karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

今週のお題「表彰状」

今週のお題「表彰状」

 

表彰された経験? そんなものはない。今後も表彰される見通しなんかない。

と書いた直後、「長寿犬表彰」なる言葉が頭に浮かんだ。

前にも書いたことがあるが、私が物心ついた頃から、うちにはずっと犬がいる。犬とのつきあいが長いと、世間一般の飼育リテラシーや飼育環境の変化がわかる。先代犬は長寿犬で、17年4か月生きた。もともと丈夫な犬でもあったのだと思う。こんな飼い主でも、このような長寿犬となった。

岡山県倉敷市には長寿犬表彰制度がある」と知ったのは、先代犬がいなくなってから2年後だった。私が住んでいる市には、この制度はない。次のようなイベントが年1回あるのだが、このイベントでは「参加申し込み頂いた方の中から、最もご長寿犬をたたえ、表彰させて頂きます!」となっている。「最も」となると難しい。先代犬が生きていた頃は、このイベントはなかった。

人と動物の会 イベント・講習会のお知らせ

倉敷市の場合、「倉敷健康福祉まつり いきいきふれあいフェスティバル」というイベントが公園で開催され、そこで表彰が行われるとのことだ。検索したら、このイベントの様子について書かれた記事も見つかった。去年は、天候不良のためにイベントが中止になったとのことだった。

 「長寿 犬 表彰」といった類のことばで検索すると、他の地方での表彰制度も見つかる。画像検索すると、表彰状や犬の写真がたくさん見つかる。表彰状の文面がいろいろとあって面白い。楯とかバッグなどの記念品がもらえる地域もある。

 

検索したら、表彰対象となる年齢は、地域によって違うようだ。また、「公益財団法人 日本動物愛護協会」でも、住んでいる地域と関係なく「長寿動物表彰」を行っているようだ。この法人の場合、「動物の長寿化に伴い、2017年4月より表彰年齢変更」とのことである。

変更前:17歳以上の犬猫
変更後:小型犬・猫:18歳~ 中型犬:15歳~ 大型犬:13歳~ 超大型犬:10歳~ 

    ハーフ犬、ミックス犬:体重で10㎏未満を小型犬、20㎏未満を中型犬、それ以上を大型犬と分類

 

うちでは12歳4か月の雑種犬(中型犬相当)を飼っている。あと3年ほどで表彰年齢に届く。今でも元気のよすぎる犬である。今の状態が続けば表彰の対象になるだろう。15歳を過ぎても、元気で長生きしてほしい。

15年ほど前に知った、バレンタインデー関連商品

今週のお題「バレンタインデー」

 

バレンタインデーについては、過去にこういう記事を書いた。私の方針は当時と変わっていない。

今週のお題「バレンタインデー」 - karotousen58のブログ

 

今回は、「15年ほど前に知った、バレンタインデー関連商品」について書く。

この商品を最初に見た場所は、ホームセンターだった。「うへえ、こういうもの、買う気になれねーや。高級すぎるぞ。」と思った。

ここまで書いて、「ああ、ひょっとしてあの系列の商品かな?」と思った人がいるかもしれない。

正解は、「ペット用バレンタインデー関連商品」である。

「バレンタイン 犬用」といった類の言葉で画像検索すると、ピンク色やハート形の含まれた派手な画像がたくさん見つかる。犬用チョコやら馬肉のトリュフやら、いろいろなものが見つかる。

 

断っておくが、ここでいう「犬用チョコ」は本当はチョコレートではない。チョコレートの主成分であるカカオにはテオブロミンという成分が含まれている。犬は、テオブロミンを代謝(解毒分解)する能力が非常に低いということらしい。だから、犬にチョコレートを食べさせるのは、とても危険なことである。犬にはチョコレートを与えてはいけない。

犬用チョコは、野菜や魚や豆腐などを使用したおやつということだ。犬が食べられない「カカオ」を使用せずに、チョコレートの見た目を再現したということらしい。

15年ほど前に見たとき、値段は2000円前後だった。「私が食べるものよりも、ずっと高価なものを食べられるということなのかな。よそのお犬様は。」と思った。

勿論、うちの歴代犬がこの種の商品にありついたことはただの一度もない。貧乏な飼い主だし。

もっとも、うちの歴代犬も貧乏舌の持ち主のようだが。こういう変なところも飼い主に似ている。

学習障害・タブレット・「書き写してこそお勉強」文化

 

読み書き計算が苦手… 学習障害ディスレクシアとどう向き合う? #あさイチ - Togetter

タブレットワープロ使用でもいいじゃないか」の主張は以前からある。しかし、「ノートとりに難儀」と「それ故器具使用」との間に飛躍はないか?。間に「書き写してこそ勉強」文化有では?この「文化」も再考が必要

2018/01/26 01:06

 「ノートに書く、タブレット端末に入力する、それらが選べるといい」というコメントは、ブクマ元記事にもある。また、「タブレットありきではなく、その子に合わせた方法を」というコメントもある。

これらのコメントを否定するわけではない。ただ、「『ノート取りに難儀する』という障害が、個人に内在する」という方向だけで考えていいのか? 他の方向から考える必要もあるのでは? いきなり、ノートかタブレットかの2択に走るのは、まずいのでは? という思いを私は持っている。

では、他の方向とは何なのか? それは、私が「書き写してこそお勉強」文化と呼んでいるものと、関係がある。

この文化が重視されすぎている学校やそれに繋がった社会のありかたが、「障害」とよばれている状態をつくっている。そういう面はないのか? この文化の内実はどうなっているのか? これらについて再考していくという方向からも考えられないか? ということである。

 

この文化については、過去記事「書いて覚えましょうメソッド」との相性 - karotousen58のブログでも書いている。

  

私の周囲には、「書いて覚えましょうメソッド最強」信仰の人多し。私の場合、「ノートとり」と「見る・聞く」の同時進行がうまくできない。後者重視のほうが内容が頭に入るのだが、怠け者の言い訳と解釈されてしまう

「書いて覚えましょうメソッド」との相性 - karotousen58のブログ

  

・かといって、「書くことなんて無駄」と主張したいわけではない。断片的な事柄を知った後、それらの事柄がどのようにつながっているのか、書くという方法を使って考えていく。その後、自分なりにまとめる。という方法がやりやすい。断片的な事柄を知らない状態で「書いて覚える」ということは、私にとってやりにくい。

「そんな面倒なことをしなくても、先生様が丁寧に板書事項としてまとめておられるのだからそれを覚えるほうがずっと効率がよい。」という主張もよく聞くが、私には実感がわかない。

・「見る・聞く重視」と「ノートをとること重視」のどちらの方法が、自分にとって相性が良いのか? (或は、両方を同時に満たすことを、自分なりに身につけているのか?) 悩んだり実際に試したりしたことのある人は多いのだろうか? それとも、迷うことはなかった人のほうが多数派だろうか?

・私のブックマークコメント中の、「書いて覚えましょうメソッド」は、しばしば、「ノートの乱れは心の乱れ」という見解とセットで用いられる(特に、大人によって)。

・「書いて覚えましょうメソッド」って、実は、「勉強しましたという、雰囲気作り」と「机に向かうことによって、外で無駄なことをさせることを防ぐ」という目的も隠れているんじゃね―の? という疑念を、私は持っている。

・確かに、漢字を覚えようとする場合は、実際に書かないと、漢字全体のバランスを意識しないことになる。その結果覚えられないということはありうる。しかし、(携帯電話が出回る前の話ではあるが)よく電話をかける相手の電話番号って、いちいち書いて覚えたんだろうか? 疑問がある。

・「特定の時間内に、反復できる回数」は、どうしても、「書く」場合よりも「見る・聞く・声に出す」という場合のほうが多くなる。「断片的な事柄について知る」段階では、反復回数も意味を持ってくるのでは?

また、「どれか一つの方法だけをとる」以外に、「複数の方法を併用」も有効なのでは?

「書いて覚えましょうメソッド」との相性 - karotousen58のブログ

実は、私の場合、「内容が頭に入らない」という問題以上に「文字を書くスピードが遅いため、とても汚い字(誰も読めないほどの)しか書けなくなる。」という問題も大きい。

学生時代は、「友人が学校を休んだとき、慌てて別紙に授業ノートの内容を書き写してそれを友人に渡す」という状態だった。

また、大学時代、試験が不安だった。大学の試験は、論述問題が多い。採点者が読める字を書こうとすると時間がかかって、制限時間内に書けないこともあった。制限時間内に書こうとすると、どうしても速く書こうとすることになる。そうなると、もともと汚い私の字は輪をかけて汚くなる。仮に私が優秀な学生で立派な答案を作れる実力があったとしても、採点者が汚い字を読めなかったらお話にならない。「読めない字が原因で、不合格となる」ことになりそうで、不安だった。

私は理系出身だ。だから、数字とアルファベットで間に合う部分もあった。それらは漢字やかなよりも、読みやすい字を速く書ける。もしも文系なら、漢字かな交じり文の答案を作る必要性がもっと高くなっていただろう。もしも小論文入試だったら、大学進学はできなかったと思う。

 

それらのことを、「書き写してこそお勉強」文化支持者に話すと、次の言葉をよくかけられる。

「速く書こうとすると、誰でも字は汚くなるよ。発達障害とか学習障害とか大袈裟。」「キミはあれこれ考えすぎるんだよ。余計なことを考えなくても、先生様が丁寧に板書事項としてまとめておられるのだから、それを頭に入れることにだけ集中すればいいんだよ。見る/聞くのは受け身の態度。書くことは積極的な態度。だから身に付く。」という言葉を。

これは的外れな返答である。「言われたことをそのまま書く」という場合でも、他人には見せられない字でしか私は書けない。同じ課題を他の人がした場合、「私が解読できる文字」で内容も正しく書いている。そういう経験を何度も私は積んでいる。

 

どうやら、私の観測範囲内では、「勉強は書いてするもの。書かないと頭に入らないし覚えられない。それが普通。」という推論が日常的に行われているようである。

果たして、その推論は妥当なのだろうか? 「それが普通」という表現での「普通」の内実は? 実は、「どこにもいない平均的な人」をモデルにした「普通」だった。そういう可能性はないのか? 

そして、その可能性があるのなら、その「普通」は「多くの人を排除する危険性のあるもの」になりうるのでは? と私は思う。

 

「文字を書くスピードが遅い、ノートとりに難儀、速く書けるようになりたいのだが、方法を思いつかない。我流で練習したことがあるが、うまくいかなかった。」という類の発言、実は、2000年頃に存在した「成人発達障害系サイトやそこの掲示板」で、何度かなされていた。

大学時代に、「字を書くスピードが遅すぎて、ノートとりや試験が心配」のことを友人に打ち明けたことがある。

「ノートをとってる最中、自分も内容が頭の中には入ってないよ。後に試験対策として見るために書いている。あんたの言うとおり、『黒板を見る/話を聞く重視』のほうが頭に入る。」と告白した友人も少なからず存在した。また、「ノートを貸した人よりも、借りた人のほうが良い成績を取ることなんてザラ」ということは、大学ではよく聞く話だ。

「医師はカルテを英語やドイツ語で書く(注 昭和時代のこと)。その理由は、漢字かな交じりの日本語よりも速く書けるからだ。」と、大学時代に聞いたことがある。「やっぱり、漢字かな交じりという条件は大きいな。」とそのとき思った。

本当に、「書き写してこそお勉強」文化が多くの人と相性が良いのか? 書き写しの負担を減らして「見る/聞く」に集中するほうが相性がよいという人もいるのでは? 書き写しの負担軽減については、「タブレットワープロ使用」以外に方法はないのか? 

タブレットワープロが使えない場合もある。また、ノートとり以外の場面では、自分の考えやいろいろな事項とのつながりを、書いて考えてまとめる勉強が自分にとってやりやすい。だから、使えない場合の負担軽減方法も知りたい。」という思いが本人にある場合はどうか? これらも考える必要があると思う。

 

負担軽減の方向性として、次の2点を考えたことがある。

  1. 「漢字やかな」を、数字やアルファベットや各種記号などの「早く読みやすく書けるもの」に変える工夫
  2. 文字を書くスピードを上げる練習

1.について

名古屋→758、農業→Agri、ゆえに→∴、すなわち→i.e、略字を使って漢字を書く(例 議→言+ギ)、というふうに書き方を変える。その際、「ノートの罫から多少はみ出してもいいから、できるだけ視点を黒板に向けたままで、ノートをとる」ようにした。

(注 勿論、「他の人に読んでもらう必要のある文」に対しては、これらの書き方は使わない。漢字や文章を書く練習は後で別に行う。)

2.について

「行書(文字のくずし)を覚えたら、書くスピードが速くなるかもしれない。そういえば、『中学や高校の同級生で、成績優秀かつ文化資本の高そうな家庭出身の人』が行書っぽいくずしを使っていたな。」と思って、ペン字の本を使って練習したことがある。1日15分の練習を半年間続けた。効果は感じられなかった。今思うに、行書の練習よりも先に「とめ、はね、はらい、といったことを意識して丁寧に楷書を練習する」ことが必要だったのかもしれない。

数日前に書店で「ペン字練習本」の類を立ち読みしたところ、「ひじなどの体の使い方」「横線、縦線、曲線の練習」といったことについてもふれている本があった。これらも意識する必要があるかもしれない。

 

確かに見てくれは悪いかもしれない。しかし、1.のような書き方を使ったノートを子供がとることも認めてほしい。「ノートをとる」という負担が軽くなったら、家で「きちんとした文字を練習してみる」こともやりやすくなるかもしれない。(子供時分の私の場合、「ノートの乱れは心の乱れ」で片づけられ、「書く」こと全般に恐怖感を持っていた。)

漢字練習について検索したら、書かずに漢字を覚える方法! - 次世代型個別指導塾アチーブメント -Achievement-という記事が見つかった。この方法と相性の良い人もいると思う。

 

いきなり、ノートかタブレットかの2択に走るのは、まずいのでは? と思う理由は他にもある。

「図や絵を書いて情報を整理し、問題を解く」必要が出てくるケースもありうる(例1 物理の試験で、現象を図式化してイメージ。例2 マインドマップといわれるような思考法と本人との相性がよい場合)からだ。

また、試験等の場で、タブレットが使える環境が必ずしも準備されているとは限らない。「それらを諦めるという形で選択肢を狭める」ことにつながるとまずいのでは? と思うからだ。

 

「書き写してこそお勉強」文化の過剰重視によって、社会的に作られている面がある、「学習障害」。そういう認識も必要だと思う。この認識で重要なのは、「何を改善すればよいか」の焦点が違うものになりうるということである。

学習障害」とみなされていない人の中にも、

  • 「書き写してこそお勉強」文化との相性の悪さを感じている
  • 「書き写してこそお勉強」文化しかないと思っているから、そこから離れることを恐れる→「書き写さなければ、頭に入らないに決まっている。頭に入らないのは、自分がバカだから。」と思い込んだ状態にある

人がいる可能性はないだろうか?

もしもそういう人がいるのなら、「書き写してこそお勉強」文化の内実やそれに繋がる学校や社会のありかたについて考え直すことは、学習障害者以外も利することになりうる。(念のための注 本当に「書き写す方法のほうが、見る/聞くよりも自分に合っている」人の場合、書き写す方法で勉強すればよい。)

そして、情報の送り手と受け手。送り手側が「伝えたい」と思っている事柄と、受け手側が「受け取る必要がある」と思った事柄。それらがうまく繋がるにはどうすればいいのか?

ということについても、考え直すための一つの鍵となるかもしれない。

第2回共通一次試験(1980年)国語

今週のお題「受験」

 

このお題で記事を書こうとして、「私も歳を取ったんだな」と思った。記事の題材になりそうなことが、次から次へと頭に浮かんでしまったからだ。

1982年神戸大学二次試験数学(「kの値を求めよ」という問題で、正解は「解なし」)、1985年共通一次数学(「昭和の米騒動」と言われた)、1989年共通一次理科で得点調整/国語でまさかの『源氏物語』出題、1980年共通一次国語の問題文、これらが特に印象に残っている。

今回は1980年共通一次国語の問題文について書く。

 

私は第5回共通一次試験(1983年)を受験した。1984年までの共通一次試験国語は、「評論、小説、随筆または解説文、古文、漢文」の全5問だった。現代国語(当時は「現代文」とはよばれていなかった)の配点が高かった。

第2回共通一次試験(1980年)国語の「評論以外の現代文」が、私にとってインパクトが大きかった。

といっても、試験場でこれらの問題を解いたわけではない。過去問集で知った。

出題されたのは、小説が『鳥寄せ』(三浦哲郎)、随筆または解説文が『ロン先生の虫眼鏡』(光瀬龍)だった。『ロン先生の虫眼鏡』は追試験での出題だったかもしれない。

 

『鳥寄せ』は、強烈な内容だった。「うへぇ。こんな重い内容の小説が出題されたのか。」と、試験問題を見て思った。「石地蔵になったとはどういう意味か」「網を持って山に入ったのは何故か」といった設問があったのを覚えている。

この問題を解いて以来、「三浦哲郎」という名前を見聞きすると真っ先に、「石地蔵になったとはどういう意味か」という設問が頭に浮かぶようになってしまった。『繭子ひとり』でもなく、『盆土産』でもなく、『春は夜汽車の窓から』でもなく、この設問が。

「鳥寄せ 共通一次」等で検索すると、いろいろと出てくる。やはり、「強烈な印象が残っている」という人は、私だけではなかった。『鳥寄せ』は、新潮文庫『木馬の騎手』に収録されている。

 

木馬の騎手 (1979年)

木馬の騎手 (1979年)

 

  

『ロン先生の虫眼鏡』(光瀬龍)というエッセイは、後に、原作には登場しない独自のキャラクターが活躍する漫画作品として再構成された。私が(誰かに買ってもらったのではなく)自分の小遣いで初めて買った漫画単行本は、この漫画『ロン先生の虫眼鏡』である。だから、過去問集で見たときに驚いた。

「この漫画の原作本が共通一次に出たのか。正答に届かないやつが多かったから悔しいな。」と、解いた後に思った。光瀬氏の中には「正答に疑問がある」という思いがあったそうだ。ネットを使うようになってからそれを知った。

 

ロン先生の虫眼鏡 (1976年)

ロン先生の虫眼鏡 (1976年)

 

 

 中学や高校の国語試験。「この話、全文を読んでみたい。だけど、題名も作者の名前も書かれていない。」と当時思ったものも、そういえばあった。

今はネットの時代。ネットを使っていて偶然辿り着いた記事で、それらが偶然にわかってしまうことがある。

立春の卵」の話とか、『ものの見方について』(笠信太郎)とか。中学時代の私に教えてやりたくなる。

私は国語が苦手だった。苦手な私にとっての国語試験でも、「全文を読んでみたい」と思う話に出会うチャンスがあったんだな。不思議なもんだ。と今は思う。

このような経験、他の人もあるんだろうか?

(国公立大二次/私大)物理と「1980年代前半の地方自称進学校」との相性

今週のお題「受験」

 

「大学受験」に関するイメージは、受験生の置かれている条件が異なると、いろいろと変わってくると思う。世代とか選択科目とか地域/学校の受験文化とかいった条件が。「勉強法などのアドバイスや合格体験記の類」を参考にする際には、これらの「条件の違い」についても考える必要があると思う。

 

私は1983年に第5回共通一次試験を受けた。当時の共通一次は5教科7科目(理科/社会はそれぞれ2科目)が必修だった。国公立大学入試への共通一次試験制度導入が1979年である。それまでの国公立大学入試は、「一期校/二期校」という制度だったらしい。

私の大学時代、院生や助手等に「一期校/二期校」入試を経て入学の方も多かった。その方々の証言によると、「共通一次制度導入で、高校(特に地方の自称進学校)の方針や書店の学参売り場がガラっと変わった。学校側が『生徒を十把一絡げ』的方針を取るようになった。また、じっくり考えよう系学参が少なくなって、マークシート対策タイプ学参ばかりになってしまった。」ということだ。

「1980年代前半の地方自称進学校」では、「共通一次制度(5教科7科目制)を強く意識した、学習指導や進路指導」がなされていたようだ。私の出身校や他地域の「自称進学校」出身者の証言から考えるに。

(国公立大2次/私大)物理と「1980年代前半の地方自称進学校でなされた、学習指導や進路指導」との相性を、私はどのように捉えているか? 結論から言うと「最悪」と捉えている。

特に私の出身校の場合、この「学習指導や進路指導」によって、物理という科目に変なイメージがつけられたのでは? と私はひそかに疑っている。

私とは違った世代や学校や受験文化の下でも、(国公立大二次/私大)物理と学習指導や進路指導との「相性」の良し悪しというものがあったのだろうか? 高校時代からずっと、このことについて私は疑問に思っている。

 

(国公立大二次/私大)物理入試って、どんな特徴があるの? と訊かれたら、私は次のように答える。

  • 教科書章末問題と入試問題との難易度に、大きなギャップがある。
  • 入試問題で点数が取れるようになるまでに、時間がかかる(即効性がない)。しかし、実力が伸びるときは急に伸びる。現役生の場合は特に、年が明けてからの急上昇もありうる。
  • 「公式を覚えて、それにあてはめ」戦法ではうまくいかない。公式導出過程が重要。とはいえ、「解説の丁寧な良問」(←ここ重要)もある程度解かないと実力がつかない。

 私が高校生だった当時の高校物理授業には、もう一つやっかいな要素があった。それは、「物理を勉強するために必要な数学(三角関数等)」を、数学授業よりも先に自力で勉強する必要が出てくることであった。

これらの特徴と「自称進学校の学習指導や進路指導」との相性は、最悪である。

 

では、自称進学校とはどういう学校か? それは「ブラック企業高校バージョン」である。 今週のお題「テスト」 - karotousen58のブログでも書いたが、「一クラスまるまる勉強家(自分独自で勉強できる生徒なんていないに決まっている)」的な方針で学習指導や進路指導を行う学校である。

  • 教科書以外の副教材(内容は無関係)を学校側が複数指定、指定教材と普段の授業について頻繁に小テストを行う。小テストの点数が低かった場合、莫大な課題(しかも、「書いて覚えましょう」系)を押し付ける教師もいる。課題提出を義務付けられる場合もあり。「ちょっと体調を崩した」といったことでもあれば、課題が「借金雪だるま」的なものになる危険性大。理数系指定教材には、詳しい解説がついていない。答えの数値のみが出ている。
  • 「宅習カード」なるカードの提出が義務付けられていた。例えば「○月△日21時~22時英語構文暗記、22時~23時徒然草文法学習」といった申告をさせる。
  • 夏休みや冬休みには「補習」なるものを押し付けていた。タテマエは「自由参加」なのだが、実際には拒むことは困難。「夏休み」は、実質的には盆をはさんだ2週間程度。3年生になると、平日放課後も補習漬け。
  • 「地元国立大学や、そこと似たようなタイプの選抜方法をとる大学」を生徒に勧める。違うタイプの大学を希望することは、「教師や親へ挑戦状をたたきつけること」を意味する。
  • 学校配布の「合格体験記」は、「学校の先生を信じて、学校の方針通りに一生懸命勉強して合格しました。」という内容ばかり。学校配布以外の学参や大手予備校模試のことを話題にしようものなら、「身の程知らず。学校の勉強以外はするな。」と教師から言われまくる。
  • 選択科目についても、学校側がいろいろと口出しをする。学校側は「定期試験や目先の小テスト」のできで生徒を判断。だから、「実力がつくまでに時間がかかる(即効性がない)」タイプの科目を学校側は歓迎しない。というか、生徒本人よりも先に学校や親が、「どうせ、この科目はこの子にはできない」と早いうちから決めつけてしまう。物理と日本史が特に嫌われていた。日本史と世界史の両方履修を希望する生徒に対して、「一つは地理にしろ」と命令もザラ。
  • 高3で履修する科目は、授業では教科書を全部終えることができない。「生徒十把一絡げ扱いの、目先の小テストや補習漬け」のほうを優先。
  • こういう調子だから、「現役で勉強漬けにしてもこの程度なんだから、浪人しても学力は伸びない。」と学校側が決めつける。

 

私の出身校の場合、当時の地元国立大学は一次試験重視の選抜方法を取っていた。二次試験の入試科目数も、他大学より少なかった。そして、工学部の二次試験科目からは「理科」が外されていた。

だから、「共通一次で高得点を取り逃げ切る(二次試験の勉強まで手が回らない)。」「二次試験の配点が低く科目数も少ない大学を狙う。」「理科の科目選択ができる場合は物理を避ける。理科が課されない大学を特に歓迎。」戦法を学校側が押し付けた。共通一次の点数が「業者がはじき出したA判定点数プラス30点」未満なら、諦めさせるという方針だった。

前に述べた(国公立大二次/私大)物理入試問題の特徴、これを考えると、(国公立大二次/私大)入試用物理を勉強するには、「自称進学校の、学習指導や進路指導」に従順だと危ない。学校指定教材には、解説の丁寧な良問なんてものは期待できない。「自分なりの勉強を、ある程度まとまった時間を取って、じっくりと続けていく必要がある。」と私は考える。

とはいえ、「目先の小テストや補習漬け」攻撃をかけられまくったら、「自分なりの勉強」なんてさせてもらえなくなるんだよな。悩ましい。

 

私の高校時代、科目選択は次のようになっていた。

数学 数学1(1年生で履修)、数学2B(2年生で履修)、数学3(理系のみ。3年生で履修)。文系の3年生は、志望校によって、「数学1と2の両方履修」か「数学1のみ」のどちらかに。

理科 1年生は、化学1必修。物理1と生物1のうち1科目選択。理系の2年生は、物理2と化学2必修(とはいっても、1年生終了時点で物理1も化学1も教科書を全部終わっていない。)。文系の2年生は、物理1、化学1、生物1、地学1から2科目選択(もっとも、物理1は事実上選択肢から外されているかたちになるが)。理系の3年生は、志望校によって「物理2と化学2の両方履修」か「物理2と化学2のうちどちらか1科目のみ」のどちらかに。後者の場合は、「理科1科目分の空き時間」は、共通一次で選択の社会科科目があてられる。

社会 1年生は、地理と世界史のどちらかを選択。2年生は、1年生での未履修科目と日本史のうち、どちらかを選択。

こういう状態だから、理系希望でありながら、理科や数学よりも「共通一次用科目の点取り学習」に時間を割かなければならなくなってしまう。最悪の場合、肝心の理系科目学習内容に大きな穴が開いた状態で、理系学部に進学することになってしまう。

悲しい話なのだが、生徒のほうも、履修科目数が多くなることを嫌う。「詰め込みは嫌なのだが、学校側の共通一次点取り方針は歓迎」空気に、生徒も親も染まっていた。

「理系希望なら、理科は2科目以上やりたいと思うもんだろ。」と反発していたのは、私を含めた少数だった。当然、教師からは嫌われていた。 

 

2010年に発表された「物理学分野の展望」という報告書(http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-h-3-3.pdf)によれば、高校における物理履修者の比率は 1970 年代には 80 ~ 90 % 台であったが、1982 年の指導要領改訂以降は 30 % 台に激減し、現在では 20 % 以下と言われている。とのことだ。

私の出身校のような話が、他の高校でもあったのでは? 私は密かに疑っている。

物理という科目に変なイメージを持たないでほしい。可能性を狭めないでほしい。高校生や受験生が悪いのではなく、「学習指導や進路指導方針との相性がたまたま悪かった」という可能性もある。

高校時代に物理を勉強していてよかったと、(少なくとも私は)思っている。

今週のお題「体調管理」

今週のお題「体調管理」

 

誰の体調を管理するのか? 私の場合はこの問題も大きくなる。

「老親や飼い犬の体調管理」って、どんなふうにやっていけばいいんだろう? と思う。

 

私の親は2人とも認知症傾向にある。更に生活習慣病についても考えないといけない。食べ物の咀嚼や誤嚥防止も要警戒ワードである。

そして、一番厄介な条件が「食べ物の好き嫌い」である。私の親は2人とも「嫌いな食材」が多い。この状態に「生活習慣病」が加わると、献立を考えるのも一苦労である。

認知症の症状の一つに「過食」がある。これについても警戒が必要である。もともとが甘党なのだが、甘いものばかり大量に食べたがる。「食べられないよりはずっとよい。しかし、肥満には要注意。」と主治医から指摘がある。

だから、おやつになりそうなものは、親に気付かれそうにない場所に隠している。そして、食べる量も決めている。

 

飼い犬の体調管理? ドッグフードでもやって毎日散歩してりゃいいだろ? と思われるかもしれない。

しかし、「認知症傾向のある老人」と「室内飼いの犬」という組み合わせだと、それでは終わらない。

私の親が冷蔵庫から肉やハムやソーセージの類を無断で取出し、飼い犬に食べさせる。食事に出てきた肉類を飼い犬に食べさせることもある。そういう問題が出てくるのだ。私が外出しているとき、こっそり飼い犬に食べさせている模様。

「飼い犬がいくらねだっても、人間用の食べ物はやらない。ドッグフードと犬用おやつを、決めた量だけやる。」という方針を、私は取っている。父もこの方針をとっていた……はずだった。

最近、父までがこっそりと飼い犬に食べさせはじめた。ヤバい。

 

私の体調管理? 特別なことはやっていない。ただ、冬は、3つの首(首、手首、足首)を冷やさないように心がけている。

一昨年の冬だったか、「厚着よりも、この『3つの首』を温めるほうが防寒効果がある」と聞いた。そのときは、効果には特に期待していなかった。その数日後、リストウォーマーを店で見つけた。「バカ高いものでもないから、ちょっと買ってみるか。」と思って買った。

実際使ってみて、「ほんとだ。こんなに効果があるなんて意外。しかも安物ときているのに。」と思った。首と足首でも、確かに効果があった。

「3つの首を温める」これは、体調管理を目的として始めたというわけではない。ただ、これによって「厚着をした状態で汗をかいてしまう」ことが少なくなった。結果的には体調管理につながっているのかもしれない。

「同世代のお友達」でなきゃダメだろうか?

 

女優の奥山佳恵 ダウン症の息子を通常学級に入れる決意に反響 - ライブドアニュース

併読をおすすめ http://square.umin.ac.jp/~massie-tmd/helpme.html 「助けが必要な自分の状況や相手の力量を理解、把握→適切な時/場/人/内容の条件を満たして、初めて有効な援助要請へ」投げ込み統合なら理解/把握力養成は困難では?

2017/12/28 02:42

 


奥山佳恵の暮らしラボ・家族に選択の時が…

 

子供の頃クラスでかなりイジメられてた女の子について「いや、彼女は本の趣味もいいし、話せばとても面白い子だよ」って言ったら滅茶苦茶茶化されて、お互いにとって不幸なことになっ

私の場合、「本の趣味もいいし、話せば面白い子」の類の発言が年長者(ある同級生の親御さんや従姉)から学校外でなされた。救われた。親は「大人が合わせてくれただけ。友達のできないダメな子」と言うだけだった。

2017/12/26 22:32

 動画の04:00あたりで、「同世代の友達が1人でも多い方が 財産になる」という内容の発言が出てくる。

「同世代の友達をたくさん作ることが、この子の生きる力となる。だから、特別支援学級/校ではなく普通学級を希望する。」というコメント、親御さんからも「全ての子供を普通学級へ」運動関係者からもよく出される。というより、「そのコメントが最初に発されないことは稀」である(少なくとも、私の観測範囲内では)。

否、「障害児の就学相談」の場だけではない。「学校生活で一番大切なことは、同世代の友達をたくさんつくって社会性を身につけることだ。」という類の見解、世間一般で広く共有されているように思える。

「大勢でワイワイやるのが好き」というように見えない(と大人が認識した)子供に対して、「○○さんとしか遊ばない」「もっとみんなの輪の中に」と大人がとても気にするケース、私はいろいろな場で見聞きしてきた。そして、私もこれらの言葉に苦しめられてきた人間である。「同世代」ということに異様に重きを置いているように、私には思える。

もっと言うと、「同世代の友達ができないようなら、他の人とも交流なんかできない。よって、社会性を身につけることができなくなる。」という解釈のレールが、勝手に敷かれているのでは? と私には思えて仕方がない。

本当に「同世代の友達」でなきゃいけないのか? 年齢の離れた人からいろいろと影響を受けるということはないのか? 「年齢の離れた人との交流もあり」というのじゃダメなのか? 「同世代の友達」でなきゃいけないというのは、本人にとってプレッシャーになることもあるのでは? 交流を子供に丸投げなのでは? 私淑という方法もあるのでは? と私は疑問に思っている。

 

「同世代の友達をたくさん作ることが、この子の生きる力となる。」という見解は、しばしば暴走した形で表現される。「分けることは差別」とか「分離教育は能力主義価値観支持だから悪い」とか「障害児本人だけではなく、周りの子供も成長する」とか主張する人達が、「(同級生の)友達の数」や「愛想よくできているか否か」によって「障害児を序列化」という形で。

そして、子供が「一人でいることが苦にならない」とか「いじめられてつらい」という態度を取った場合、「その子は序列最下位」とその人たちは解釈する。

「序列最下位から脱出しなければいけない」と、周りの大人が煽る。脱出の方法として、次のことがしばしばなされる。

「友達がたくさんいるように見せる」「友達を作る練習と称して、他の児童と一緒の遊びを無理やりさせる」「いじめであることを否認する(本人はいじめとは思っていない。いじめというのは大人の勝手な解釈などと大人が主張)」等が。

それだけではない。「この子が(同級生ではなく)年長者に近づくのは、甘えが通用するから。年少の子に近づくのは、この子が幼稚だから。」という解釈までなされる場合もある。

「分けることは差別」とか「分離教育は能力主義価値観支持だから悪い」とか「障害児本人だけではなく、周りの子供も成長する」とか主張する人達が、「序列最下位(とみなされた)子」を、「誰かの自己肯定感(とやら)を高めるためのお道具」として利用することもよくある。

「(序列最下位の)××ちゃんみたいな、もっと酷い人もいる。それに比べればあなたはずっと立派。さあ、胸を張って。」という類の激励、それらの主張をする人達からよく聞いたものだ。

 

私は1971年に小学校へ入学した。父の証言によると、私は幼稚園児だった頃(或はそれ以前?)に自閉症を疑われ、児童相談所へ何度か連れて行かれたらしい。私の記憶にはぜんぜんないが。私が幼稚園児だった頃、すでに親は、「全ての子供を普通学級へ」系運動関係者と思われる人物と繋がりを持っていた。小学校入学後、3年生まで、夏休みのうちの一日を使って母と私が校長室に呼びだされるという経験もした(特殊学級検討?)。そのとき私は知能テストのようなものを受けさせられ、その後専門家らしき人と母と私の3人で面談した。こういう過去が私にはある。

1979年、養護学校義務化がなされた。1970年代になされた「就学運動」は、「本人が学級で受けている処遇」ではなく「養護学校義務化賛成/反対派の派閥抗争」に関心が向いていた(統合教育/分離教育どちらの側においても)。そして、現在もその状態が続いている。「友達をたくさん作ろうキャンペーン」は、どちらの側も重視している。

「普通学級は素晴らしい。特殊学級に入れられないようにしなければいけない。お友達をたくさんつくって楽しく学校生活を送っていれば、普通学級でやっていける。だから、お友達をたくさん作らなければならない。」と、運動関係者や親はどうやら認識していたようだった。そして、前述の「脱出方法」を私に押し付けた。

私が小5のときまで、運動関係者と親は、「友達を作る練習」と称して同級生の家に遊びに行くことを義務付けていた。同級生と私とは、興味や関心が合わなかった。私にとって苦痛でしかなかった。同級生にとっても、おそらく苦痛だっただろう。

私はいじめのターゲットにもされた。私の場合、大人が率先していたという面もある。今週のお題「これって私だけ?」 - karotousen58のブログ のような調子だった。

「どうせ、私が考えたり感じたりすることや、私が好きなものには、ロクなものなんてない。それらがバレたら、親も教師も同級生も、私を否定するに決まっている。親も教師も同級生も、私の味方になんかなるはずがない。」という思いを抱えて、子供時代を過ごした。

 

運動関係者や周りの大人が求めているのは、「障害児のことを思いやってくれる相手」なのかもしれない。

しかし、人生経験が僅か10年前後の子供にそれを期待するというのは酷な場合もあるのでは? 「同級生とは必ずしも場を共有していない、年齢の異なる人」は「友達」とはならないのか? 疑問に思う。 

 

ただ、私の場合、次のようなまなざしを向けてくださった年長者も現れた。幸運だった。

「確かに、夏炉冬扇ちゃんには風変りな所があるかもしれない。だけど、『見ている側の持っている常識と少し違う』のを、見ている側が『風変り』と思っただけかもしれない。『見ている側の常識』だけが正しいとは限らないかも。」というまなざしを。

例をあげる。リンク先の過去記事のことがあったとき、「夏炉冬扇ちゃんは、意味もなく場を壊そうなんてことを考える子供ではない。本人なりの何らかの事情があったのかもしれない。」という態度で接して下さった人も現れた。そのことについて、私の話もきいてくださった。私はその方々に救われた。

しかし、子供時分の私には、「その方々の態度」を意識する余裕がなかった。大学に入って、同じような経験を何度か積み重ねる幸運に恵まれた。そうしてやっと、「子供時分にも、いろいろな方々が私を助けてくださったんだ。その方々のことを忘れてはいけない。」とわかった。

 

正直な所私にとって、義務教育という場の「同世代の友達をたくさん作る」という目論見は、「負の人脈を築く」という結果を招いたと思う。

大人になった現在でも、いろいろな場で、「子供時代に同級生だった人について、いろいろと話す」という形のコミュニケーションがなされている。その種の話がなされている場にいるとき、「ああ、私、知らない場で恥ずかしいことをこんなふうにいろいろと言われまくってるんだろうな。嫌だな。」と思う。

私は、趣味で外国語教室に通っている。この教室での初日、各自が自己紹介をした。この日、「義務教育時代に接点のあった人がいない。よかった。安心して通える。」と思った。

現在交流のある人に対して、「義務教育時代にこの人たちに出会わなかったのは、運が良かった。」と思うこともよくある。

高校卒業後は、「同世代の友達」と騒がれなくなる。大学時代、学生以外の方々も私に声をかけてくださった。勿論、それ以降も「いろいろな年代の人」と接して暮らしている。

「子供には、同世代の友達がたくさんいなければならない」という見解を疑ってみること、それによって救われる可能性のある子も、いるのかもしれない。

 

「障害児」とか「同世代の友達が少ない(とみなされた)子」といった類の言葉に対して世間一般に流通している紋切型のイメージもあるのでは? その紋切型イメージによって子供を判断するという人々のまなざしや、そのような認識によって、子供が差別的処遇を受けているケースもありうるのでは? そのまなざしやイメージを、他の子供も無批判に取り込んでしまうということはないのか?

「同世代の子供」以外の人も、それらについて捉えなおすのもいいかもしれない。案外、「捉えなおしてみた側」の暮らしやすさにも繋がる可能性も、あるかもしれない。