karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

いじめと裏社会性 2

 

岩手の中学生いじめ自殺問題

横道に逸れるブコメを。6月29日の生徒による全文が気になる。「感謝していますといった類の内容」プラス「死をほのめかす内容」の文章で、過去にあったいじめ自殺を私は連想してしまう。後で拙ブログに書くかも。

2015/07/11 02:33

 

岩手中2自殺:生活ノートに記された気持ち…担任報告せず - 毎日新聞

苛め問題の改善像を学校側がどう捉えていたか?もしも、苛められた側に苛めを否認させる→「仲良くできるように成長を」「辛いことでも我慢できる力を」と問題すり替え が改善像なら、この対策は苛める側に好都合。

2015/07/10 01:10

   

 「悔しかったらやり返せ。そうしないのは、いじめ問題を解決する気がない証拠。」「いじめられたなんて大袈裟。深刻にならずに笑顔でいろ。」などという見解が、いじめ問題に関連して述べられることが多々ある。この見解には疑問がある。

いじめた側を糾弾しようにも、いじめの立証は困難である(特にメンタル系のいじめ)。それ故、公的な機関の介入にも限界があると考えられる。

いじめ問題に対して、もしも身近な大人が介入するとしたら、いじめる側への介入といじめられる側への介入とどちらがやりやすい? と聞かれたらどんな答えが返るか? おそらく後者だろう。

後者への介入にも、「学校内でのいじめ」のまわりにあるもの 1 - karotousen58のブログで述べた2タイプがあると思う。

いじめられた子供にたいして、身近な大人がとる態度として、次のものを考えてみる。

1.いじめを受けたからといって、へこみ続ける必要はない。いじめた人による自分勝手な解釈に、わざわざ自分を合わせる必要もない。跳ね返して生きていく強さを持つ方法を、考えていこう。

2.いじめられたというけれど、それは単なるからかいだ。ジョークのわからない暗い子供ではいけない。つまらないことに目くじらを立てるな。笑ってやりすごせばいいだけのことだろ。

 

1と2とは大違いだと私は思う。

1では、「自らの存在の、大切な部分を否定された」という思いに対して、身近な大人も向き合おうとする態度が感じられる。向き合うことによって、いじめにまつわる排除や差別などの問題性を考えることもできる。

2では、「自らの存在の、大切な部分を否定された」という思いを感じ取ろうという方向性が感じられない。「単なるからかい」の中に「排除や差別などの問題性」が隠されている場合でも、それらについては無視されてしまう。それだけではない。いじめられた側が応酬や反撃をしようものなら、大人げないとか考えすぎだとか大袈裟だとか精神的に弱すぎるとか言って、更にからかいの対象としていく。いじめにまつわる排除や差別などの問題性を考えることは、なされないままである。

いじめと裏社会性 1 - karotousen58のブログで述べた「最も安直な対策」の陰には、2のタイプの介入が隠れていると思う。

介入は「教育的指導」という大義名分をまとってなされる。

こうなると、いじめられた子供は、

地位や権力が非対称な関係の、圧倒的下位にある状態で、徹底的な自己否定を反復継続する・深刻な様子を見せないで笑顔で楽しそうにする

ことを余儀なくされる。

 

2のタイプの介入では、いじめられた子供の「誇りや尊厳」は守られない。いじめた側にも加担することにもなり、いじめられた子の尊厳は大人によってもむしりとられる。

これは、いじめる側にとっても好都合。「いじめられて当たり前」というお墨付きを、地位や権力を持つ者から得た・いじめられている本人も嫌がっていないということになるから。こうなるといじめは、「正義感に裏打ちされている」ものとなる。

 

徹底的な自己否定を反復継続していくと、自分自身を必要以上に厳しく見てしまうことになる。

この状態でいじめを受けると、侮辱などをされた瞬間に自分自身を見つめてしまうようになる。そして自分の弱さやふがいなさを痛感してうなだれる。こうなるといじめる側は更に増長する。その反応を見て周りの子供までもが同調することもある。こうしていじめは止まらなくなる。

 

ここまで書いて、謝罪は本当に難しい 4 - karotousen58のブログで書いた「虚偽自白の誘導」を思い出した。

「最も安直な対策」と「虚偽自白の誘導」は似ていると思う。

『心はなぜ不自由なのか』(浜田寿美男 著 PHP新書)という本の、私なりの解釈は、次のようになっている。

 

・冤罪が認められた事件でなされた自白の多くが、いわゆる拷問なしで引き出されたものである。取調室の中で築かれていく人間関係が、大きな意味を持ってくるということである。

・取り調べの場では、事件とは直接関係のないこと(例えば、過去の出来事や身近な人との関係のことなど)まで話題にされ、責任を追及されたり罪悪感を刺激されたりする。そしてこれが何度も繰り返される。

・「時間的な展望が持てない」という要因も大きい。「いついつまでがんばったら、解決する」とわかっている場合とそうでない場合では、影響力が大きく異なる。

・自白に落ちてしまってからは、「虚偽自白に基づいた犯行ストーリーをどんどん語っていく」という事態になってしまう。「実際にはやっていないのだから、犯行の筋書きなんか言えません」などと語ることは困難である。

 なぜならば、「言えません」と主張することは、もう一度否認に戻ることすなわちそれまでの辛い状態に戻るということだから。こうして、「実際には犯行をやっていないにもかかわらず、自発的に(←ここ重要)犯行ストーリーに自分自身を合わせてしまうようになってしまう」事態が生まれる。

「話せば話すほど、自分がどんどん犯人らしくなっていくように思えた。」という言葉は、虚偽自白をした人からよく語られる。

→冤罪や虚偽自白とまではいかなくても、地位や権力が圧倒的に上位にある人から執拗に、「人格否定や、言動についてを否定される」ことがなされた場合も似たようなことが起こりうる。「そうさ、自分は人格が異常でまともな言動のとれない極悪人なのさ」と自己規定をしてしまう。そして、その後何か諍いが起こった場合にまで、「自分は極悪人なのだから、自分が悪いのだ」という自己規定を強化してしまう。

・人間は、他者からの語りかけや交わりからは自由にはなれない。

 取り調べの場において、生殺与奪の権限は被疑者自身にはなく、取調官が握っている。取調官は通常二人で、一人は厳しく迫り、もう一人がやさしくフォローするという役割分担で、責めるだけではなく支え、アドバイスをしてくれるので、そのアメとムチで被疑者は次第にその場の関係性に迎合していくようになる。

 冤罪事件で無実の人が追及を受けるときも、被疑者は取調官を敵だと思って突き放してみることができれば自白に落とされないのだがそれができない。相手が悪意で自分を陥れようとしているのではないとして、まじめに向き合えば向き合うほど、相手の語りかけからは自由になれない。

 

こうして「虚偽自白や極悪人という自己規定」がなされるのだが、これらは、本人が本当に納得して得たものではない。「否認に戻ることもまた、辛い状態に戻ること」だからなされたものである。

つまり、謝罪は本当に難しい 3 - karotousen58のブログで書いた、「本人の心の中にある否定的な感情に蓋がされた」状態で、「虚偽自白や極悪人という自己規定」がなされることになる。

 

人は自分の存在を、自分が関係している何かを通じて自覚していくものかもしれない。

「自分自身を必要以上に厳しく見つめることによって心の動揺を誘う」状態で、自分自身を強くしようとしても、結局行き詰ってしまう。何故なら、いじめと裏社会性 1 - karotousen58のブログで述べた「裏社会性」を学ぶ機会が奪われた状態だから。このことについて、次回書く。