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成人発達障害の「理解・受診」は、実は要警戒ワード 2

今回は、成人発達障害の「理解・受診」は、実は要警戒ワード 1 - karotousen58のブログ

2. 「成人発達障害者本人・身近な人・職業的支援者・専門家」は、それぞれ異なる利害を抱えていると考えられる。成人発達障害の「理解・受診」について(特に、本人以外の人が)語る際、そのことが軽視されているのでは?

について書く。

 

「ADHDだから」とか言い訳にする奴wwww製薬会社に作られ病気だし、ただの努力不足だろwww

私のブックマークコメント

医療機関受診を勧めるコメントもあるが、地域によっては安易な気持での受診は危険。私の地元では、「過剰診断・成人発達障害者にほとんどフォローなし・障害者手帳保持者への偏見大」の状態になっている。

 

このはてなブックマークコメントを読んで、

「成人が『自分に発達障害的な面があると思い、そのことで悩んでいる』と打ち明けた場合に、医療機関受診を勧められるケース」が結構ありそうだと思った。地域によっては、安易な(←ここ重要)受診は自分の首を絞めることに繋がりうると思う。

ここで断っておくが、「受診を警戒すること」は「障害者とみなされることを嫌がる」という意味ではない。

 

私は、地元の人から相談を受けたときには次のように答えている。

・受診の前に警戒しておいたほうがよいことが、たくさんある。そして、それらへの有効な対策が考えられていない場合は、診断名が付いてしまったらかえって危険なこともありうる。

・「警戒しておいたほうがよいこと」については、ネット上でも書籍でもあまり語られていない。

 

「警戒しておいたほうがよい」と、私が認識している事柄

1.障害を持っているか否かを判断する基準は、医学が持つ。医学は大きな力を持ちうる。更に、ひとたび診断名が付いてしまった場合、不可逆的なものとして作用する可能性大。

2.診断名が付いてしまった場合、医療の中で「医師役割」と「患者役割」の構図に埋め込まれる。「権威を持つ専門家としての医師」と「助けを求める存在としての本人、専門家によって啓蒙される存在としての本人」という構図。それらの間には「非対称的な秩序」が構成されうる。

3.「発達障害者本人、身近な人、職業的支援者、専門家」はそれぞれ異なる利害を抱えている。4者間での利害関係がうまく調整されるのならばよいが、そうでない場合はどうなるのか?

4.「医療や支援」の目的は、どんなものなのか? そしてその目的と3.で述べた「異なる利害関係」とが悪いふうに結びついた場合、「本人への不利益がもたらされ、しかも本人による反駁が困難」という事態もありうるのでは?

 

1.と2.について

必要な治療や支援を決める構造として、少なくとも次の2種類のものがあると私は考える。

A.誰かを「障害者」と認定し、必要な治療や支援を決めるのは医師。その指示を受けて、職業的支援者や身近な人が本人を支援する構造。

B.「困っていること、日常で障害となっていること」の存在を語るのは本人。その「困難や障害」を回避したりのりこえたりするのに必要なことを、周りの人や職業的支援者や医師とともに考える。

現状では、(成人子供を問わず)発達障害関連では、A.の構造になっているケースが多い(本当は、「ほとんど」ではないかと私は疑っている)と思われる。

もう一点。「障害」は個人に内在するものなのか? 社会の在り方が「障害」となって、個人を「障害者」として阻害するという面はないのか? という疑問も私にある。

「後者を無視したい」という欲望を障害者本人以外の人が強く持った場合、A.の構造は本人以外の人にとって都合のよいものになりうる。

ひょっとしたら、本人に医療機関受診を勧める人の中には、B.のイメージを期待している人が少なからずいるのかもしれない。

 

3.と4.について

一般の「非専門家」である「身近な人」は、「専門家による見解を自分の知として取り込むこと」によって、「専門家に一歩近づく」という思いを持つ。その思いはときとして、「幻想」に極めて近いものになりうる。

「支援や医療の目的」はどういうものであるか? 少なくとも次の2種類のものがあると、私は考える。どちらが重視されているか? ということについてはっきりと語られるケースは稀。

甲 本人が「問題」を起こさないように予防。「問題」が起きてしまった場合、早期に対応し「症状」がこじれ慢性化させないようにすること。

乙 本人が社会的・経済的な不利益を被らないように、それ以上のマイナスを背負ってしまわないようにすること。

世の中にはいろいろな価値観があるが、「障害者の身体性や感覚とは相性が悪いが、非障害者(の中の比較的多数)のそれとは相性のよい価値観」が存在する。そしてそのことが原因で、上下関係や序列がつくられてしまうこともある。

そのような状態では、「誰にとって、どんなことが問題となるのか」「社会的・経済的不利益が生じているのか否か」を決めるのは「上下関係や序列の上位者」となってしまう。

そして、「非対称な関係にあるという現実から出発して、どのように向き合い対話していくか」というプロセスがスキップされた状態で、「支援や医療の目的」が語られる危険性が出てくる。

現状では、(成人子供を問わず)支援や医療の目的は、甲の立場を重視しているケースが多い(本当は、「ほとんど」ではないかと私は疑っている)と思われる。

専門家が「問題を起こさない・こじれさせない」ことの必要性を強調し、職業的支援者や身近な人も「問題を起こさない・こじれさせない」ことに集中した要望を出す。こういうケースが多いのでは……と私は見ている。

専門家や職業的支援者や身近な人の持つ「支援の前提」から外れていると、本人がみなされた場合、次の言葉が浴びせられる。

「障害者のくせに不勉強。」

「ああ、発達障害者には認知の歪みがあるからね。」

逆に、本人が従順である場合は、「障害者にしては勤勉な人、誠実に治療に取り組んでいる人」のイメージが持たれるらしい。

「本人・身近な人・職業的支援者・専門家」の4者の利害関係が一致することは稀と思われる。また、一致しないことは必ずしも悪いことではない。このことを「自覚的に捉えておく」ことが大切である。

利害調整の際に、「本人が望んでいるものが何であるか」が無視される危険性あり。それを私は主張したい。

4者の利害調整がうまくいっていない場合に、「本人の人権が護られるのか? 反駁可能な状態にあるのか?」という疑問が私の中にある。

 

私が問題としたいのは、「医療や支援の有資格者による見解を絶対視して、本人の主張や望んでいるものを無視する」という方向性である。

そういう空気がある中で「診断名」が付いてしまった場合、診断名が本人に不利益をもたらす危険性も出てくると私は考える。