karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

早生まれの子供にとっての「年齢」と「選択」

私は2月後半生まれである。小学生時代から、「早生まれ」という形で「年齢」を意識していた。早生まれで得をしたと思ったことは、正直なところ一度もない。

私の親は、早生まれに産んだことを恩に着せた。「早生まれはどうして得なの?」と私は親に何度か訊いた。

「大人になってから、若く見られるから。」という答えしか返ってこなかった。それのどこがいいのか、全然わからなかった。今でもわからない。

早生まれの人に訊いてみたいことがある。だが、その「訊いてみたいこと」について、面と向かって訊きにくいという思いも私の中にある。訊いてみたいこととは、

1.早生まれは不利だと思うか

2.不利だとしたら、いつごろまで不利だと思うか

3.不利だとしたら、どういう点で不利だと思うのか

ということである。

「訊きにくい」と思う理由は、私自身が、私の親のような人から散々言われたからだ。「早生まれは特にきまってるでしょ。いい年して、早生まれの差なんて何くだらないことを言ってんのよ。過去のことをウジウジ言ってもムダでしょ。」という類の言葉を。その結果、「早生まれの事なんて、話題にしても無駄だ」と思うようになったからだ。

一方で、何かの拍子に、「早生まれって、損だよね。」という類の言葉が他の人から発せられる。それを何度か聞いたことがある。

「訊いてみたいこと」に対する私の本音は、次のようになる。

1.不利

2.世間一般では『大人になったら、早生まれによる差なんてなくなる』と思われているようだが、下手すりゃ大人になってもハンディがつきまとうことになる。

3.環境によっては、『早生まれの子供に対して、身近な大人が誘導する選択』がとんでもないハンディを呼び寄せることになる。

 

私の本音について、詳しく書いてみる。

 

教育制度上で対立する主義がある。「年齢主義と課程主義」「履修主義と修得主義」である。

 年齢主義と課程主義 - Wikipedia

日本での高校までの教育は、年齢主義と履修主義を基本として運用されている。そして、一クラス40人近い人数で一斉授業が行われている。学力等の到達度には、当然個人差ができてくる。到達度には、家庭の持つ経済資本や文化資本社会関係資本の影響も大きい。

所謂「奥手の子」で、しかも各種資本の乏しい家庭出身だと、どうしても不利な立場に置かれてしまう。

例え話をあげてみる。

「ボールをつきながら走る」という動作がある。この動作は、「止まってボールをつく」という動作と「走る」という動作をそれぞれ、ある程度こなしてからでなければ困難である。

はっきりと覚えていないのだが、このことは確か、岩波新書『ズポーツとからだ』という本に出ていたと思う。

 スポーツとからだ - 岩波書店

「止まってボールをつく」経験を積んでいない段階で学校での一斉授業でいきなり「ボールをつきながら走る」ことを要求された場合、うまくできないケースが考えられる。

早生まれの子のほうが、「経験を積む以前の状態で、いきなり一斉授業で高度なことを要求される」状態になる危険性が高くなると考えられる。それだけではない。学年が上がるにつれて要求されるレベルが高くなる。そして、他の子に輪をかけてどんどん授業から取り残されていく。

合唱コンクールとか団体スポーツとかいった類の集団行動」が絡んできた場合、さらに悲惨なことがありうる。「壊滅的にできないこと」が「集団内でのお荷物」と認識されることである。「みんなの足を引っ張っておきながら、自分一人だけがみんなの頑張りにただ乗りする極悪人」という認識を本人が持ってしまう、そういう危険性も考えられる。

年齢主義と履修主義のもとでは、「止まってボールをつく練習」という発想を持つことも困難かもしれない。

 

「うまくできない」ことを、身近な大人がどのように捉えるか?

「できるか/できないか」「他の子に比べて勝っているか/劣っているか」「表面的な出来栄えが、周囲の人からどのような評価を引き出すか」に強く関心を示す。

というケースが考えられる。その結果、子供までが、大人による解釈を内面化してしまうという危険性も考えられる。

 

「早生まれの子は、小学校卒業までは同級生との競争で不利になる。勝てたことや選手に選ばれたことで、人は自信を持つ。中学以降ではそれらの差はなくなるから、中学以降で自信を持たせればいいだけのこと。」という見解を、私は過去にいろいろな人から聞かされた。

しかし、私は思う。「もっと怖いことを見逃しているぞ」と。

もっと怖いこと、それは、「身近な大人が、本人よりも先に諦める→それらのことに関心を持つことすら、禁止する。実際に行動に出るよりも、不戦敗を選ぶように仕向ける→それらを積み重ねて、本人までが、どうせ、できっこないと決めつけて、最初から不戦敗選択を常習化するようになる」ことである。

しかも、それらは「キレイな言葉」を使って語られる。「あくせくしなくても、いいじゃないの」とか。「できない子はダメな子なんて言わない、あたたかい目で見ている私たち、いい人でしょ。」とでも言わんばかりに。

実際には、「不戦敗でも、『他の人の頑張りにただ乗りしてやがる』と非難されたらいけない。だから、同時進行で『上手な人から可愛がられる』努力をしろ。」というメッセージも同時に送られることが多いのだが。

「条件の不平等から、結果が予想できる。だから、無駄な努力なんかするな。」と、身近な大人が主張する。しかし、「負けた場合の損失」や「敗者復活戦」や「セーフティネットの有無」について彼(女)らが検討したのか否か? 疑問が残る。本人が「たいした損失ではない」と思っていたとしても、「取り返しのつかない大ごと」と騒ぎ立てる場合もよくある。

 

早生まれの絡んだ「年齢」と「『どうせ、できっこない』と決めつけて、最初から不戦敗を選択」、これによっていろいろなものを失ってしまった。私はそう思っている。次のような発想を、早いうちから持っていればよかったかもしれない。

 ・現段階ではうまくできない。必要とあらば、他の人と違った方法を工夫してみるのもいいかもしれない。上達するプロセスも、他の人とは違うかもしれない。その人独自の方法やプロセスは、他の人のそれらと比べれば見栄えがしないかもしれない。だけど、工夫することやプロセスを楽しめるのならそれでいい。自分に合ったやり方を工夫していくことは大切な事。

・「負けた場合の損失」や「敗者復活戦」や「セーフティネットの有無」について考えることも、必要かもしれない。

・(早生まれとか遅生まれとかいった観点を外れて、)「ロールモデルのない状態で、試行錯誤しながらいろいろな行動をしている」人も、たぶんいる。その人や行動からも、何かを考えることは可能。そして、楽しいかもしれない。

 

特別お題「『選択』と『年齢』」

Sponsored by SK-II

1970年代の夏、しょっちゅう聞かされた歌

今週のお題「私の『夏うた』」

 

私の好きな音楽ジャンルはイージーリスニングである。このジャンルは「うた」としてのカウントは難しそうだ。

こういう私の知っている「うた」は、とても少ない。だからこの記事では「夏うた」を、「夏によく流れる(流れた)うた」と解釈して書いた。

そして、お題を見て最初に浮かんだ「夏うた」は、『新しい朝が来た』である。

『新しい朝が来た』よりも『ラジオ体操のうた』というほうが、わかりやすいかもしれない。


ラジオ体操のうた

 

私は1971年に小学校へ入学した。私の小学生時代の夏休みには、毎日ラジオ体操参加が義務付けられていた(雨天の日を除く)。当時からずっと、「ラジオ体操の持つ教育的意義」が私にはわからなかった。「この運動は、どういう理由で身体のどこの部分にどのような効果をもたらすのか、わからないから教えてください。」などと、夏休み宿題の日記に書いた。私はそういう嫌なガキだった。今でもそうである。

当時は、小学校一学期の最終日に「ラジオ体操の出席カード」なるものを渡された。そのカードには何故か、簡易保険の宣伝めいた文章も書かれていた。子供心にも「簡易保険とラジオ体操が何故関係あるんだ?」と思った。

当時、私の家のすぐ近くに公園があった。そこでラジオ体操をやらされていた。20年近く前に引っ越しをした。そのときまで、(実家にいる場合)夏休みの時期は、雨天の日以外「ラジオ体操」の曲で私は起こされていた。

そして、大人になってからは、「『同じ時間帯に、同じ場に集合させられ、同じ運動を行わせ、一体感を持たせる』というのは、全体主義とか洗脳とかいったものを連想するぞ」なんてことを考えるようになってしまった。

その後、1998年に『素晴らしきラジオ体操』という本が出版された。この本を初めて書店で見つけたとき、立ち読みした。すぐに購入を決めた。

 

素晴らしきラジオ体操 (草思社文庫)

素晴らしきラジオ体操 (草思社文庫)

 

 昔、ケータイの着メロを『新しい朝が来た』にしたことがある。だが、勤務先で「ふざけた着メロはやめろ」と言われた。それ故、この着メロは仕事用では使えなくなった。

 

この記事を書く前に、「ラジオ体操 夏休み」等のワードで検索してみた。今では、「夏休みのラジオ体操事情」はだいぶ変わっているようだ。

20年前、職場で同僚が「今ではラジオ体操って、平日だけなんだな。過保護だ。」と話した。そのとき私は、「どうせなら、平日だけとかいった中途半端なことをしなくて自由参加にすればいいのに」と思った。

今では、やらない小学校もあったり、あっても日数が限られていたり(例 夏休み最後の一週間だけ)するらしい。

昔ほど熱心にやらなくなった背景としては、騒音とか防犯上の問題があるらしい。

そうなのか、『新しい朝が来た』とか『ラジオ体操のうた』とか言っても、お若い人には通じないのかもしれないな。今後気をつけよう。

今週のお題「テスト」

今週のお題「テスト」

今回は、高3の初夏(1982年)に受けた「河合塾の模試」関連思い出話。

 

私は高校卒業まで鳥取県で暮らしていた。高校時代は地元の「自称進学校」に通っていた。

この自称進学校では、「一クラスまるまる勉強家」的な方針で勉強をさせていた。「自分独自のやり方で勉強を進めていく」ことは、ほとんどの生徒に許されていなかった。また、その当時鳥取県には予備校がなかった。現役で進学しなかった人は、高校に設置された「専攻科」に進むケースがほとんどだった。

こんな調子だから、校外模試については「学校側が事前に申し込んだ集団受験」以外、ほとんど情報が入らなかった。

もっとも、この高校では、夏休みや冬休みに「補習」なるものを押し付けていた。タテマエは「自主参加」なのだが、実際には拒むことは困難だった。3年生になると、平日放課後も補習漬けだった。

こんな状態では、校外模試に関する情報を入手したとしても、受験する余裕なんかない。

当時周りにいた大人も、次のような態度だった。「受験産業は、受験テクニックに走った点取り勉強をやらせる。専攻科は、高校の先生がきちんと面倒を見る、いんちき点取り勉強ではない良い制度。」という態度。

これって、「学校の方針と相性が悪い生徒」にとっては抜け道がない制度に思えるのだが。

 

そんなある日、ある友人が私を、河合塾の模試に誘ってくれた。「岡山であるけど、一緒に受けないか?」と。

当時、その友人も私も「学校側の方針と自分との相性が悪い」という思いをずっと抱えていた。「押し付けられる補習よりもおもしろそうだ。岡山って、行く機会がないし。」と思った私は、その話にのった。

模試の申込用紙に必要事項を記入する、特急列車に乗る、岡山のまちを歩く、全部新鮮な体験だった。いい気分転換にもなった。高校卒業までずっと、学校と家との往復以外のことをする機会に乏しかったから。

 

高校卒業までずっと、私にとって岡山は「大都会」だった。今では「大都会岡山」とネットでよくネタにされているようだが、私にとっては文字通りの「大都会」だった。

冬に「雪がない、晴れている」、岡山県営球場で阪神主催のプロ野球公式戦が行われる(昭和40~50年代の話)、気候も食文化も大きく違う、新幹線も走っている。中国山地を超えるだけで大きく変わる岡山。小学生時代の私には「大都会」に思えた。

そして、この模試を受けたときにも「大都会」を感じた。

会場では、模試の問題や解答以外にも、いろいろなパンフレットをもらった。パンフレットには、合格者の声とか講師による激励文とか講習会の案内とか出ていた。

「現役生が大手予備校の模試を受けていたことが、あたりまえのように書かれている」という事実に、私も友人も驚いた。模試が終わって本屋に寄ったら、その本屋がとても大きい。中に入ったら、「鳥取の本屋にはなさそうだな」と思った本もたくさんあった。まちの様子もまるっきり違っていた。

「学校の方針と相性が悪くても、いろいろと抜け道がありそうだな。都会が羨ましい。鳥取では、河合塾の模試があるということすら知られていないというのに。」と、友人も私も言った。

と同時に、「鳥取生まれというのもハンディだ」と思って勉強するしかないなと思った。「県外の大学に合格したら、こういう本屋にも行けるんだな。」とも思った。

 

この模試の結果は、友人も私も「C判定」だった。「C判定」は、私の出身校教員なら「志望校の再検討を要する」と意訳する判定である。しかし、友人も私もこの判定にへこむ余裕はなかった。「河合塾の模試を受けられるということじたいが、贅沢なことだ」という思いでいっぱいだったから。

入試本番では、友人も私も第一志望校に合格した。

合格したとき私が最初に思ったのは、「友人が模試にさそってくれたことが、一番大きかったな。」だった。友人も、「夏炉冬扇なら、河合塾の模試を受けることを、抜け駆けとか身の程知らずとか言わないと思った。だからさそった。自分も、この模試が大きかったと思う。」と言ってくれた。

 

鳥取でも河合塾や代々木ゼミの模試が個人で受験できるようになったのは、1987年頃である(駿台模試はもう少し後)。帰省したとき地元の書店に入ったら、それらの申込書も学参売り場に置いてあった。「岡山までいかなくても受験できるようになったんだな。後は高校側の態度だ。」と思った。

 今はネットの時代。模試の申し込み方法も当時と違う。模試に関する情報も入手しやすくなっている。ただ、少子化の影響だろうか? 大手予備校主催模試の試験会場は鳥取県内にはない。学校や塾経由の受験が可能になっているのだろうか? 代々木ゼミは全国模擬試験を廃止し、特定大学志願者向け模試のみとなった。鳥取県の「高校設置の専攻科」制度は、5年ほど前に廃止された。

「大都会岡山」とか「大手予備校の模試を受験するということじたいが、貴重な経験」という思いは、当時だから持てたんだなと思う。

てんかん・思春期・偏見

 

インスリン注射「トイレで打って」 理解進まぬ教育現場:朝日新聞デジタル

"「隠れるようにして注射はしたくない」と思い、学校での注射を黙ってやめて"が重い。私はてんかん患者。周囲がてんかんに偏見を持ち「学校では服薬や通院について嘘を言え」と命令→患児が混乱し服薬拒否 もよくある

2017/06/27 00:45

" 生徒は「隠れるようにして注射はしたくない」と思い、学校での注射を黙ってやめてしまった。"の部分は、重要な問題提起だと私は思う。「思春期のころ、周りの人が持つ偏見に振り回されて混乱→服薬拒否という行動に出てしまった経験のある、てんかん患者」を連想してしまったからだ。

私が勝手に想像するに、この生徒は身近な人から、「注射を黙ってやめたこと」を咎められただろうと思う。しかし、「隠れるようにして注射はしたくない」の思いを周りの人が真摯に受け止めた状態で、「注射をやめたことについてふれられた」のか否か。私はそこが気になる。

この記事では「てんかん」の場合について書く。

 

てんかんとわかったとき、親をはじめとする身近な人が、偏見をもった行動をとった。思春期に、たぶん混乱と反抗の混ざった状態で服薬拒否という行動に出てしまった。大人になった今では後悔している。他の患者さんは、私の轍を踏まないでほしい。」といったことを語る成人てんかん患者は、実は少なからず存在する。リアルでもネットでも私は多く見聞きした。1980年代から1990年代半ば頃には、雑誌の読者ページへの投稿もあった。

しかし、それらの発言では、「偏見を持っていた側がその内容について再検討し、無知や誤解を認めて正しい知識を得た。」といった類の記述はほとんど見られなかった。

てんかん発作が起こったら周りも迷惑するだろ。服薬なんて簡単にできることだし。それをやらないなんて患者のわがままでしかない。親を悲しませるな。」と思われるかたも多いだろう。5年ほど前に、てんかん患者による自動車等の運転事故について、マスコミで大きく取り上げられたことがある。そのときネット上で見られた、医療関係者や親御さんの意見も、そのトーンのものが多数だった。

「服薬なんて簡単にできること」、それは確かに正論である。しかし、私は服薬拒否の手記等を読んで次のことを思ったのだ。

・服薬拒否という行為の背景には、周りの人(特に大人)による偏見と、偏見に対して本人が混乱したこと、思春期という時期の難しさが隠れている。

・周りの人(特に大人)が、偏見やそれが与える影響について再考することがほとんどない。その状態で「患者のわがまま」と叱咤するだけでは、事態は好転しない。

 

  成人てんかん患者による発言は、次のようなものがほとんどだった。

「病名や薬のことは、学校では隠せ。おまえのはてんかんなんて恥ずかしい病名ではない。周りの気を引くための、心因性てんかん性発作( てんかん患者と家族 - karotousen58のブログ 参照)だ。」と言われると同時に、「発作は恥ずかしいから薬を飲め」とも言われ続ける。

本人は、「身近な人(特に親)が偏見を持っている」という事実にショックを受ける。ショックを受けつつも、「何故、この病気にかこつけてこのようなことを言われなければならないのか、納得がいかない」という思いも同時に抱える。

学校に病名を隠すことで、学校側から不審に思われる。病名を明かした場合は、身近な人(特に親)から、「どうしてあんな病名を言うのだ。ダメだと言ってただろ。」と責められる。本人も、いろいろな思いを持ち混乱する。

「悪く言われることについて、あきらめるしか方法がなさそうだな」という思い、「発作があったからといって、自分という人間が違う人間になるわけではない。発作自体も、ただ単に『人目を引く症状』というだけのこと。それなのに、どうして悪く言われなきゃならないんだ。」という思い、「患者に対しては『人格を高めろ』と言いながら、自分たちは偏見について反省すらしない。どういうつもりなんだ。」という思い、等。

医療関係者や身近な大人に相談しても、混乱状態を受け止める人なんか見つからない。「薬を飲みさえすればいいんだ。ごちゃごちゃ面倒なことを言うな。」でおしまいにされる。

(大人になってから思うに)混乱と反抗とで頭の中がいっぱいになる。そして服薬拒否という行動に出てしまった。

 

思春期の場合、更に次のような事情も加わる。

1.てんかん治療の基本方針は服薬である。抗てんかん剤は種類が多い。病状に応じて薬剤の種類や量を調整しながら治療するのだが、それらが合わない状態だと発作の回数が増える場合もある。副作用で悩むこともある。適切な種類や量が決まるまでは、ある程度時間がかかる。

「適切な種類と量が決まるまでの試行錯誤」の時期と思春期とが重なるケースは多い。

2.「進路模索や決定」の必要がでてくる。進路によっては、あきらめることが必要となるケースも出てくる。特に、野外実習系分野への進学や就職を検討している場合、発作コントロールや薬剤がうまく決まっていなるか否かで状況がだいぶ変わる。

また、田舎に住んでいる人の場合は「自動車運転免許」の問題が出てくる。免許を持たない理由を「病名を伏せて」説明し納得してもらうのは、正直な所難しい(私も、現段階で難儀している)。

 

このように、思春期のてんかん患者がいろいろな悩みを抱えていたとしても、何ら不思議はない。

しかし、「偏見が嫌だ」とか「進路や学校との関係や治療のことで解決の糸口がつかめない」とか周りの人に話しても、それらの「問題」は無効化されてしまうことが多い(私の経験や他の患者の証言から考えるに)。

偏見でへこんでしまうのは「本人の気にしすぎ、心が弱い」、進路や学校との関係で悩むのは「他の人も同じ」、治療については「ごちゃごちゃ考えるな。医者や親の言うことを聞きさえすればよい。お前は心が弱い。」で片づけられる。

つまり、思春期のてんかん患者が、周りから「二重の排除」を受けることはじゅうぶんありうるということになる。

「周りからの偏見等」という排除と、「気にしすぎ、心が弱い」といった類の表現で「自分の抱えている『問題』を周囲が否認する」という排除の。

 

てんかん患者の身近にいる人(特に親御さん)にお願いします。「二重の排除」に気を付けてほしいです。

身近な人が「偏見をうのみにしている」のか、「偏見を持っていた自分と向き合い、見つめなおし、そこに何があるのかじっくりと考えている」のか、患者本人には結構伝わっていると思います。

「病気そのものよりも、『この病名なんか嫌』という周りの態度が嫌だった」という声、私は他のてんかん患者からもよく聞きました。

ただ、「高校卒業後、他の人に病名をカミングアウトすることについては慎重に。それについてはいろいろな情報を得て考えたほうがよい。」ということも同時に伝えたほうがいいと思います。「てんかんに関する誤解や偏見がまかり通っている場で、被る不利益」というものは、やはりありますから。矛盾しているようで難しい内容ですが。

2016年7月26日のあの事件と私

今週のお題「私の沼」

 

「2016年7月26日のあの事件」とは、「障害者施設での殺人事件」のことである。

事件そのものもショックだった。そして、その後のマスコミ報道や各種団体のコメントも、私にとって衝撃が大きかった。

「その後のマスコミ報道や各種団体のコメント」に対して、私は疑問を持っている。「その疑問について考えること」が、現在、「私の沼」となっている。

 

その後のマスコミ報道で、「被害者が実名を出さないのは優生思想からきているもの」「障害者も声をあげる必要がある」といった類のコメントが出された。障害者関連団体、障害者の家族、「全ての子供を普通学級に入れる」類の運動をしている団体(やそれに賛同する人達)等から。

これらのコメントに最初に接したとき、正直、「気持ち悪い」と思った。「過去になされた障害者運動において、『障害者の声』を、障害者本人以外の人達の思惑に沿うように『政治的利用』してきた」ことをシカトする気か? シカトされた状態で「声をあげる」なんて、危ねーぞ。

と私は思ったのだ。

「この『政治的利用』をしてきたことに対して、再考する態度を持たない」状態の人達に対して「障害者側が声をあげた」場合、その「障害者の声」はどう扱われるだろう?

・「障害者本人以外の人達の思惑」に沿わない声は否認され、彼(女)らに都合のよい声だけが採用される。

・「意見が否認される」だけでは終わらず、「都合のよい声をあげた障害者を見習うべきだ。それができないようではいけない。」という、二重の排除がなされる。

・「障害者本人以外の人にとって、都合のよい声」を誘導すべく、様々な統制を取るケースもありうる。

といったことが私の頭に浮かんでくる。

 

「声をあげる必要がある」と主張した団体や人々に対して、「障害がもたらす問題をサポートするものとしての団体や人々」像が前提として組み込まれている場合もよくある。

しかし、その前提には危ないものがある。本当は、「支援団体や支援者」と障害者との関係は、「違いを認識」や「方針をめぐって対立」等の葛藤や衝突や軋轢等の複雑な要素も入り込みうる関係である。その複雑な要素を「なかったこと」にして、「障害者の声を政治的利用」される危険性が隠れている。

 

「社会に『期待される障害者像』がある。それに沿うべく、障害者には圧力がかかる。障害をめぐる問題は、身近にいる市民にとっての問題で市民が共感できるもの以外は認められない。それをふまえずに匿名はダメなんて言わないでほしい。」といった声をあげることは、「必要のある声」としてカウントがなされるのだろうか? 疑問がある。

 

非難されそうだが敢えて書く。

 過去の障害者運動では、障害者団体や専門家団体や「すべての子供を普通学級に入れる」類の運動をしている人達によって、彼(女)らにとって「都合の悪い障害者とそうでない障害者を分断」することがなされた。そして、その分断はしばしばえげつない方法でなされた。

この事件の被告人が表明した「差別的な障害者観」は、「えげつない方法でなされた分断」とも近いと私は思っている。

 

今回の記事について考えている最中、NHK発達障害関連の番組が放送された。正直、この番組にも「障害者の声を政治的利用」臭を感じた。これについてもいろいろと考えて発表してみたい。うまくまとまらない状態にあるが。

沼は更に深くなった。

「おやつ」のまわりにあったもの

今週のお題「おやつ」

 

このお題を見て、私が小学生だった頃のおやつも思い出した。

当時の私のおやつは、ほとんどが近所の駄菓子屋で買ったものだった。駄菓子屋の店の様子や当時買っていたお菓子が、私の頭に浮かんできた。

 

大袈裟と思われるかもしれないが、書いてみる。

今振り返ってみて、「この『駄菓子屋』や『お菓子』のまわりには、『学校関係や家族親戚以外のいろいろな人(特に大人)と私との、ある種のつながり』があったのでは? そしてそのつながりは、学校文化と壊滅的に相性が悪かった私にとって貴重なものだったのでは?」という思いが浮かんできた。

 

駄菓子屋の人は、みんないい人だったと思う。「店に来る子が、学校文化的序列でどういうポジションにあるか」ということに関心のない人なのでは? と子供心にも思っていた。当時の私の身近には、「学校文化的序列(今では、スクールカーストと呼ばれているらしい)に異様に関心を持ち、序列の下位にいる子は容赦なく貶す」タイプの大人がいた。私はスクールカースト最下層にいる子供だった。

店の人は、「スクールカースト上ポジションには関心はない。店に来る子はみんなかわいい。」という態度で接してくださったのだと思う。だから安心できた。「大人の全員が全員、私を貶すというわけではない。安心できる大人もいる。」という思いが、私の心のどこかにできていたのだと思う。

店に行く→お菓子を選んで買う→家に帰る という行動は、時間にしてみればごく僅かだ。しかし、この僅かな時間は、とても貴重な時間だったと思う。この駄菓子屋は、当時の私にとっての貴重な居場所だった。

 

私が義務教育を受けていたのは1970年代だ。当時、「パッケージやおまけについていたカードなどで、昔話や伝承遊びや豆知識や名画などが紹介されていたお菓子」が結構あった。それらの紹介も、私は楽しんでいた。「それらから得た知識や感性は、結構大きなものかもしれない」と、私は思っている。

「知的で役に立つことを、無知な子供に教えてあげよう」という上から目線的なものを、私はそれらから感じなかった。

私の勝手な想像だが、関連を持っていた人が、次のような思いを持っていたのでは? と思えてしまう。

・知的好奇心や芸術などを味わうこと、そしてそれらを紹介することに対する、ワクワク感

・「学校から少し離れたタイプの学びもあるよ。それらの学びも楽しいかもしれないよ。」という思い

・「もしもそれらの紹介を楽しんでもらえたら、紹介した大人もうれしいよ。」という思い

「お菓子を手にとって(食べ物としても紹介されたものとしても)味わう」ということで、お菓子に関連していた人と私とはつながっていたのでは? と私は思う。

 

「店でお菓子を買って食べる」ただそれだけの行為じゃないか? と思われるかもしれない。しかし、たったそれだけの行為の中で、私の中の思考や感情はいろいろと働いていた。それは私にとっての事実だ。そしてそれは私一人だけで得たものではない。

「駄菓子屋の人」や「全然想像のつかない、見知らぬ大人」とのつながりから得たものだと思う。「学校と家以外の世界」を持てたことは、(特に当時の)私にとって大きかった。

今週のお題「おやつ」

今週のお題「おやつ」

 

「おやつ」という言葉を聞くと、私の頭には最初に「犬用おやつ」が浮かんでしまう。犬のしつけをする際に「犬用おやつ」を使ったら、しつけ終了後でもおやつをやめるわけにはいかなくなった。

 

物心付いたときから、うちにはずっと犬がいた。昭和時代に飼っていたヨーキーと今飼っている中型犬以外は、外飼いだった。昭和時代に飼っていたヨーキーは、きちんとしつけてある状態でもらった犬だった。歴代の外飼い犬には、特別なしつけをしなくても特にトラブルはなかった。

しかし、今飼っている犬は違った。うちでしつけをする必要がでてきた。新聞の「譲りますコーナー」にでていた犬をもらうことになったのだが、母が室内飼いを強く希望したからだ。2005年、ヤツはうちにやって来た。

昭和時代は、犬用おやつの種類は今ほど多くなかった。犬用スティックチーズ、犬用ビーフジャーキー、犬用ガム程度だった。パッケージのデザインも地味だった。うちの歴代犬に対しては、「たまに、飼い主の気まぐれで買ったおやつをやる」程度だった。おやつを買うときも、特別な思いをもつことはほとんどなかった。

 

今飼っている犬のしつけをするとき、「犬用おやつ」を使うことを考えた。

そこで、ホームセンターに行ったのだが吃驚。犬用おやつの種類が豊富になっていた。先代犬の頃とは大違い。

例えば、犬用チーズにしてもスティックチーズだけではなかった。サイコロ型にカットしたチーズ、野菜ミックスタイプのチーズ、チキン味のチーズをプレーンなチーズで包んだタイプのもの、いろいろあった。「カマンベールとチェダー使用」と書かれているものもあった。

ジャーキーの類も種類が豊富になっていた。ビーフ、ささみ、砂肝などいろいろあった。形も、渦巻きとかツイストとかサイコロとかいろいろとあった。

ひめたらとかかわはぎとかいったおやつも新たに出ていた。もっとも、これらのおやつは、ここ2~3年で販売終了となったケースが多いが。

他にも、かつおジャーキー、アキレス、レバー、クッキー、ボーロ、ソーセージなどいろいろあった。

パッケージも派手になっていた。人間用のおやつと間違えそうなパッケージのものまであった。

売り場やおやつの実物を見た母が、大はしゃぎ。「いろいろと買ってみたい。いろいろなおやつをやりたい。」と。

そして母は、一日に2回おやつを、毎日やるようになった。こうなると引っ込みがつかない。

 

ドッグフードとおやつとでは、犬の反応が大違いである。しっぽを派手に振って、大袈裟なお手をする。

うちの犬は、「チーズが一番好き、その次がジャーキーなど肉系統、海産物系も好き」といったところみたいだ。

犬用おやつを買うときは、「お買い物上手コーナー」にあるものを狙う。残念なことに、チーズの類はこのコーナーではあまり見かけない。高級チーズをこのコーナーで見つけたときは、迷いに迷って結局買った。とんでもない勢いで、ヤツはそれを食べた。それ以降、ヤツは高級チーズと縁がない。

貧乏な飼い主でごめん。