karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

障害関連啓発イベントでの、「ありうべき共生像」等に対するモヤモヤ感

 

義手・義足の“欠損女子”に会えるバーに潜入

「不便」の裏には、「期待される障害者像」を一方的に押し付けてくる「健常者中心文化」がないか?観察・分析・解釈される対象となるのは障害者側、する対象となるのは健常者側、という図式になっていないか?疑問有

2015/11/01 02:18

 

「障害者へのまなざしや扱われ方」「ありうべき共生像」等が、障害関連啓発イベント(特に、統合教育崇拝者が主導するイベント)で語られる 。

(注1「インクルーシブ教育」ではなく、「統合教育」としたのには理由がある。「投げ込み統合」に相当する語句が、インクルーシブ教育を語る場で使われないからである。)

(注2 統合教育「崇拝者」と表現したのは、「彼(女)らが、過去にあった投げ込み統合について有耶無耶にしている」と私が認識しているからである。)

(注3 「それなら夏炉冬扇は分離教育賛成派なのか?」という疑問もあるかもしれない。賛否というより、「現状では、統合教育と呼ばれているものも実態は分離教育」と私は捉えている。)

(それらのイベントと離れて)各種メディアや世間一般での「障害者へのまなざしや扱われ方」「ありうべき共生像」等は、必ずしも一致しているとは限らない。

しかし、はてなブックマークコメントを読んで私は思った。

それらのイベント主導者が期待する「まなざしや扱われ方や共生像」等は、各種メディアや世間一般にも大きな影響を与えているのでは? と。

それらのイベント主導者が期待する「まなざしや扱われ方や共生像」等に、私は疑問を持っている。

・主導者側が一方的に、「問題のあり方」を規定しているのでは?

・主導者側が、一方的かつ画一的に、「期待される障害者像」を作り上げて語っているのでは?

・「自らの立ち位置を振り返って考える」という姿勢が、主導者側に乏しいのでは?

という疑問を。

そして私は、はてなブックマーク元記事に対しても、その疑問を持った。

 

障害関連啓発イベント(特に、統合教育崇拝者が主導するイベント)等で、「障害者も健常者も同じ人間。どうして分けるのでしょうか? 分けられた教育しか受けていないから、接し方がわからなくて共生できないのです。障害者と健常者を分けないで同じ場で暮らす機会を増やさなければいけません。お互いを知ることによって、諸々の問題は解決します。」という類の主張がなされる。

「この主張には、とんでもない落とし穴がある」と、私は捉えている。

「障害の有無にかかわらず同じ人間」や「共生」といった響きのよい言葉の裏には、実は、発した側が「直面しないで済ませたい」ことが隠されている。私はそう捉えている。

障害者と健常者は「対等」な世界では出会わない。何故なら、社会が「障害」に対して与えている意味と大きく関連付けられているから。親密な個人と個人の間にも、権力関係は存在する。その間でなされる行為は、「障害‐健常」軸の影響を受けた政治的行為である。この事実を隠したいのでは? と私は疑っている。

 

障害者と健常者との間には、ガラスの壁がある。それは、次のような壁だ。

1.観察・分析・解釈される対象となるのは障害者。それらをするのは健常者。(社会福祉や特殊教育等を受ける対象となるのは障害者。それらを与えるのは健常者。)という解釈。観察・分析・解釈によって、「期待される障害者像」が作られる。

2.「障害者が、協力的な周囲に助けられた。勿論、障害者本人も頑張った。周囲の人々も障害者に親しみを感じて、偏見をなくした。障害者と接することによって、健常者も優しさや思いやりの大切さに気付き、人間的に成長した。」という類の(予定調和的な)美談を、「ありうべき共生像」として流通させる。

3.「期待される障害者像」に沿った言動を取る障害者は、納得され、場合によっては称賛される。しかし、「期待される障害者像」から外れた障害者は問題視され、非難の対象となる。「期待される障害者像」や「ありうべき共生像」に疑問を呈したり異議を述べたりした場合も同様。

4.「障害が及ぼす影響」には、「本人や身近な人物の持っている、各種資本と地位」「(追い詰められた際の対処法としての)手練手簡も学び取れる実力」も大きく絡んでくる。個々人の経済的・社会的事情によって、態度が変わることもよくある。しかし、「期待される障害者像」「ありうべき共生像」では、それらは「存在しないもの」とされる。

(念のための注 「障害者の要求は全部受け入れろ」という意味ではない。社会で生きるためのルールを把握し守ることは、当然障害者側にも必要。)

 

社会には、「多数に支持されている価値観」や「権力者が支持していて、権力を持たない側は事実上逆らうことが困難となっている、価値観」がある。そして、それらによって上下関係や序列がしばしば作られる。

「健常者の身体と生活」に基準を置いた「健常者中心文化」が、現状ではやはり一般社会の主流となっている。

「障害者の持つ身体や感覚機能や精神活動」と主流文化との関係性は、どうなっているのか? 「きわめて相性の悪いもの」となることもありうる。

障害者の生活スタイルや、障害者本人にとって暮らしやすい方法が、「主流となっている健常者中心文化から逸脱した、矯正すべき行為」とみなされる→本人にとっての生きづらさにつながっている

というケースはないのか? そして、健常者側はそういったケースにも着目しているのか?

「同じ人間」や「共生」という言葉で、それらが隠される危険性がある。私はそう捉えている。

 

障害者の視点や経験を通して、「あたりまえのこととして、意識化さえされてこなかった」主流社会の構成原理やあり方、すなわち「健常者中心文化の、ありよう」を意識化する。

それによって、「健常者を中心とした社会のありかた」や「自分自身のあり方」を再考する。

問題点がいろいろとわかってくる。

問題点を、具体的にどう変えていくか考えていく。

という態度は、前に書いた「障害者と健常者との間にある、ガラスの壁」のような状態とは大きく異なる。「自らの立ち位置を考えることなく、健常者側が一方的に、問題のあり方を規定する」態度とは。

「障害者と健常者との間にある、ガラスの壁」で書いたことは、次のような形でしばしば表現される。

・障害者は、「克服のエピソードとあわせて(←ここ重要)苦労話を語る」ことを期待される。それを語る際には、「周りの人々の協力」がセットになっている。

・「人々に共感してもらえることって、(障害者側も)うれしいことでしょ。必要な手助け等について話すこともできるのなら、あなたたち障害者への理解が進むことも期待できるわよ。そのためには、親しみを感じてもらえるようにふるまうことも大切よ。」的な誘導が、障害者に対してなされる。

・「障害者の持つ身体や感覚機能や精神活動」と主流文化とが、これこれこういう場では、これこれこういう点で、相性が悪い。」といった類の発言を障害者側がすると、「障害者と健常者と、分けて考えることが間違いです。どうして分けるのでしょうか?」ではぐらかされる。それだけではなく、「こういう、素晴らしい共生の事例もたくさんあります。障害から逃げないでください。」などと言う。

・統合教育崇拝者のサイトでは、障害者側によるコメントはしばしば非表示となる。或は、コメントの一部分だけ抜粋がなされ、「顔の見えないネット上では誤解が生じます。私たちの集会に参加して発言してください。」などと書かれる。そして集会の場では、コメント内容は「図々しい要求」などと問題視され非難される。一方で、崇拝者に好都合なコメントは掲載される。

 

 「障害者へのまなざしや扱われ方」「ありうべき共生像」が、

1.「健常者を中心とした社会のあり方」や「自分のあり方」を、多様な障害者の視点や経験を通して再考して作っていったもの

2.「同じ人間なのだから、現代社会の構成原理そのものを問い直すなんてことは必要ない。分けられていたから、障害者はずっと、我々健常者の『あたりまえ』がわからないだけだ。同じ人間なんだから、一緒にいれば障害者も自然に『あたりまえ』を『我々健常者と共に』学び取れるんだ。」という発想から、作っていったもの

3.その他

のどれなのか?私にはそれが気になる。

2.ならば「障害者の現実を伝えず、逆に、障害者の生活やイメージを健常者にとって好都合なものに変えてしまう」「優しさや思いやりを学び取るためのお道具として、障害者が使われる」と、私には思える。