人は、学校で「から方言」に関する指導がなされなかったらしい。「指導があった」と私が言うと、「え、そんなのなかった」という類の言葉しか返ってこない。

 

私が初めて、九州でついうっかり「から方言」を使った時のことも覚えている。

「昼ごはん、学食から食べるの?」と聞いてしまったのだ。

それを聞いた友人(九州出身)が、「学食で食べたあと、また別のところに行って食べるのか?」と答えた。

「え、ここで何故唐突に、別のところなんて言葉が出てくるんだ?」と一瞬思ったが、すぐに「あ、から方言だ」と思った。

そして、学食では、「から方言」関連で会話が盛り上がった。他の友人は「こいつは学食を食うのか?」と思ったらしい。

1985年、鳥取で国体が開催された。インタビューに答えていた地元の関係者が、「国体が鳥取からあってうれしい」と発言したシーンが放送された。「あ、これ、鳥取県外の人には通じないぞ」と思った。ちょうどそのとき、件の友人たちも一緒にいた。「ほんとに、から方言って通用してるんだ」と驚いていた。

 

韓流ブームのころ、友人のうちの一人が韓国語の勉強を始めた。その友人が、「あんたの言ってた『から方言』って、韓国語の助詞の『エソ』と似てるんじゃねーの?」と言った。

友人曰く、韓国語の助詞「エソ」も、「動作の行われる場所」と「起点・経過点」の両方を表す助詞ということだ。

「会社で働きます」を「会社エソ働きます」、「会社から帰ってきました」を「会社エソ帰ってきました」という感じで使うらしい(もちろん、「エソ」以外の部分は韓国語表記)。

この「エソ」、韓国語を勉強する日本人が混乱するケースは多いらしい。「鳥取県東部出身者なら、悩まないんじゃねーの?」と、その友人から言われた。

韓国と鳥取県東部で、どうして似た表現になったのだろう? 不思議だ。

 

「この『から方言』のような方言は、変だと思っても指摘しづらい」という声を聞いたこともある。

「些末な文法的間違いに目くじらを立てる人」と思われたら嫌ということらしい。

こうして、から方言は、「地元民には方言と思われていない状態で使われ続けている、方言」となっているようだ。

こういうタイプの方言、他の地域にもあるのだろうか? 知りたい。

発達障害者と「暗黙の了解」との間

 

 

 

発達障害の子への障害告知とセルフアウェアネス~自分の強みを知っている事の大切さ~ - ひろげていこう 発達障害のWA!~「困ってる子」という視点からの支援~

「告知」からずれたコメントを。暗黙の了解が理解困難、「太ってますね」発言は、悪気がなくて正直なだけ→代わりの行動を の間には「何か」有。その「何か」が、現場では非発達障害者サイドで語られている。疑問有

2016/02/25 02:12

「何か」の中身を、夏炉冬扇による語りとして書いてみる。今週のお題「憧れの人」 - karotousen58のブログと重なる部分もあるが。

 

暗黙の社会のルールに気づくのが苦手なアスペルガーの子は、太ってる人に「太ってますね」なんて言っちゃいますよね。でもこれ悪気がなくて、正直なだけなんですよね。悪気がないからと言って人を傷つけていいわけではありません。でも、「正直である事」は否定すべき・修正すべき行いですか?違いますよね。だから「そんな事言っちゃいけません」では正直である事を否定してしまいアスペルガーの子にとっては問題解決にはならないんですよね。そんな時に必要なのは「代わり」の行動を教えてあげる事なんです。

息子の学校では、「自分以外の人達の考え方を知って、自分を見つめ、自分を知る」というセルフアウェアネスという方法と「自分と他者の立場を知った上で、どう行動すれば自分も周りの人達も気持良く過ごせるか」という、問題解決の為のコーピングスキルという事を息子の社会性の向上を目指すプログラムとして取り入れています。

 

 発達障害系の人の場合、「太ってますね」という発言を「悪意の有無」という観点以外からも考える必要があると私は思う。次のようなケースが本当にあるから。

1.今週のお題「憧れの人」 - karotousen58のブログで述べた、相撲好きな子の事例。(「太っている」という表現に、好意的な価値判断が隠れている。)

2.これは私の本心。「『太っていることや、脚が短いことや、女性の肌が黒っぽいことなどは、美醜の観点からは好ましくないことだ』という価値判断が、正しいことになっている」ということが、感覚的に腑に落ちない。「人の身体は千差万別。それらは身体の特徴のうちの一つであるというだけで、それを超えているものでもそれ未満でもない。それに対して、個人的に美醜の基準を持つというのならわかる。しかし、どうして、世間一般の基準などというものまでが押し付けられるのかわからない。「単なる、特徴のうちの一つ」に対して、「世間一般的に、好ましいとか好ましくない」という価値判断をわざわざくっつけることのほうが、失礼だと思う。

 

 ブックマーク元の記事では、「息子を否定していない」「自分以外の人達の考え方を知って」「ありのままの自分」という記述が出てくる。

ここで、私は疑問を持ってしまうのだ。「太っていることは、好ましくないことである」という価値観を外れたものは、「自分以外の人達の考え方」「ありのままの自分」のうちのひとつとしてカウントされうるのだろうか? ひょっとしたら、支援者的ポジションの人は、「その価値観を外れた考えなんて、ありえないし許されない。」とでもお思いなのではなかろうか? という疑問を。

 

「『太ってますね』と言われたら傷つく。そのことをみんなは、いちいち教わらなくてもわかる。わからないのは、発達障害があるからだ。だから、面倒でもいちいち教えてあげなければいけないのだ。価値観を外れた考えなんて、屁理屈だ。」という反論もあるかもしれない。

しかし、「『わからない』の背景にある事柄は、発達障害者本人にとっては無視できない事柄だ」という思いが私にはある。

「太っていることは、好ましくないことである」という価値観が伝達される際、「太っていると発言した側と発言された側それぞれの、口調や表情などの非言語性情報」も含めた、いろいろな情報がやりとりされる。

発達障害系の人の中には、その際、「非言語性情報」を読み取ることに難儀する人もいる。私がそのうちの一人である。「太っている人は、かっこ悪い」という類の罵倒がなされるとか、マスコミがダイエットを煽るとかいった、他の情報が入って、「どうやら、(今の日本の)世間一般では、太っていることは好ましくないという価値観が主流となっているらしい」と認識することになる。人によっては、「それでも、その価値観は腑に落ちない」という思いも同時に持つことになる。

他の情報が入ってくる場合は、まだよい。「他の情報が見つからない事柄に対して、暗黙のお約束事を理解できている自信がない」という思いを、私はいつも抱えている。

「たとえ腑に落ちないとしても、とりあえずルールやパターンとして頭の中に入れる。そうしなければ生きていけないから。」という形で、「太っているのは好ましくないことである。」という価値観をとりあえずインストールする。もう一歩進んだ形として、「他の人の容姿については、自分からは話さないようにしよう。」というスキルをインストールする。こういう方法を、発達障害系の人はおそらく取っている。

一方、その「非言語性情報把握」は、発達障害の傾向が低い人の場合はおそらく瞬間的に無意識的になされる。「言われた人の眉間にしわが寄ったから、まずい発言だったのだろう」などと、いちいち意識して把握するわけではないと思われる。

つまり、「母語ではない言語による会話を、文法を駆使してぎこちなく行う」ことと、「ネイティブスピーカーが、文法をいちいち意識することなく、スラスラと会話していく」ことのような違いがあるのでは……と私には思えて仕方がない。

 

では、「暗黙のお約束事」を把握することが困難な子供だけを集めて、「常識や代わりの行動」を教えれば解決するというものなのだろうか?

おそらく、彼(女)らは、過去にも同じような注意や指摘を何度も周囲の人になされてきているだろう。「どうしてあなたは、そんなに意地悪なの」などと。

「脚が長い人に対しては『脚が長い』と言ってよい。しかし、太っている人に対しては『太ってますね』と言ってはいけない。」などと説明されたら、再度混乱してしまうこともありうるのだ。「脚が長い」とか「太っている」ということに対して、「価値判断がくっついている」ということに混乱してしまうのだ。

 

「人を嫌な気分にしたり傷つけたりすることを言わない」「本音を言ってよいか否かは、場の空気によって決まる」ということは、世間一般において「常識的な規範」となっている。そして、それを犯すことは、あってはならないことである。

という前提条件を、ブックマーク元記事の登場人物は、どうやら共有しているらしい。

そして、その「あってはならないこと」に対して、「礼儀正しくするために、社交辞令を用いる」→「嫌な気分や傷つきを回避」という対策を、登場人物が提供しているらしい。

提供された具体的方法としては、ママや先生や友達と発達障害者本人とで話し合って「嫌な言葉リスト」めいたものを作ったということらしい。この「リスト作成」は、一歩間違えると怖いものになりうるのでは? と私は思った。

・このリストを作った過程において、ママや先生や友達は、「あってはならないこと」を強く認識したことにならないだろうか?

・強く認識したもとでは、「人を嫌な気分にしたり傷つけたりする、意地悪で思いやりのない子」「場の空気が読めない子」「リスト作成などをいちいちやらないといけない、誰かの助けがなければダメな子」というイメージが、発達障害者本人により強く貼り付けられないか? そうなると、自己肯定やありのままの自分どころではなくなるのでは?

・この「あってはならない(とみなされた)こと」に対する、相互監視めいたものが強まらないか?

と思ったのだ。

 

「暗黙のルール」に隠れた価値基準を絶対視しない態度、その価値基準が造られていった過程や意味をいろいろな角度から考えてみること、こういった態度も重要かもしれない。こういう思いから私は、今週のお題「憧れの人」 - karotousen58のブログの記事を書いた。

こういう態度の下では、「場の空気が読めず、トンチンカンな行動を取る発達障害者」という評価だけでは終わらず、「『コミュニケーションのふくらみや楽しさ』を生み出す可能性も持つ人」という評価が生み出される可能性もある。「コミュニケーションのふくらみや楽しさ」が、発達障害者以外の人にも共有される可能性もありうる。私はそう捉えている。

このような段階を経て初めて、

・「正直に話してよい世界」と「社交辞令を使うべき世界」の両方を知る

・社交辞令を使うべき世界での、マニュアルやツールやスキルの研究や使用方法を習得する

ことに対して前向きになれるのではないだろうか? 

そして、発達障害系本人以外の人も、「発達障害系本人を対等な他者として見る」ことにつながっていくのではなかろうか?

私にはそう思える。