karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

皮肉な皆勤賞2

1年以上放置してしまった。

「学校っていうのは成績以外にいろんな所で褒めてくれるって言う喜びがあるから、頭の悪い子も明るく通うんじゃないですかね」

「皆勤賞なんてのは、体が丈夫で頭の悪い子が唯一取れる」

 ダウンタウン松本人志(57)も皆勤賞廃止には賛同で「そんな(兼近のように)かっこいい理由じゃなくて単純にさぼり癖があった。理由付けて学校をズル休みしたいという人やったんで」と話し、「もともと皆勤賞で喜んでる奴はアホちゃうかなと思ってたとこはちょっとありましたね」と続けると、武田はこれに反応して「頭の悪い子多かったですよね、ちょっと粘りますけど」と、自身の主張を曲げなかった。

武田鉄矢の大暴言で“金八失格”!問題ありすぎな「皆勤賞は体が丈夫で頭の悪い子が取れる賞」発言|日刊サイゾー

 

「褒めてくれるという喜びがあるから、明るく通う」「褒めてもらうことが、自己肯定に繋がる」んだろうか? といったこと等については、次回書く。世の道徳家が腰を抜かすような内容になるかもしれない。

皮肉な皆勤賞 1 - karotousen58のブログ

「世の道徳家が腰を抜かすような内容になるかも」と書いたのは、次のような思いがあるからだ。

  • 「褒める側の価値観では実は負の評価がなされている事柄に対して、本心を偽って褒める」のがミエミエの、「褒め」なら嫌だよ。
  • 「『誰かに褒められたい、褒められているところを、他の誰かに見せつけたい』という思いこそが、喜びや自己肯定やモチベーションに繋がるはず。『他の人から見れば見栄えのしない結果だが、本人は過程を楽しんでいた。試行錯誤を楽しんでいた』なんてことが、自己肯定などに繋がるはずがない。見苦しい自己満足でしかない。褒められなきゃ無意味。」的な視線を、私はずっと感じていた。その視線が嫌だった。

実を言うと私は、「褒められることが不快」と思うことが時々ある。
2000年代の初め、ネットの世界では「BBS(ネット掲示板)」を使ったやりとりが、しばしばなされていた。このやりとりで、「『褒められることが苦手』と思っている人、私の他にも意外といるんだな」と知って驚いた。
「成人発達障害者本人」が参加していたサイトのBBSで、その発言が結構出ていたのだ。
「私の場合は、『褒められるから』よりも、『何かに没頭して楽しめる』かどうかが大切なんだ。『褒めれば、喜んでくれるはず』とか『行動を変えてくれるはず』とかいったことを私に期待されるのは、ときとして辛いんだ。」という思いが、実は私の中にある。

私は何故、褒められるのが怖いのか?「褒めてくれるという喜びがあるから、明るく通う」「褒めてもらうことが、自己肯定に繋がる」という思いを持つ方々との違いは、どこにあるのか? 考える必要があると思った。
次のようなことを、私はたぶん恐れているのだろう。

  • 「褒める」という行為には、「価値観の表明・伝達」も隠れていると思う。双方の価値観が、必ずしも似ているとは限らない。
  • 「表明・伝達」だけではなく、「その価値観支持を相手に要請、相手の行動変容」が強く要求される場合もある。(特に、褒める側が褒められる側よりも、権力を持っている場合)
  • 「誰に」褒められるのか、それが重視される場面がある。(冴えない人に褒められてもありがたみは少ないよ。権力者から褒められなきゃ。」的な態度を取られる。
  • 相手の「褒める動機」がわからないことが、よくある。褒める側が何らかの基準を持って褒めているのか?いわゆる「うれしがらせ」なのか?ただ単に「褒める側の気分がいいから褒めた」のか?それら以外なのか?
  • 相手の「褒める動機」を、勘違いしてしまうこと


「褒める/褒められる」ということについて、私は世間一般とのズレを強く感じている。私の場合、

  • 「誰かから褒められた」ことに、気がつかなかった。
  • 「誰かを褒めた」とき、その人や周囲の人からは「褒めた」と解釈されなかった。「褒めたつもりだったのだが、相手は気を悪くした」ケースも。
  • 「私が褒められるとうれしいこと」は褒められず「うれしくないこと」を褒められることも、何度か経験。
  • 「うれしくないこと」を褒められた場合、「喜ぶorそのふりをする」という行動が無意識的にできない。「褒めたのに喜ばないのか」的反応があることも。

褒めるという行為には、「褒める側の持っている価値観を、表明し伝達する」ということがくっついてしまうのでは? と私には思える。
「褒められてうれしい」「褒めたことを喜んでもらえてうれしい」といったことは、褒める側と褒められる側の価値観がある程度以上重なっている場合に、成り立つことが多いのでは? と私には思える。
双方の価値観が大きくずれている場合、「褒められたことに、気づかなかった」「褒めたつもりだったのだが、相手にはそのようには解釈されなかった」「『褒められるとうれしい』と感じていることは褒められず、うれしくないことを褒められる」という事態にも繋がりうるのでは?と私には思える。

価値観の「表明・伝達」だけではなく、「その価値観支持を相手に要請、相手の行動変容」が強く要求される場合もある。特に、褒める側が褒められる側よりも、権力を持っている場合に。
(ただし、褒めに限らずコミュニケーションというものには、「相手の行動や思考や感情などを、操作してしまう」面がどうしてもくっついてしまうと思う。どんなにがんばっても、どんな環境に変えても、ゼロにはできないと思う。)
「あれだけ褒めたのに、喜ぶとかお礼を言うとかいったことをしない」「あれだけ褒めたのに、他の場面では同じ行動が取れない」とかいった類のことを後で言われた経験が、私には何度かある。

「褒める」行為と「貶す」行為は、表裏一体の関係にあると思う。「褒め」のみならず「貶し」にも、通じる話だと思う。
「貶す」という行為、実は、「貶す側の価値観がダダ漏れの行為なんだな」とも思う。

「自分が他の人を褒めて、他の人が喜んだ。そのことが、他の人にも自分にもエンパワメントに繋がった」という人も、たくさんいるのだろう。きっとその人たちは、「他の人のことも自分のことも、上手に観察できる力」「人の気持ちを洞察できる力」などが大きいのだと思う。
「私は人を褒めるのが下手だ」と言う人が、何人か身近にいる。私には、その人たちのことを狭量な人とは思えない。「ひょっとしたら、『自分の価値観が変だ』と思いこまされ、褒める余裕を失った状態にあるのかも?」と思ってしまうのだ。

「褒めてくれるという喜びがあるから、明るく通う」「褒めてもらうことが、自己肯定に繋がる」という人がいることを、私は否定しない。
ただ、「『誰かから褒められたい、褒められているところを他の誰かに見せつけたい』という思いを持つ。それが唯一の正解だ。」という方法を取りたがる人も、現実には少なからず存在する。そして、その方法に苦痛を感じる人もいる。これらのことも認めてほしい。
「人から褒められる」以外の方向性、それと相性の良い人がいてもいいと思う。「他の人から見れば見栄えのしない結果だが、本人は過程を楽しんでいた。試行錯誤を楽しんでいた」という方向性のほうが、私にとっては相性が良かった。

「褒める/られる」ことで混乱したとき、不快感や恐怖感だけで片付けるのではなく「双方の価値観やそれに関連した思い」などについても考えていく必要があると思った。