karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

教科書図書館に行きたくなった

先月書いた、小学校国語教科書収録作品『贈りもの』(岡野薫子 作)関連の話、更に変な方向へ進んでしまう。過去の教科書(他社のものを含む)を読んでみたくなったのだ。

そういえば、私が小学生の頃に親が買っていた学参は、「教科書準拠」のものがほとんどだった。当時の学年別学習雑誌には、「保護者用のページ」があった。そのページでは、各社教科書対応ページについても書かれていた。

「他社の教科書って、どんなものなのだろう?」と、当時、思っていた。

そして、「教科書図書館」なる場所に行きたくなってしまった。ここでは、教科書(過去のものも)の閲覧やコピーが可能である。

教科書図書館 – 公益財団法人教科書研究センター

 

先月、記事を書いたときに教育出版のサイトを調べた。すると、「過去の教科書」ページがあった。

過去の教科書 - 教育出版

そのページを見ると、過去教科書(ただし、昭和49年度版以降)収録作品のタイトルがほとんどわかる。

私の記憶では、児童の書いた作文も教科書に掲載されていた。しかし、それについてはふれられていない。個人情報関連の配慮だろうか?

私の記憶では、新聞掲載記事を使った単元もあった。1972年の新聞記事で、沖縄に関する記事だった。「タンチャメー」という言葉がでてきたと思う。この単元についてもふれられていない。

私は1971年(昭和46年)に小学校入学。小3までの教科書も、昭和49年度版のページでタイトルがわかるものがかなりあった。「うんうん、この話あったあった。」と思い出したものが結構ある。文学や詩よりも、説明文のほうが印象に残っていたようだ。再読したくなった話が、いろいろと出てきた。

 

説明文では、『サロマ湖の変化』『せんこう花火』などを再読したくなった。

説明文の場合、著者がはっきり書かれていない(「編集委員会」となっている)ものがほとんどである。教科書以外では読めないのだろうか?『もっと速いものは』は、福音館書店からでていた『もっとはやいものは』ではなかろうか? などと思った。

文学や詩でも、思い出したことがある。

『谷間にかかったにじの橋』か……。布田保之助(ふた やすのすけ)と通潤橋(つうじゅんきょう)のことを書いた話だった。この単元を習っていた頃、タイミングよく、新日本紀行というテレビ番組で布田保之助のことが放送されたのを覚えている。

『白い風船』(遠藤周作 作)、習ったのは小6の1月か2月だった。「この時期だよな。この話を扱うのは。」と、大人になった今、思った。また、この話は、「大人になってから読むほうが実感が湧くかもな。」とも思った。

 

教育出版以外にも、過去の教科書掲載作品がわかるサイトがある。教科書クロニクル | 光村図書出版

 (小学校ではないが)教科書クロニクル(中学校国語教科書)|三省堂「ことばと学びの宇宙」

など。やはり、ラインナップが異なっている。出版社が違うと、「著者名が同じでも作品名が異なる」ケースが結構ある。

光村図書の場合、光村ライブラリーというものもある。過去,光村図書の『国語』教科書に掲載された作品のうち,先生方や子どもたちに高い評価をいただいたものを精選し,アンソロジー形式で収録したものである。大人になった今読んだら、面白いかもしれない。

 

「今使っている国語教科書に載っていない作品のタイトルを、教科書図書館で調べる。そのタイトルの作品をコピーする。その作品について、教科書準拠学参を使って勉強してみる。」という課題が、私の頭に浮かんでしまった。

私にとっては、「読書感想文よりは、とっつきやすそうな課題」と思える。

現役小学生が、この課題を「夏(or冬)休みの課題として、こういうことを考えました。」などと言って学級担任に提出したら、周りの大人に嫌がられるだろうか? 

こういう変なことも、ついつい私は考えてしまう。

児童文学、むずっ!

先月記事に書いた『贈りもの』(岡野薫子 作)がきっかけとなって、『砂時計』(岡野薫子作)という本を読んだ。この本は短編集である。

砂時計 (偕成社文庫3041)

砂時計 (偕成社文庫3041)

 

 読後最初の感想が、「児童文学、むずっ!」だった。「この本」ではなく、「児童文学」だった。

 

そういえば、私が子供だった頃、「文章(特に情緒的なもの)の内容が解らない」という思いを持っていた。

「行間が読めない。」「作者が主張したいことがわからない。わかったと思っていても、実はトンチンカンな解釈になっているんだろうな。」と思っていた。

子供の頃に読む(or読まされる)文学的文章は、「とりあえず読みました。それで、はいおしまい。」では片づけさせてもらえない。国語の授業やら試験やら読書感想文やらいったものもつきまとう。義務教育(特に小学校)では、情操教育めいた面も重視されている(と私は思う)。「情緒的な文章が読めて、心情読解ができて、情緒的な作文を書く」ということが主な目標になっているのでは? と思う。

「行間や作者の主張がわからない」状態で、国語の授業や試験を受ける。当然、点数は悪い。読書感想文になるともっと悲惨だ。あらすじすらうまく書けないことになる。ましてや、「大人の意向を忖度した感想」なんて書けない。私はそういう子供だった。

 

何故、「むずっ!」と思うのだろう? どこがどのように「むずっ!」なのだろう? 私の頭は、そのことでいっぱいになってしまった。

 

最初に、他の人は、どのような文章を読んで「難しい」と思うのだろうか? 私の知っている人の場合はどうだったのだろう? ということを考えた。友人や姉や弟などによる、次のようなコメントを思い出した。

川原泉(漫画家)の作品が難しいと思っている人も、結構いるかも。」

立花晶の少女ギャグ漫画って、1970年代の典型的少女漫画(例 『キャンディ・キャンディ』)のお約束事を知らない人にとっては、イミフと思えるかもしれない。」

「『イブの息子たち』(青池保子 作)という少女漫画、読み慣れるまでは少しとまどったけど、今はおもしれーと思う。」(注 大学時代、共同実験グループの男子学生間で、この漫画が流行ったことがあった。ある学生が、下宿先大家さんの娘さんから借りて、はまったことが発端らしい。)

 

川原泉作品・立花晶の漫画・典型的少女漫画・『イブの息子たち』。私には、「児童文学、むずっ!」とは違うタイプのものに思えた。きちんと内容を把握できているかどうかは、怪しいが。

川原泉作品の特徴は何? と読者に訊いたなら、おそらく、「活字の量が多い」という類の答えが返ってくるだろう。実際、複数の人から聞いた。

「漫画のお約束事」とか「読み慣れるまでは少しとまどった」とかいう表現から考えるに、漫画や文章には、何か「型」のようなものがあるのだろうか? その「型」がわかっているか否かで変わるのだろうか? と思った。

 

川原泉作品中には、「説明的なセリフ」といった言葉がよく出てくる。「ひょっとしたら、この『説明的』の部分が、児童文学とは違うものになっているのだろうか? 」と思った。

そして私は、次のような結論(?)を強引に出した。

児童文学では

  • 説明文的な情景描写が少ないのかもしれない。
  • 「説明がなされるのは、大まかな部分。細かい部分は登場人物(特に主人公)の言動を通して伝える。あるいは、読者の想像に任せる。」という書き方が、なされているのかもしれない。
  • 「作者の視点による客観的な描写が、少ない。登場人物(特に主人公)から見た描写で、話を進めていく。」という書き方が、なされているのかもしれない。

 

もしも、「『砂時計』収録作品で読書感想文を書け。」と言われたら、私は固まってしまう。子供時分の私でも現在の私でも。「間接的な説明」をきちんと読み取れているという確信が、持てそうにないから。

今の私なら、「本に出ている『著者紹介』の類から、強引に文章を作る。そして、原稿用紙のマス目を少しでも埋める。」という策も考えつく。あざといやり方だが。

この本の場合、作者は、「科学雑誌の編集などを経て、科学映画の脚本家となり、1960年より、児童文学の創作を始める。自然と人間との関わりをテーマにした作品に特徴がある。」ということだ。マス目埋めがやりやすそうな紹介文である。「科学雑誌」や「科学映画」方面にもっていくという方法も、考えられるから。

このようなあざといことをやらないで、「『間接的な説明』をきちんと読み取って、大人の意向を忖度する、読書感想文」を書き上げる子供って、大変だな。すごいなあ。と思う。

 

しかし、「小学校国語教科書掲載の児童文学を突然思い出した。小学校の授業が終わってからは、ずっと忘れていたのに。」というだけのことが、どうしてこういう変な発想に変わっていくのだろう? 「ずっと忘れていた」のではなかったら、ここまで変な方向に走らなかったかもしれないが。我ながらあきれる。

今週のお題 平成最後の夏

今週のお題「#平成最後の夏」

 

今年の夏、自転車後輪タイヤを交換した。

この「平成最後の夏」というお題を見なかったら、タイヤ交換についてブログ記事を書くことなんてなかっただろう。

この自転車は、2004年(平成16年)7月に買ったものである。お題を見て、「『平成最初の夏~この自転車を買った夏』と『この自転車を買った夏~平成最後の夏』と、期間の長さがあまり変わらない」ことに初めて気づいた。

「平成最初の夏」が大昔のことに思えるのに、「期間の長さがあまり変わらない」ということが、何か意外という感じ。そして、「ひょっとしたら、平成の次の年号でもこの自転車を使っているかもしれない」ということに、驚いてしまった。

 

この自転車は、ブリヂストンの「サブナードスポーツ」という自転車である。外装6段変速である。現在では発売されていない。

この自転車を買うとき、私は変なことを考えていた。「安物の自転車を短い期間で何度も買い替える」のと、「少し高級な自転車を自転車屋で買う」のと、結局のところはどちらが安くつくのだろう? いっちょ実験してやるか。ということを。

最初は、大手メーカー製内装3段変速のものを買おうと思っていた。しかし、店内にあった「サブナードスポーツ」を見て、思いが揺らいだ。

「こちらのほうが安い。しかも6段変速という、想像してもいなかったタイプ。こちらも面白そう。」と。

どうやら、私の思いを店員が察した模様。サブナードスポーツを強く奨めてきた。

「外装6段のほうが面白いよ。実際乗ってみて。値引きしますよ。」と。乗ってみたら、快適だった。

 

「面白いということは、いろいろとメンテナンスが必要という意味だろうか? それなら不安だな。でも、今はネットの時代だからメンテナンス方法もわかるかもしれない。」と思った。

私のうちには、「メンテナンスをきちんとして、いろいろなものを長期間大切に使う」という文化がない。私以外の家族の場合、自転車は「屋根のない場所にカバーもかけず、ほったらかし」が平常である。当然、短期間で壊れてしまう。私の家族には、「ロードマン」という大手メーカー製自転車を、3年でダメにしてしまった過去がある。

迷ったが、決心した。「不安だけど、いっちょ賭けてみるか。本体価格3万2000円にまけてもらえるんだし、3年もったらあのかわいそうなロードマンよりはいいだろう。」

 

外装変速の自転車は、注油などのメンテナンスを定期的にする必要がある。取扱説明書の他に「整備手帳」なるものも付いていた。「定期点検・調整を、販売店へ依頼してください。」と書かれていた。

定期点検・調整について、「初回は、お買い上げ後100キロメートル到達時または2ヶ月以内。第2回目以降は、お買い上げ後6ヶ月以内、12ヶ月以内、その後は1年毎」と書かれていた。有料ということだ。

「やっぱり、外装変速の自転車は、メンテナンスをきちんとしなきゃいけないのだな。」と思った。

初回の点検・調整のために私がその店に行ったとき、「律儀に来る人なんてほとんどいない。」と店員から言われた。それを気にせず、第2回目も点検・調整に行った。買って1年経たないうちに、その店はなくなった。だから、それ以降は、店での点検や調整ができなくなった。

 

こういう状態で、不器用な私が自己流でメンテナンスを続けていた。家族からは、「面倒な自転車。どうせ掃除とか上手くできてないだろ。」と言われまくった。それでも、使える状態が14年以上続いている。自分でもびっくり。

この自転車を買ったばかりの頃、強風の日があった。その日、とある青空駐輪場に停めてあった自転車がたくさん倒れていた。しかし、この自転車は倒れていなかった。「やはり違うのかな」と思った。

もしもこの自転車に寿命が来たら、「サブナードスポーツの後継車(現在ではビレッタ)」にしたい。

そう思うほど、私はこの自転車が気に入っている。次の元号に変わっても、使える状態が続いてほしい。

『贈りもの』(岡野薫子 作)という児童文学を、突然思い出した

突然、『贈りもの』(岡野薫子 作)という児童文学を思い出した。

この作品は、私が小5の頃の国語教科書(教育出版発行)に掲載されていたものである。教科書ではタイトルが「おくり物」となっていた。

小学校の授業以来、この話を思い出すことなんてなかったと思う。「何故、唐突に今?」

更にそのとき、この話の細かい描写を次々と思い出してしまった。「これだけ覚えているにもかかわらず、何故、今の今まで思い出すことがなかったのだろう?」

昭和49年度版 - 教育出版

私には2つ上の姉がいる。姉は昭和48年(1973年)度版の小5用国語教科書を使っていた。姉の教科書にも、この作品は掲載されていた。私の小学生時代、「教科書の音読」という宿題も担任から頻繁に出されていた。たぶん、姉も何度か音読していたのだと思う。この話は、4月の授業で扱った。参観日の授業にされたのも覚えている。

そういう条件があるとしても、何故、私は細かい描写をいろいろと覚えていたのだろう?

我ながら不思議。

 

今はネットの時代。検索してみたら、『砂時計』(偕成社文庫)という本に収録されているとのことだった。地元図書館にあったから借りた。再読して、「本当は恐ろしい話かもしれない『贈りものごっこ』」だと思った。

砂時計 (偕成社文庫3041)

砂時計 (偕成社文庫3041)

 

 

『贈りもの』は、次のようなお話である。(注 読解力がなく国語の成績も悪くひねくれた性格を有している私が、とんでもない誤読をしている可能性あり。)

 学校で「贈りものごっこ」なる遊びがはやっていた。主人公を含む仲良しグループ(スクールカースト上位層)が、この遊びを楽しんでいた。

ある日、よし子ちゃんという女の子(内向的で友達がいない子)が、「私も(贈りものごっこに)入れて」と主人公に言う。

仲良しグループはよし子ちゃんを歓迎せず、「嫌がらせ的方法」を用いてよし子ちゃんと一緒に贈りものごっこをする。それにもかかわらず、贈りものごっこに参加した後のよし子ちゃんの態度は、「ぐう聖」的だった。 

 

 突然思い出した直後、私の頭の中には次のことが浮かんでいた。

スクールカースト、「集団が個人に及ぼす力」の怖さ、恐喝や暴行とは異なる「仲間外れ」系排除、要領のよいいじめっこと要領の悪いいじめっこ、「みんなと打ち解けて、話のできる子にならなきゃいけませんよ」的メッセージ

小5の頃の私は、「皆と打ち解けて……」的メッセージ以外は頭に浮かばなかった。「仲良しグループが嫌な奴らだ」とか「『よし子ちゃんを見習え』などと、担任や親から言われまくるだろうな」ということで頭がいっぱいだった。

よし子ちゃんの家は八百屋で、彼女はよく手伝いをしていた。よし子ちゃんの接客の様子、嫌がらせ的方法やよし子ちゃんの持ってきたプレゼントについての具体的描写を、何故か私は覚えていた。43年以上後に再読して、「私が覚えていなかった描写」を知ることができた。

「集団が個人に及ぼす力」とその怖さについて、主人公によるモノローグ的描写もあった。「主人公は要領の悪いいじめっこタイプのようだな。仲良しグループの他メンバーは、要領のよいいじめっこタイプで。」と思わせる描写もあった。それらの描写について、私は覚えていなかった。というより、「当時の私が精神的な面での成長が遅れていた」「関心を持つところまでいかなかった」のだと思う。

  

恐喝や暴行とは異なる「仲間外れ系」排除。それはしばしば、「仲良しグループ以外の人の関心をひきにくい、目立たない方法 と犠牲者を選ぶ」かたちの排除となる。

被害の証拠が残らない。更に、「仲間外れにされている」と誰かに訴えることは、「自分は人気のない劣った存在」と自己申告することに近い。それ故、「誰かに相談する」ということが困難となる。

『贈りもの』では、次のような形で「仲間外れ系排除」がなされていた。

仲良しグループのメンバーが、「内向的で友達がいないこと」=「よし子ちゃんに問題がある」と認識→逸脱の一種としてみなす。そして、「よし子ちゃんについての勝手なフィクション」を作り上げ、それを排除の理由とする。「勝手なフィクション」を作り上げたメンバーは、「自分たちが作り上げたフィクション」であることを忘れてしまい、最初からあった事実のように思い込んでしまう。

 

いわゆるいじめっこには、要領のよいタイプと要領の悪いタイプが存在する。例えば、要領のよいいじめっ子は直接には手を下さず、誰かをそそのかせていじめさせる。そそのかされて直接いじめるのは、要領の悪いいじめっこである。そして、しばしば、被害者が「自発的に」集団から出ていくのを待つという方法が取られる。

『贈りもの』では、「嫌がらせ的な贈りものの準備と、よし子ちゃんからの贈りもの受け取り」を、主人公がやる展開となっていた。

 

スクールカーストめいたものは、私の小学生時代にもあった。集団内部の力関係や人間関係をうまく読み取れる子がスクールカースト上位層だ。学校内部で最も力を持っている人が誰であるのか、その人と仲良くなるにはどの人を味方につければいいのか、必要以上に仲がよくなるとまずいのは誰なのか、といったことをうまく読み取れる子が、上位層となる。「友達のいない子」は、スクールカースト最下層とみなされる。

もっとも、それらの洞察力は、「他人との調和を上手にはかりながら集団をつくる」ことというよりも「波風を立てないようにする」ことに向けられているのだが。

学校内において、「教師や親」と児童生徒は、対立関係になることもあれば連帯関係になることもある。「教師や親が、スクールカースト上位層の子と連帯意識を強く持つ」こともある。そうなると、スクールカースト最下層の子は、教師や親からもみくびられてしまう。

私が小5のときの担任も私の親も、「スクールカースト上位層との連帯意識」を強く持つ人に思えた。私は「スクールカースト最下層」の子だった。「よし子ちゃんを見習って、友達をたくさん作る努力をしなきゃいけませんよ」的メッセージを、当時の私も感じていた。

 

贈りものごっこに参加した後のよし子ちゃんの態度は、「ぐう聖」的だった。その態度によって主人公は、「集団と個人との関係や力」について、自分を見つめ直した。そして、よし子ちゃんに対する認識を変えた。この出来事の後、よし子ちゃんは打ち解けて、主人公たちと話をするようになった。

ひねくれている私は、この結末にモヤモヤしている。

「ぐう聖」的態度の取られた場には、「仲良しグループの他のメンバー」はいなかった。つまり、主人公以外が、「よし子ちゃんに対する認識」を変えるきっかけになったか否か? 「ぐう聖」的態度という「結果オーライ」じゃねーの? 排除された側が「ぐう聖」的態度を取ることを、(特に大人が)アテにしてるんじゃねーだろうな? ついつい疑問を持ってしまう。

「この話はフィクションだろ。夏炉冬扇は大袈裟だな。」と思われるかもしれないが。

スクールカースト上位層との連帯意識」を強く持った人(特に大人)によって、「一人でいるのは悪いこと。仲間になる努力をしなきゃいけない。」「排除されても、ぐう聖的態度を取ってがんばって強くならなきゃいけない。」という価値観が「隠れたカリキュラム」として作用するかもしれない。とも思った。もしもそうなら、個人的には嫌だな。

 

この単元で、「集団と個人との関係」や「仲間」ということについて、当時の小学校でどのような授業がなされていたのだろう? 教科書準拠の参考書や問題集では、どのような記述がなされていたのだろう? これらが気になってしまう。

フードコート感覚で気軽に入るのにちょうどいいカフェ

フードコート感覚で気軽に入るのにちょうどいいカフェ、それは「LABAR 車尾店」である。「車尾」は、鳥取県米子市の難読地名。「くずも」と読む。スーパーマーケットの中に店舗がある。

「フードコート感覚ではなく、ゆっくり時間を過ごせる店がいい。」という場合は、車尾店以外の店舗をおすすめ。

 

鳥取や島根では、大手のカフェチェーンが進出しなかったからローカルチェーンが生き残る余地が生まれた」という説を、どこかで聞いたことがある。

だが、私はその説に同意できない。

「違う。順序が逆だ。鳥取や島根には、もともと地場コーヒー文化が強い。大手チェーンが進出しなかったのは、田舎だからというのもあるが、ローカルチェーンがすでに人気を持っていたという条件が大きい。」と思っている。

「全国で唯一、スタバの店舗がない鳥取県」と言われていた頃も、私の観測範囲内では次のような意見が結構聞かれていた。

「LABARや澤井珈琲や服部珈琲工房(のローカルチェーン)があるから、無理に進出しなくていいぞ。鳥取県に進出した時点で、スタバは特別な場所ではなくなるぞ。」

(注 「スタバが鳥取県にない」ということが話題になった後に、「すなば珈琲」というチェーンが新しくできた。)

それぞれのチェーンにそれぞれ違った魅力がある。同一チェーン内でも、店舗によってメニューが違うこともある。

更に言うと、個人経営カフェの中にも魅力的な店が結構ある。

これらのチェーンの中で私が一番気に入っているのが、LABARである。

 

今回の記事でとりあげるのは、「LABAR 車尾店」である。私の生活圏内では、この店舗だけが「フードコート的雰囲気」を持ったものになっている。この店舗にはランチメニューはないが、他の店舗ではパスタなどもある。

アレンジコーヒーがいろいろと楽しめる。エスプレッソが特に面白い。コーヒー系が苦手な人も、ジュースやスムージーなど、他のものも楽しめる。テイクアウトもできる。

オリジナルの工房で制作されたスイーツもおいしい。スーパー内ベーカリーのパンもおいしい。

「山陰の地場コーヒー文化、他地域の人にも味わってもらえる機会があったらいいな」と思う。

r.gnavi.co.jp

#ちょうどいいお店

チョコミント続報

家族に盗み食いされないチョコミントアイス - karotousen58のブログで、「今シーズンはまだ、チョコミントフレーバーのお菓子を見かけない」と書いた。しかし、書いた直後にそれらが店に並ぶようになった。

今までのところ、「特別よく売れている」という雰囲気ではなさそうである。ただし、「私の住んでいる地域は、チョコミント不人気ゾーンにある」とは決めつけられない状態にある。

というのは、「今年の夏があまりにも暑すぎる」からである。

一日の最高気温が36度以上となる日が続くと、やはり、「売れ行きのよいスイーツ」が変わってくる。

アイスなら、乳成分の多いものよりも「氷菓」の人気が高くなる。

暑すぎる日が続くと、やはりチョコレート系商品の売れ行きは落ちるようだ。

 

チョコレート系スイーツ、高級すぎる商品だと、私が食べられないケースがでてくる。

理由は、私が貧乏人であるということだけではない。高級すぎる商品だと、「洋酒使用。アルコールに弱い方はご注意ください。」という類の注意書きがあることが多いからだ。

私は下戸である。その種のスイーツを食べるだけでも、気持ち悪くなってしまう。

最近も、ある店で「○○乳業 焼スイーツ 夏限定チョコミント」なる商品を見つけた。「期間限定か。ちょっと買ってみるか。」と思って手に取った。やはり例の注意書きがあった。買えなかった。残念。

 

去年の今頃、鳥取県民自慢のアイス - karotousen58のブログという記事を書いた。

この記事でふれた「大山乳業協同組合」でも、今年、「チョコミント ラクトアイス」が発売となった。

dainyu.or.jp

製品紹介 | 大山乳業農業協同組合

しかし、私の居住地域ではその商品を見かけない。「チョコミント不人気ゾーン疑惑」がある地域だからなのか? 疑惑に関係なく、「暑すぎるから、乳成分の多いアイスよりも氷菓が売れそう」ということなのか? 理由は不明である。

この「チョコミント ラクトアイス」を売っている店、どのくらいあるのだろう? 謎だ。

 

この暑さが続くと、チョコミント系スイーツの売れ行きが心配になってくる。特に、「チョコミント不人気ゾーン疑惑」のある地域だと、「店頭に並ばなくなるかも?」いう不安がある。

チョコミント系スイーツを楽しめる程度の暑さにとどまってほしいものだ。

今週のお題「2018年上半期」

今週のお題「2018年上半期」

 

「考えれば考えるほど、『発達障害』というものがわからなくなってしまう。」

2018年上半期は、これを痛感した。

 

確かに、「発達障害、何それ?」ではなく、「あの子には問題があるけど、障害かもしれないから配慮してあげなきゃ。」というトーンで語られることは増えてきた。

では、その語りが何をもたらしているのか?

「親や支援者が特別に配慮してあげなければならない無力な存在」か「社会機構の円滑な運営を妨げる人達。だから、本人が自覚と自己管理をできるように、親や支援者が配慮してあげなければならない存在。」としてのポジション提供をもたらしたんじゃねーの? と私は疑っている。

 

発達障害に限らず、「障害者」を「他者」化して線引きする動きがある。そして最近、そのやり方が巧妙化しているのでは? という思いが新たに出てきた。

わかりやすい偏見に基づく差別に関しては、やはり批判はなされる。しかし、その批判は、「自らがどんな立ち位置にいるか」を意識しない状態でなされている。

何か世間を騒がせる問題が起こった際、「あの事件に関係のある人も、発達障害みたいだな。」というコメントを見ることが増えたように思う。特定の人を「発達障害者」に仕立て上げることによって他者化し、自分を「私は、そういう問題を起こさない、普通のみんなの仲間」に仕立てる。「発達障害者」とされた人の状況について調べたわけでもなく、その人の意見を聞いたわけでもなく、「普通」の内実について検討したわけでもない。

「あんな事件を起こすなんてけしからん」ではなく、「障害かもしれないから、考えなきゃ」という、一見「寛容」なコメント。実は、いろいろなシカトがなされている。私はそう捉えている。

 

「学校でトラブルを起こす子供」について、ホットエントリーとなったものがある。該当記事が削除されているため、詳細は書けないが。

この記事に対するコメントに、「発達障害と思われるから、病院に連れていけ」的内容のものがたくさんあった。

コメントを見て、私は驚いた。

「いきなり発達障害を持ち出すのか? 『意思疎通を図ることがあまりにも困難』とでもいうのならまだわかるが。相互行為のあり方とか、状況とか、その場に特有の構造的な制約とか、いろいろな条件を吟味して、その吟味の段階で発達障害概念を使うほうがよさそうと判断した場合に適用、という方向ではないのか?」

「障害名を、子供の全人格というふうに捉えているのだろうか? 障害名は、ある場所・ある目的・ある都合によって作り出されたという面もあるのでは?」

「子供の場合、『発達の途上』という軸と『どんな場面で障害として考えられるのか』という軸の両方があるんじゃねーの? 前者を軽視している可能性もあるぞ。」

といった思いが出てきた。

そういえば、発達障害関連本や発達障害啓発マスコミ報道やweb記事でも、始めに「関係性をきちんと作れないのが、発達障害」という見解が出されることがよくあるな。関係性って、他者や場との関係によって変わってくるものでは? 問題を「発達障害とされた個人」にだけ還元していいのか? この思いもある。

「安易に(←ここ重要)発達障害概念を『誰かの全人格』と仕立てて、ディスコミュニケーションの原因とする」よりも前に、「どのような文脈で、誰の、どんな言動が影響しているのかを。その都度、コミュニケーションの場にいる個々人がじっくりと考える」という方向性。これを踏まえる必要があると思った。