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karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

発達障害者と「暗黙の了解」との間

 

 

 

発達障害の子への障害告知とセルフアウェアネス~自分の強みを知っている事の大切さ~ - ひろげていこう 発達障害のWA!~「困ってる子」という視点からの支援~

「告知」からずれたコメントを。暗黙の了解が理解困難、「太ってますね」発言は、悪気がなくて正直なだけ→代わりの行動を の間には「何か」有。その「何か」が、現場では非発達障害者サイドで語られている。疑問有

2016/02/25 02:12

「何か」の中身を、夏炉冬扇による語りとして書いてみる。今週のお題「憧れの人」 - karotousen58のブログと重なる部分もあるが。

 

暗黙の社会のルールに気づくのが苦手なアスペルガーの子は、太ってる人に「太ってますね」なんて言っちゃいますよね。でもこれ悪気がなくて、正直なだけなんですよね。悪気がないからと言って人を傷つけていいわけではありません。でも、「正直である事」は否定すべき・修正すべき行いですか?違いますよね。だから「そんな事言っちゃいけません」では正直である事を否定してしまいアスペルガーの子にとっては問題解決にはならないんですよね。そんな時に必要なのは「代わり」の行動を教えてあげる事なんです。

息子の学校では、「自分以外の人達の考え方を知って、自分を見つめ、自分を知る」というセルフアウェアネスという方法と「自分と他者の立場を知った上で、どう行動すれば自分も周りの人達も気持良く過ごせるか」という、問題解決の為のコーピングスキルという事を息子の社会性の向上を目指すプログラムとして取り入れています。

 

 発達障害系の人の場合、「太ってますね」という発言を「悪意の有無」という観点以外からも考える必要があると私は思う。次のようなケースが本当にあるから。

1.今週のお題「憧れの人」 - karotousen58のブログで述べた、相撲好きな子の事例。(「太っている」という表現に、好意的な価値判断が隠れている。)

2.これは私の本心。「『太っていることや、脚が短いことや、女性の肌が黒っぽいことなどは、美醜の観点からは好ましくないことだ』という価値判断が、正しいことになっている」ということが、感覚的に腑に落ちない。「人の身体は千差万別。それらは身体の特徴のうちの一つであるというだけで、それを超えているものでもそれ未満でもない。それに対して、個人的に美醜の基準を持つというのならわかる。しかし、どうして、世間一般の基準などというものまでが押し付けられるのかわからない。「単なる、特徴のうちの一つ」に対して、「世間一般的に、好ましいとか好ましくない」という価値判断をわざわざくっつけることのほうが、失礼だと思う。

 

 ブックマーク元の記事では、「息子を否定していない」「自分以外の人達の考え方を知って」「ありのままの自分」という記述が出てくる。

ここで、私は疑問を持ってしまうのだ。「太っていることは、好ましくないことである」という価値観を外れたものは、「自分以外の人達の考え方」「ありのままの自分」のうちのひとつとしてカウントされうるのだろうか? ひょっとしたら、支援者的ポジションの人は、「その価値観を外れた考えなんて、ありえないし許されない。」とでもお思いなのではなかろうか? という疑問を。

 

「『太ってますね』と言われたら傷つく。そのことをみんなは、いちいち教わらなくてもわかる。わからないのは、発達障害があるからだ。だから、面倒でもいちいち教えてあげなければいけないのだ。価値観を外れた考えなんて、屁理屈だ。」という反論もあるかもしれない。

しかし、「『わからない』の背景にある事柄は、発達障害者本人にとっては無視できない事柄だ」という思いが私にはある。

「太っていることは、好ましくないことである」という価値観が伝達される際、「太っていると発言した側と発言された側それぞれの、口調や表情などの非言語性情報」も含めた、いろいろな情報がやりとりされる。

発達障害系の人の中には、その際、「非言語性情報」を読み取ることに難儀する人もいる。私がそのうちの一人である。「太っている人は、かっこ悪い」という類の罵倒がなされるとか、マスコミがダイエットを煽るとかいった、他の情報が入って、「どうやら、(今の日本の)世間一般では、太っていることは好ましくないという価値観が主流となっているらしい」と認識することになる。人によっては、「それでも、その価値観は腑に落ちない」という思いも同時に持つことになる。

他の情報が入ってくる場合は、まだよい。「他の情報が見つからない事柄に対して、暗黙のお約束事を理解できている自信がない」という思いを、私はいつも抱えている。

「たとえ腑に落ちないとしても、とりあえずルールやパターンとして頭の中に入れる。そうしなければ生きていけないから。」という形で、「太っているのは好ましくないことである。」という価値観をとりあえずインストールする。もう一歩進んだ形として、「他の人の容姿については、自分からは話さないようにしよう。」というスキルをインストールする。こういう方法を、発達障害系の人はおそらく取っている。

一方、その「非言語性情報把握」は、発達障害の傾向が低い人の場合はおそらく瞬間的に無意識的になされる。「言われた人の眉間にしわが寄ったから、まずい発言だったのだろう」などと、いちいち意識して把握するわけではないと思われる。

つまり、「母語ではない言語による会話を、文法を駆使してぎこちなく行う」ことと、「ネイティブスピーカーが、文法をいちいち意識することなく、スラスラと会話していく」ことのような違いがあるのでは……と私には思えて仕方がない。

 

では、「暗黙のお約束事」を把握することが困難な子供だけを集めて、「常識や代わりの行動」を教えれば解決するというものなのだろうか?

おそらく、彼(女)らは、過去にも同じような注意や指摘を何度も周囲の人になされてきているだろう。「どうしてあなたは、そんなに意地悪なの」などと。

「脚が長い人に対しては『脚が長い』と言ってよい。しかし、太っている人に対しては『太ってますね』と言ってはいけない。」などと説明されたら、再度混乱してしまうこともありうるのだ。「脚が長い」とか「太っている」ということに対して、「価値判断がくっついている」ということに混乱してしまうのだ。

 

「人を嫌な気分にしたり傷つけたりすることを言わない」「本音を言ってよいか否かは、場の空気によって決まる」ということは、世間一般において「常識的な規範」となっている。そして、それを犯すことは、あってはならないことである。

という前提条件を、ブックマーク元記事の登場人物は、どうやら共有しているらしい。

そして、その「あってはならないこと」に対して、「礼儀正しくするために、社交辞令を用いる」→「嫌な気分や傷つきを回避」という対策を、登場人物が提供しているらしい。

提供された具体的方法としては、ママや先生や友達と発達障害者本人とで話し合って「嫌な言葉リスト」めいたものを作ったということらしい。この「リスト作成」は、一歩間違えると怖いものになりうるのでは? と私は思った。

・このリストを作った過程において、ママや先生や友達は、「あってはならないこと」を強く認識したことにならないだろうか?

・強く認識したもとでは、「人を嫌な気分にしたり傷つけたりする、意地悪で思いやりのない子」「場の空気が読めない子」「リスト作成などをいちいちやらないといけない、誰かの助けがなければダメな子」というイメージが、発達障害者本人により強く貼り付けられないか? そうなると、自己肯定やありのままの自分どころではなくなるのでは?

・この「あってはならない(とみなされた)こと」に対する、相互監視めいたものが強まらないか?

と思ったのだ。

 

「暗黙のルール」に隠れた価値基準を絶対視しない態度、その価値基準が造られていった過程や意味をいろいろな角度から考えてみること、こういった態度も重要かもしれない。こういう思いから私は、今週のお題「憧れの人」 - karotousen58のブログの記事を書いた。

こういう態度の下では、「場の空気が読めず、トンチンカンな行動を取る発達障害者」という評価だけでは終わらず、「『コミュニケーションのふくらみや楽しさ』を生み出す可能性も持つ人」という評価が生み出される可能性もある。「コミュニケーションのふくらみや楽しさ」が、発達障害者以外の人にも共有される可能性もありうる。私はそう捉えている。

このような段階を経て初めて、

・「正直に話してよい世界」と「社交辞令を使うべき世界」の両方を知る

・社交辞令を使うべき世界での、マニュアルやツールやスキルの研究や使用方法を習得する

ことに対して前向きになれるのではないだろうか? 

そして、発達障害系本人以外の人も、「発達障害系本人を対等な他者として見る」ことにつながっていくのではなかろうか?

私にはそう思える。