karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

岩波科学の本(1972年第1刷)3冊

今週のお題「読書の秋」

 

先月、地元のとある古本屋に入ってみた。この古本屋は、もともとは岩波書店の本をたくさん置いていた書店だった。毎月、岩波新刊案内のポスターも貼られていた。10年ほど前から、新刊を置かなくなったようだ。

店先のワゴンには、岩波新書や岩波ジュニア新書や岩波文庫の古いものがたくさんあった。100~200円だった。

「面白そうな岩波ジュニア新書がたくさんある。しかも格安で。あれも欲しいこれも欲しい。だけど金がない。」と思った。せっかくだから、店内もみてみようと思った。店内には、新書や文庫以外の本もあった。そして、「岩波科学の本」シリーズのうち、3冊が見つかった。

「このシリーズが、今、手に入るなんて。信じられない。このチャンスを逃したら、もう読めないかもしれない。格安のジュニア新書よりも先に、これを買うことにしよう。」と決めた。買ったのは次の3冊。

 

湖の魚 (岩波科学の本)

湖の魚 (岩波科学の本)

 

 

 

たねの生いたち (1972年) (岩波科学の本〈3〉)

たねの生いたち (1972年) (岩波科学の本〈3〉)

 

 

 

望遠鏡をつくる人びと (岩波科学の本)

望遠鏡をつくる人びと (岩波科学の本)

 

 『望遠鏡をつくる人びと』のみ、1987年第10刷発行。この本のみ、ISBNが書かれている。本に印刷されている定価は、この本が1700円で他の本は800円。「3冊で2000円でいいよ。」と、店員さんの言葉。ラッキー。

45年前に出た、中高生向け科学本。これを今、大人になってから読む。意外な部分に反応してしまう。『望遠鏡をつくる人びと』はまだ読んでいない。

『湖の魚』は水産学の本。「そういえば、水産学の本ってこれまで読んでなかったな」と初めて意識した。

「漁師がいつどこで、どんな方法で魚をとるかを調べることによって、魚の生活を考える」「魚群探知機」「餌の種類を調べる際に、水生昆虫の勉強が役立った」等読んで、「広いジャンルの知識が必要なんだな」と改めて思った。

「近ごろ環境庁というお役所ができて」という記述もあった。環境庁設置は1971年。なるほど、「近ごろ」という表現になるんだな。

「1963年に皆既日食があって、そのときに日食のときの魚の行動を調べた」ことも出ていた。「日本ではその後46年は見られないというので、北海道まで行って調べた」とのことだ。「その後46年」の皆既日食は、2009年の日食だな。2009年のときも、「生物の行動」が話題になっていた。それを思い出した。当時からみたら、2009年は遠い未来。本を読んでいて2009年のことを思い出すのも、何か不思議。

「これこれこういうことが、今のところはわかっていない」という記述もいろいろとあった。

「日本中の湖での、ワカサギの雄と雌の割合」について書かれていた。「北海道、東北、関東、中部地方では雄のほうが多いが、九州や山陰では雌のほうが多い。その理由は今のところ全く不明」とのことだった。

「今なら理由がわかっているのだろうか?」と思って検索してみたが、関係のありそうな記事をうまく見つけられなかった。見つけられなかったのは、私の検索下手が原因かもしれない。

 

『たねの生いたち』は、シダと種子植物等植物相互の関係、種子でふえる植物がどのような経路を経て進化してきたか、ということについて書かれた本だ。

「シダや種子植物については中学理科の授業で出てきたけど、具体的イメージがわかないまま暗記でしのいできた」ことを思い出した。

『湖の魚』もそうだったが、この本でも「歴史」を感じた。

1948年、遠藤隆次先生が「ペコプテリス・サマロプシス」という化石を満州から持ち帰られた。先生は帰国のときに、それを肌身からはなさず、苦心に苦心を重ねて日本に持って来られた。そのころは、そのころは、中国からいろいろのものを持ち帰るのが、たいへん困難だったからである。

という記述があった。

また、「1953年、シダの採集のため沖縄にでかけた」ことについても書かれていた。台風で食糧がなくなると、島の人びとはソテツを食べた。調査中に、ソテツの実に中毒した人のうわさを聞いたとのことだ。「復帰問題、基地問題、台風情報など、沖縄の報道を見聞きするたびに、ソテツの赤い実が悲しく思い出される。」と書かれていた。

今読んで、この本は「1972年5月20日第1刷発行」なんだなと思った。

 

岩波科学の本シリーズ、他の本も読みたい。しかし、なかなか見つからない。

古本屋には、「福音館の科学シリーズ」もあった。『うくことしずむこと』『ひがしとにし・みなみときた』などが。これも欲しくなった。

欲しい本がたくさん見つかった。しかし、カネがない。

「人に迷惑かけていい」と「障害者が声をあげる」の間にあるもの 3

 

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この記事と搭乗拒否事件とのブコメ反応に温度差を感じる。この記事では「私的な人間関係の中で『優しさ/ふれあい』によって問題解決」重視、搭乗拒否事件では「各種機関の責務や制度も要再検討」と障害者側が主張故?

2017/08/01 01:43

 

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山田 太一さん|証言|NHK 戦後史証言アーカイブス

障害者の声を聞き取った者が、どんな立ち位置にいるかが不問にされているケース多し。「声」は、聞き手が本人に期待する事柄によって、不採用のリスク有。その辛さを無視した「迷惑かけていい」なら脅威ともなりうる

2017/07/28 00:41

前々回と前回の記事で、「降板させられる声」「主役に抜擢される声」「声の無効化」「障害者のための恩恵的な福祉」「『他の者との平等』を基盤とした、権利に基づく福祉」について書いた。

今回は、「障害者の声を受信/発信すること」と「誰のための支援か」ということについて書く。

 

1.「降板させられる」「主役に抜擢される」以前に、「声をあげられる状態になっていない」ケースもある。

 

「声をあげる」ということは、障害者本人にとって、どういうことなのか。次のようなことだと私は考える。

「本人が必要性を感じているときに、何らかの特別なサポートがなされる→そのことによって、非障害者との平等を基盤とした暮らしを行う」ことを願っての行為と。

そして、「平等に暮らしたい。しかし、社会には障害に対する偏見や差別がある。それらを気にせず生きていたい。」という思いを持つことも、正当なことである。

しかし、障害者の中には、「自らが感じた必要性やそれに対する思いが、正当なものである」という感覚を持てない(というより、「これまでずっと持たせてもらえなかった」だと私は思っているが)状態の人もいる。

「自らが感じている必要性を表明することについて、不安感や抵抗感がある」「障壁が除去されたらどんな状態になるのか、全く想像がつかない」という状態なのかもしれない。

  

障害者が感じている「ハンディ」には、次の2種類のものがある。一つは「機能的な制約」、もう一つは「社会関係的な制約」である。私はそう考える。

・「機能的な制約」の例:読み書き計算がうまくできない故、説明書が理解困難などの不便さを感じる。

・「社会関係的な制約」の例:「ひきこもり」のまわりにあるもの 2 - karotousen58のブログで書いたエピソードのような、「機能的な制約の影響で、他人に被害感情が喚起される。被害感情にかられた人が、障害者本人に対して制裁を加えることもしばしば。そして、本人も罪悪感にさいなまされる。」こと。

 

クラス全員で文化祭の準備に勤しんでいるときに、自分が行動しても何一つうまくいかない。ついには何かに躓いて倒れこみ、他人の作業の成果まで破壊してしまう。自分ひとりで後始末できるわけもなく、予定を延長して他の生徒が補修するハメになる。こうして、他人の怒りを買うことになる。 「あいつは他人に迷惑をかけている。何故俺たちがとばっちりを食わなければならないんだ。許せない。」と。

「ひきこもり」のまわりにあるもの 2 - karotousen58のブログ

 「(自称)支援者や(自称)理解者」が、「社会関係的な制約」を否定するケース、これはよくある。「プライドが高い」とか「要は、勇気がないんでしょ」とか「人の目を気にしすぎる、ええかっこしいだね」とか言われたと、私に打ち明けてくれた障害者が少なからず存在する。知的障害者精神障害者発達障害者の場合は更に、「障害の特性故の、偏った認知だね」などと勝手に決めつけられる場合もある。

「機能的な制約なら、傷つくのは自分だ。だけど、社会関係的な制約だと、自分以外の人も傷つく。後者はもっと辛い。」という思いを、障害者本人が持っていることは多い。

前回書いたことを繰り返すが、

障害者が自分の「声」を聞いてもらうためには、「自分の『声』が正当であること」を提示しなければならないということになる。提示に失敗したら、「自覚と自己管理に失敗しておきながら、他人や社会に何かを要求しようなんて、甘え。」と認識されてしまう。しかし、その「正当性」は、「非障害者中心主義や能力主義等によって台無しにされ続けてきたもの」と私には思えるのだが。

「声」の正当性を求める以前に、「『声』を聞く側の立ち位置や、聞き手が障害者本人に期待していること」について非障害者側が見つめなおしてみることも、必要だ。私はそう考える。

 

2.誰のための支援か

社会環境整備や支援は、

・障害者のために非障害者が行う特別な救済活動へと、つなげるものなのか?

・多様な人々にとって助けになったり役立ったりする活動へと、つなげるものなのか?

も考える必要がある。

社会制度や技術や設備が、どういうモデルで作られているか?「平均的な標準的な人」をモデルとして作られていた場合、それに合致しない人が出てくるケースも考えられる。

ここで、「平均的な標準的な人」の内実がどんなものなのかが問題となってくる。

「平均的な標準的な人をモデルに」というのが、実は、「実際にはほとんど存在しない、標準さんをモデルに」だったというケースも、ありうるのでは? (平均や標準について、誰がいつどこで「これが平均や標準だ」と確かめ合ったのか? むしろ、先にいろいろと分けておいてから、「これが平均や標準」というあべこべな決めつけをしているケースもあるのでは?) 

と私は考える。

「実際にはほとんど存在しない、標準さん」をモデルにして作ると、多くの人が困難を感じることにもなりうる。そうではなくて、「人によっては、こういう困難もありうるかもしれない」といったことをいろいろと勘案して作る策を取ったらどうなるか? 

ひょっとしたら、「何らかの特性を持つ人にとって使いやすい」だけではなく、他の人にとっても使いやすいものとなりうるかもしれない。

 

3.「声」の発信と受信→新たな関係性の構築

  

前々回と前回の記事で、「『援助が受けられるか否かは、障害者側の援助要請スキルにかかっている』という認識」について批判的に書いた。

障害者が「声」をあげたとき、「具体的な援助行動」以外にも何か変化が起こる。それはどういうことか?

答えは「発信した側と受診した側との間で、新たな関係性が構築される。」ということだ。私はそう考える。

新たな関係性を構築するには、発信した側にも受信した側にも何らかの変化が求められる。

嘲笑や揶揄や偏見等が現実に存在する中で、障害者が「声」を発信する。発信することによって、不可逆的な第一歩が始まる。

他方で、受信した側には、「発信された『声』をどのように受け止めどのように解釈したか、それを考えていくこと。」ことが求められる。

発信した側にとっては「考えざるをえないできた問題」、それを「声」としてあげる。その「声」は、受信した側にとっては「考えなくても済んできた問題」。「考えなくても済んできた」側の立ち位置について、考えるきっかけとなる。

そして、「考えざるを得ないできた発信者」と「考えなくても住んできた受信者」との間に、新たな関係性を構築することになる。

 

「発信された『声』をどのように受け止めどのように解釈したか、その解釈に偏向はないのか、受信した側が自らの生き方や価値観を再考すること。」が、受信した側に必要だ。私はそう考える。

・発信した側が、何故、『声』をあげなければならなかったのか。そして、どんなことを願っていたのか。受信した側がそれらの原点に立ち戻る。

・受信した側は、発信した側に対して何を期待しているのか。そして、受信した側が期待しているものや価値観によって、聞く価値のある「声」とそうでない「声」とに分けていないか。それを考える。

という視点が必要だと思う。

勿論、「新たな関係性を、作っていく(どちらか一方だけが作っていくというわけではない)」という認識は、発信した側にも必要である。

そして、そのことは「障害者が声をあげる」以外のいろいろな場面でも当てはまることだと思う。

  

(ひとまず完結)

「人に迷惑かけていい」と「障害者が声をあげる」の間にあるもの 2

 

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2017/08/01 01:43

 

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山田 太一さん|証言|NHK 戦後史証言アーカイブス

障害者の声を聞き取った者が、どんな立ち位置にいるかが不問にされているケース多し。「声」は、聞き手が本人に期待する事柄によって、不採用のリスク有。その辛さを無視した「迷惑かけていい」なら脅威ともなりうる

2017/07/28 00:41

 

 「(自称)支援者や(自称)理解者」が、「助けを求めるスキルが、障害者には必要。」「声をあげないと、誰も助けてくれないよ。閉じこもっていてはだめだよ。」と主張することはよくある。ただし、この主張がなされるとき、次のことについては「(自称)支援者や(自称)理解者」は語らないケース多し。

・「障害者の声」の「発信」「受信」に関して、特定の解釈レールが敷かれている場合もありうるのか? (特に受信側)

・「誰かの/ある種の/声」が降板させられたり、「誰かの/ある種の/声」が主役に抜擢されるということもありうるのか?

 

現状は、次のようなことになっている。私はそう考える。

・自力で問題を解決する努力だけではなく、身近な人々に向けて援助を求める努力も、障害者個人に課されている。そして、それを怠ると、自己責任として放置される。

・また、誰もが快く援助要請を引き受けてくれるとは限らない。「特別扱い」を要求する図々しい人だという決めつけがなされる場合も多々ある。結果的に必要な援助を得られたとしても、難色を示す相手から援助を引き出す為にかかるコストは大。

・他人からの援助を引き出すことに難儀した場合、「障害者側のスキル不足」と決めつけるケースがほとんど。「『(自称)支援者や(自称)理解者』側が、障害者の声を、どんな立ち位置で受信したか」「社会的な要因や人為的状況判断はどうなのか」という点に関してはスルーをかましたままで。

・「障害者自身が『(他の人と同様に有するはずの)権利を享有できていないことを告発』し、社会変革を目指して声をあげていく」方向の「障害者の声」は、降板させられること多し。「非障害者に好感をもたれる方法で援助を求める。不運を背負った障害者だが、正常な社会の中で努力と我慢を続けていく根性と精神力を養っていく。そんな障害者を、優しさ/思いやり/ふれあいという形で身近な人もあたたかく支えてくださる。」といった類の声が主役に抜擢されている。

 

搭乗拒否事件は、「各種機関の責務や制度に対して、障害者側が意見を述べて行動→社会を作り変える必要性(ここ重要)について一石を投じた」面の大きい事件だったと、私は解釈している。「優しさ/思いやり/ふれあい」を訴えた「声」というよりも。

そして、障害者によるこの「声」は、「(自称)支援者や(自称)理解者」に降板させられるタイプの「声」だった。

 

「(公共交通機関の)飛行機に乗る」ことは、非障害者のみに与えられる権利ではない。誰もが持っているべき権利なのに、事件当時の各種機関の責務や制度では、障害者がこの権利を行使困難な状態だ。

「障害者のための配慮」ではなく、「誰もが行使できる状態になかったということを問題として、変えていくこと」を考える必要がある。

 

この主張では、「障害者のための恩恵的な福祉」から、「『他の者との平等』を基盤とした、権利に基づく福祉」へと発想を変えることが求められる。

つまり、この主張は、主役に抜擢されていた「私的な人間関係の中で、『優しさ/思いやり/ふれあい』によって問題解決」という見解について、正当性を揺らがせるものともなりうる。「善意と捉えていたことが、実は障害者を排除する世界を構成するものの一つだった」という認識を、要請することにもなりうる。確かにこれは、辛いことでもある。

誰しも、辛い思いはしたくないものである。「非障害者に好感をもたれる方法で援助を求める。不運を背負った障害者だが、正常な社会の中で努力と我慢を続けていく根性と精神力を養っていく。そんな障害者を、優しさ/思いやり/ふれあいという形で身近な人もあたたかく支えてくださる。」という声を守りたい。

そういう思いに無自覚な状態で、「生き辛さや差別をつくっている『社会や制度や文化等』に対して異議申し立てをする」方向の主張を障害者側がした場合、どうなるか?

「『障害者側が、穏便なお願いをする』程度だと、スルーされるケースが多い」というのが、実情だと私は思う。

 

それが実情? 非障害者に対してあまりにも厳しすぎる発言では? と思われるかもしれない。

しかし、過去になされた障害者運動や「分離教育か統合教育か論争」等を私なりに振り返ってみると、「穏便なお願いだけでは、揺らがない」と思えて仕方がない。更に、それらの活動についての批判的検討はほとんどなされていないのでは? という疑問を私は持っている。

それらの活動がどのようになされたか? 私は次のように捉えている。

1.過去の障害者運動では、「障害者本人は問題の『対象』であって、その問題を抱えるのは『家族や周囲の人や社会』」とみなされた。障害をめぐる問題は、「家族や周囲の人や社会にとって、必要な施策や制度や施設等が不十分」という形で問題化された。

2.過去の障害者運動では、「障害者の語りは『周囲が共感可能なものだけを採用』→本人をその方向に誘導」という策が取られていた。

3.「分離教育か統合教育か」論争という形でなされる場合、「それぞれの流派にとって都合の良い『モデルストーリー』が初めにある→それを補強するデータ(『障害者や周りの人の声』など)のみを持ち出す→自らの優位性や正当性を主張」という形がとられていた。

4.「障害者本人に生き辛さを感じさせ差別を生み出している社会に対して、異議申し立て」というタイプの意見は、教育関係者にも非難された。分離教育派にせよ統合教育派にせよ、基本方針は、「障害者が教育で身につけるべきものは、『身近な理解者に助けを求めるスキル』と『辛い目にあっても我慢と努力を続けられる根性』。広い意味での社会の態度は変わらないのだから、異議申し立てなんて甘え。」

5.つまり、障害者側は、「問題を定義する権利」をほとんど持てなかった。「社会変革の可能性」ではなく、「非障害者の優しさ/思いやり/ふれあいによって、障害者が助けられる」という方向に誘導された。

 

2.と4.について、更にしつこく書く。「無効化」の常套手段だと思うから。

「障害者本人に生き辛さを感じさせ差別を生み出している社会への、異議申し立て」に対して、次のような方法が取られていた。

・「○○ちゃんは、最初は心を閉ざしていた子供でした。しかし、先生の働きかけや子供同士の関係で、○○ちゃんも心を開いて変わっていきました。思い通りにならないからといって、不平ばかり言っていても何の解決もなりません。」という類の、「困った子が『仲間』へ変わっていくお話」を連発して、無効化。

・「もっと大変な人もいる。その人に比べればあなたは幸せだ。」「××さんは障害の自覚と自己管理ができていないくせに、社会に何かを申し立てようとする甘えた人だ。そのような人になってはいけません。」というように、「程度の違う人」を設定することによって、「みんなと同じ人」と主張。つまり、特定の人を「私たちとは違う人」に仕立て上げることによって、「そんなことを言ってるようじゃ、みんなの仲間になれないよ。」と誘導。違うとされた人の状況や主張を知ったうえでの誘導ではない。

(去年の今頃、2016年7月26日のあの事件で「被害者の氏名不公表」についてもこの方法が目についた。「家族が障害を恥じている。『重度の障害者には、知人も友人も語るべき人生もない』と家族が決めつけている。私の家族はそういう人たちとは違う。」という類の主張を、いろいろな人がやっていた。)

・「障害者と非障害者の間に引かれている境界は、本人の心身だけでは決まらない。『社会的な要因』や『いろいろな人によってなされる状況判断』なども絡まっている。」と主張しようものなら、「障害者と健常者を分けて考えるということ自体が間違い」と言って黙らせる。

 

搭乗拒否事件については、「障害者支援について強く関心を持っていると思われる人(障害者も非障害者も含む)」から、非難の声が多くあがっていた(と私は認識している)。特に、「そんなことをすると、他の障害者までが『文句ばかり言う障害者』という目で見られることになる。他の障害者にも迷惑だよ。」という声が。正直なところ、私はそのことに驚いた。

「障害者権利条約や社会モデルや合理的配慮」という言葉にふれたことがありそうな人なのに、何故、「障害の個人モデル的/温情主義的な意見」を支持するのだろう? 「障害者権利条約や社会モデルや合理的配慮」観点からの発言よりも「行動が過激」発言を何故優先? と。

そして、「私的な人間関係の中で、『優しさ/思いやり/ふれあい』によって問題解決」という主張は、一歩間違えると「法律や社会制度等も考える」という方向性を否定することにつながりうると思った。

搭乗拒否事件について最初に私が思ったことは、次のことだった。

・「『飛行機に乗りたい』という願望をハナから持たないように、誘導する」という行為が、これまでなされてきたんじゃないかな?

・「『(公共交通機関の)飛行機に乗る』ことは、一部の障害者にだけ与えられる権利ではない。「誰もが持っているべきなのに、実際は障害者があまり(orほとんど)持たなかった権利だ。」などと障害者側が主張して、咎められたケースもありそうだな。

・「飛行機に乗れなくても、身近にいろいろな楽しみがある」といった類の主張を障害者がやるように、仕向けられたこともありそうだな。

 

このような状態では、「迷惑かけていいんだよ」と言われてはいても、「(自称)支援者や(自称)理解者の価値観から外れた」障害者には、「(自称)支援者や(自称)理解者が主導する援助(却下や非難も含まれる)」が提供されることになる。障害者側が、「下手に助けを求めたら、相手が被害感情をもちそうで怖い。」と思うこともありうる。私はそう考える。

 

次回は、「障害者の声」を「受信/発信」することについて書く予定。

「人に迷惑かけていい」と「障害者が声をあげる」の間にあるもの 1

 

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この記事と搭乗拒否事件とのブコメ反応に温度差を感じる。この記事では「私的な人間関係の中で『優しさ/ふれあい』によって問題解決」重視、搭乗拒否事件では「各種機関の責務や制度も要再検討」と障害者側が主張故?

2017/08/01 01:43

 

 

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山田 太一さん|証言|NHK 戦後史証言アーカイブス

障害者の声を聞き取った者が、どんな立ち位置にいるかが不問にされているケース多し。「声」は、聞き手が本人に期待する事柄によって、不採用のリスク有。その辛さを無視した「迷惑かけていい」なら脅威ともなりうる

2017/07/28 00:41

 

好意的なブックマークコメントが結構ある。しかし、私は釈然としない思いを持っている。

 

釈然としない思い 1

「恐れるな」「周囲に遠慮しながら暮らさなくてよい」「しかし、節度は必要」といった類の言葉を、障害者はおそらく、今までに何回も「(自称)支援者や(自称)理解者」から浴びている。

「それのどこが悪い? いいことじゃありませんか?」と思われるかもしれない。しかし、私は思うのだ。

障害者が声をあげたとき、その「声」を聞き取った人がどのような立ち位置にあるのか? それが不問にされ続けている状態にあるのでは?

障害者本人の「声」は、「聞き手が本人に対して望んでいる内容」であるか否かによって、「支援に値するものとそうでないもの」に分けられる危険性があるのでは? 後者が却下や非難につながり、「声」が無効化されてしまう危険性があるのでは?

と。

「3年間にわたって車いすの人たちとつきあい、大変な苦労をしている日常に接する中で到達したものです。彼らは、とても大きなものに縛られていて、あそこまで露骨に言わないと、世間にわかってもらえないと思いました」

 「大きなものに縛られていて」の「大きなもの」と「縛られ」がいったいどういうものなのか、これについても検討してみる必要があると私は思う。

「自分の意見や感想、助けを求めることなど、どこまで言っていいのかわからない。勇気を出して声をあげたとしても、相手がどう解釈するかわからない。相手に被害感情を持たせてしまったこともある。自分が苦しんだり損をするだけならまだマシ。被害感情を誘うことはもっと辛い。でも、声をあげないと相手にはわからない。辛い。」

という内容の発言を、私は今まで、複数の障害者から聞いたことがある。

 

釈然としない思い 2

障害者があげた「声」は、どういうものなのだろうか?

・障害者個人が、特定の個人的利害を追及するための圧力か?

・「障害者と非障害者との平等」を基本とした権利に基づくもの→「非障害者文化を中心とした、現代社会の構成原理」のつくりかえに向けて、いろいろな人が検討していく必要のある事柄が隠れたものなのか?

・特別な人の為になされる、特別な救済活動へとつなげるものなのか?

・多様な人々にとって助けになったり役立ったりする活動へと、つなげるものなのか?

「これらについて(特に非障害者側が)検討しない状態で、『迷惑』という表現がなされている」と私には思える。

 

釈然としない思い 3

「(自称)支援者や(自称)理解者」が「優しさ/思いやり/ふれあい」という類の言葉を悪用して、障害者があげた声を「無効化」する。これって、実はよくある話なのでは?

障害者が直面する問題には、そこでの多様な社会的関係や制度的文化的特徴などのいろいろな要素が隠れている。それらを切り捨てて思考停止して対人関係を作ろうとする場合、「優しさ/思いやり/ふれあい」といった類の言葉が悪用される危険性があるのでは?

「優しさ/思いやり/ふれあい」「支援/理解」という言葉が使われたら、「悪意をむき出しにされる」場合よりも更に、反駁や拒絶が難しくなる。それらを表明すると次の言葉が返ってくる。「助けてあげているのに。」「言葉尻をあげつらうんじゃありません。」「思い通りにならないからといって、文句ばかり言うな。」「味方になってくれるはずの人達を悪く言うなんて、愚かな行為。」「そんなことをすると、他の障害者までが『文句ばかり言う障害者』という目で見られることになる。他の障害者にも迷惑だよ。」といった類の言葉が。

 

本人の「声」は、「聞き手が本人に対して望んでいる内容」であるか否かによって、扱われ方が違ってくる。本人や家族の持つ「各種資本や社会的地位や多様な能力」によっても、扱われ方が違ってくる。私はそう考える。そして、「(自称)支援者や(自称)理解者」が、(無自覚に)次のようなことをしている。

「他人からの援助を引き出せる障害者」と「それが困難な状態にある障害者」という、「障害者内部における新たな線引きや序列化」を。更に、それにもかかわらず、「迷惑かけていいんだよと語り、優しさ/思いやり/ふれあいで、本人の声を尊重」しているかのような錯覚をさせて。

そして、そのことによって「問題」の正体がわかりにくくなっていると、私は思う。

「迷惑かけていいんだよ」と言われてはいても、「(自称)支援者や(自称)理解者の価値観から外れた」障害者には、「(自称)支援者や(自称)理解者が主導する援助(却下や非難も含まれる)」が提供されることになる。

→結局は、「生き辛さや差別をつくっている『社会や制度や文化等』に対して異議申し立てをすることではなく、本人が自己責任で生き辛さや困難と闘う」ことになる。そしてそれは、「非障害者中心の『社会や制度や文化等』を受け入れることを義務付ける。

私はそう考えている。

 

「(自称)支援者や(自称)理解者」による無効化。 次回はこれについて書く予定。

今週のお題「高校野球」

今週のお題高校野球

 

正直なところ、高校野球にはあまり興味がない。

「9回2アウトで勝敗がほぼ決定という空気になった時点」の映像が特に、私は苦手である。昭和時代は、「応援している生徒(特に、今にも泣きだしそうな女子生徒)のアップ」が出てくるのが相場となっていた。

「お涙頂戴物語に仕立て上げたいんだな」と、ひねくれ者の私は思ってしまう。

 

ただ、子供の頃は高校野球のほんの一部分だけを楽しんでいた。正しく言うと、「ふるさと紹介」のコーナーが好きだった。知らない地名がたくさん出てきた。そして、名産品や歴史や文化などが紹介された。知らない地域、家族親戚と全く接点がない(と思われる)地域に対して、漠然と憧れた。

夏の高校野球で「各都道府県代表」制度が始まったのは、1978年のこと。それより前は、私の出身県「鳥取」の高校は、代表校になれないことが多かった。1978年まで私は、鳥取県の「ふるさと紹介」を視聴したことがなかった。

1978年の鳥取県代表は倉吉北高校。「倉吉ならこういう紹介がなされるんだ」と思った。馴染みのあるまちについての紹介なのに、新鮮に感じられた。

 

昭和時代になされた「鳥取県のとある代表校の『ふるさと紹介』」が、変な意味で印象に残っている。「過疎の町が甲子園出場で、町中は活気にあふれています」という感じのしめくくりがなされていた。

「わざわざ、『過疎』のことばを入れなくてもいいだろ」と思った。

鳥取県民自慢のアイス

今週のお題「好きなアイス」

 

このお題を見て最初に頭に浮かんだのは、「大山乳業農業協同組合」で製造されているアイスである。

大山乳業協同組合は、鳥取県酪農家で組織した専門農協である。ここで製造されている牛乳は、「白バラ牛乳」という名前で親しまれている。

製品紹介 | 大山乳業農業協同組合

私は、「大山おいしい珈琲もなか」が特に気に入っている。家族は「白バラ抹茶もなか」が特に気に入っている模様。「大山おいしい珈琲モナカ」の珈琲アイスは、甘すぎないところが気に入っている。「白バラ抹茶もなか」以外のモナカは、牛乳瓶型をしている。「カウィー」なるマスコットキャラクターを大山乳業では使っているのだが、モナカの皮の部分には、この「カウィー」のイラストがついている。

夏場に、山陰以外の地域の人が訪ねてくるときは、この「白バラアイス」を切らさないようにしている。私の甥が中高生だった頃、彼らが夏休みにうちに泊まりに来たときには、うちの冷凍庫の中を白バラアイスでいっぱいにしていた。

「大山牧場」は高級品。貧乏な私には、なかなか手が出せない。

商品ラインナップ | 大山牧場プレミアムアイス [大山乳業農業協同組合]

「ギフトボックス」は、「下心のこもった贈り物」としては使いたくない。

 

「アイスクリーム」「ラクトアイス」「アイスミルク」以外のアイスとして、「氷菓」がある。大山乳業以外の氷菓では、赤城乳業から出ている「ガリガリ君」と「ガツン、と」が好きだ。猛暑日となったら、これらの「氷菓」のほうが欲しくなる。

 

大山乳業のアイス、中国地方近畿地方以外では見つける機会がほとんどないかもしれない。他地域にお住いのかたも、食べる機会があったらいいなと思う。

早生まれの子供にとっての「年齢」と「選択」

私は2月後半生まれである。小学生時代から、「早生まれ」という形で「年齢」を意識していた。早生まれで得をしたと思ったことは、正直なところ一度もない。

私の親は、早生まれに産んだことを恩に着せた。「早生まれはどうして得なの?」と私は親に何度か訊いた。

「大人になってから、若く見られるから。」という答えしか返ってこなかった。それのどこがいいのか、全然わからなかった。今でもわからない。

早生まれの人に訊いてみたいことがある。だが、その「訊いてみたいこと」について、面と向かって訊きにくいという思いも私の中にある。訊いてみたいこととは、

1.早生まれは不利だと思うか

2.不利だとしたら、いつごろまで不利だと思うか

3.不利だとしたら、どういう点で不利だと思うのか

ということである。

「訊きにくい」と思う理由は、私自身が、私の親のような人から散々言われたからだ。「早生まれは特にきまってるでしょ。いい年して、早生まれの差なんて何くだらないことを言ってんのよ。過去のことをウジウジ言ってもムダでしょ。」という類の言葉を。その結果、「早生まれの事なんて、話題にしても無駄だ」と思うようになったからだ。

一方で、何かの拍子に、「早生まれって、損だよね。」という類の言葉が他の人から発せられる。それを何度か聞いたことがある。

「訊いてみたいこと」に対する私の本音は、次のようになる。

1.不利

2.世間一般では『大人になったら、早生まれによる差なんてなくなる』と思われているようだが、下手すりゃ大人になってもハンディがつきまとうことになる。

3.環境によっては、『早生まれの子供に対して、身近な大人が誘導する選択』がとんでもないハンディを呼び寄せることになる。

 

私の本音について、詳しく書いてみる。

 

教育制度上で対立する主義がある。「年齢主義と課程主義」「履修主義と修得主義」である。

 年齢主義と課程主義 - Wikipedia

日本での高校までの教育は、年齢主義と履修主義を基本として運用されている。そして、一クラス40人近い人数で一斉授業が行われている。学力等の到達度には、当然個人差ができてくる。到達度には、家庭の持つ経済資本や文化資本社会関係資本の影響も大きい。

所謂「奥手の子」で、しかも各種資本の乏しい家庭出身だと、どうしても不利な立場に置かれてしまう。

例え話をあげてみる。

「ボールをつきながら走る」という動作がある。この動作は、「止まってボールをつく」という動作と「走る」という動作をそれぞれ、ある程度こなしてからでなければ困難である。

はっきりと覚えていないのだが、このことは確か、岩波新書『ズポーツとからだ』という本に出ていたと思う。

 スポーツとからだ - 岩波書店

「止まってボールをつく」経験を積んでいない段階で学校での一斉授業でいきなり「ボールをつきながら走る」ことを要求された場合、うまくできないケースが考えられる。

早生まれの子のほうが、「経験を積む以前の状態で、いきなり一斉授業で高度なことを要求される」状態になる危険性が高くなると考えられる。それだけではない。学年が上がるにつれて要求されるレベルが高くなる。そして、他の子に輪をかけてどんどん授業から取り残されていく。

合唱コンクールとか団体スポーツとかいった類の集団行動」が絡んできた場合、さらに悲惨なことがありうる。「壊滅的にできないこと」が「集団内でのお荷物」と認識されることである。「みんなの足を引っ張っておきながら、自分一人だけがみんなの頑張りにただ乗りする極悪人」という認識を本人が持ってしまう、そういう危険性も考えられる。

年齢主義と履修主義のもとでは、「止まってボールをつく練習」という発想を持つことも困難かもしれない。

 

「うまくできない」ことを、身近な大人がどのように捉えるか?

「できるか/できないか」「他の子に比べて勝っているか/劣っているか」「表面的な出来栄えが、周囲の人からどのような評価を引き出すか」に強く関心を示す。

というケースが考えられる。その結果、子供までが、大人による解釈を内面化してしまうという危険性も考えられる。

 

「早生まれの子は、小学校卒業までは同級生との競争で不利になる。勝てたことや選手に選ばれたことで、人は自信を持つ。中学以降ではそれらの差はなくなるから、中学以降で自信を持たせればいいだけのこと。」という見解を、私は過去にいろいろな人から聞かされた。

しかし、私は思う。「もっと怖いことを見逃しているぞ」と。

もっと怖いこと、それは、「身近な大人が、本人よりも先に諦める→それらのことに関心を持つことすら、禁止する。実際に行動に出るよりも、不戦敗を選ぶように仕向ける→それらを積み重ねて、本人までが、どうせ、できっこないと決めつけて、最初から不戦敗選択を常習化するようになる」ことである。

しかも、それらは「キレイな言葉」を使って語られる。「あくせくしなくても、いいじゃないの」とか。「できない子はダメな子なんて言わない、あたたかい目で見ている私たち、いい人でしょ。」とでも言わんばかりに。

実際には、「不戦敗でも、『他の人の頑張りにただ乗りしてやがる』と非難されたらいけない。だから、同時進行で『上手な人から可愛がられる』努力をしろ。」というメッセージも同時に送られることが多いのだが。

「条件の不平等から、結果が予想できる。だから、無駄な努力なんかするな。」と、身近な大人が主張する。しかし、「負けた場合の損失」や「敗者復活戦」や「セーフティネットの有無」について彼(女)らが検討したのか否か? 疑問が残る。本人が「たいした損失ではない」と思っていたとしても、「取り返しのつかない大ごと」と騒ぎ立てる場合もよくある。

 

早生まれの絡んだ「年齢」と「『どうせ、できっこない』と決めつけて、最初から不戦敗を選択」、これによっていろいろなものを失ってしまった。私はそう思っている。次のような発想を、早いうちから持っていればよかったかもしれない。

 ・現段階ではうまくできない。必要とあらば、他の人と違った方法を工夫してみるのもいいかもしれない。上達するプロセスも、他の人とは違うかもしれない。その人独自の方法やプロセスは、他の人のそれらと比べれば見栄えがしないかもしれない。だけど、工夫することやプロセスを楽しめるのならそれでいい。自分に合ったやり方を工夫していくことは大切な事。

・「負けた場合の損失」や「敗者復活戦」や「セーフティネットの有無」について考えることも、必要かもしれない。

・(早生まれとか遅生まれとかいった観点を外れて、)「ロールモデルのない状態で、試行錯誤しながらいろいろな行動をしている」人も、たぶんいる。その人や行動からも、何かを考えることは可能。そして、楽しいかもしれない。

 

特別お題「『選択』と『年齢』」

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