karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

今週のお題「私のブログ・ネット大賞2016」

今週のお題「私のブログ・ネット大賞2016」

 

今年一番印象に残った記事は、はてな匿名ダイアリー2016/02/24付記事「WHY Not Smile」

http://anond.hatelabo.jp/20160224211408 である。

anond.hatelabo.jp

この記事に対して私は、コメント付きのはてなブックマークもした。

「ダメな自分も頑張れば抜け出せる」のではなく、「今のままの自分にも、気付いてなかった力がある」と認識できて自信となるのかも。「自分が欠点だと思っていたことが、意外な観点から高評価」もそれにつながりうる

というコメントを付けた。

この記事が印象に残った理由は、「自己肯定感とか他人から認められるとかいったことって、こういうことでもあるのかもしれない。」と読んだ後に思ったからだ。

 

「『自己肯定感や他人から認められた経験が、(特に成人)発達障害者の場合は乏しいことが多い。成人発達障害者の轍を踏まないように、発達障害の子供には、努力して成功した体験を積ませたり努力して褒められる経験が積み重なるようにすることが望ましい。」という類のコメントが、今まで、いろいろな場でいろいろな人から出されている。

それらのコメントを見聞きするたび、私は違和感を抱いてきた。

 

「笑顔は大切。無表情や無愛想は他人を否定する行為。『笑顔で場の雰囲気をよくして、対人関係を円滑にする。』必要がある。笑顔がぎこちなかったりわざとらしかったりするようでも、ダメ。」という言葉を、私はいろいろな場面で見聞きしてきた。発達障害関連の場で「作り笑顔習得の為のスキル」披露大会がなされるケースも、実際あった。

では、ここでいう「笑顔で雰囲気のよくなっている場」や「円滑な対人関係」では、本当に誰も否定や排除がなされないのか? 答えはノーだ。

「 Why Not Smile での、先生に悩みを打ち明ける前の状態の本人」のようなタイプの人は、言外に「否定や排除」がなされている。しかもそれは、「否定や排除」とはわかりにくい状態にある。何故ならば、「笑顔を浮かべるということは、相手の世界に寄り添うことであり、快適な場の空気を提供する行為」ということが、「日常生活における暗黙のお約束事」となっているから。そして、そのお約束事が侵されるのは「あってはならないこと」であるという前提条件ができてしまったことになる。

ここで、「ぎこちないとかわざとらしいとか思われない(作り)笑顔」ができるようになれば、とりあえず問題は解決されるじゃないかと思われるかもしれない。しかし、それだけでは終わらないと、私は思う。

「笑顔は大切で必要だキャンペーン」がエスカレートしたならば、以前なら「仏頂面ばかりだと損することもあるぞ」「そうか、わかった」程度で終わっていたものが、「(作り)笑顔のできない奴は極悪人」という方向に明示化されたものに変わっていく危険性も大なのでは? 変わっていったならば、相互監視的なものもでてきてしまうのでは? と私は思う。

 

 Why Not Smile では、先生から意外な反応が返ってきたことが書かれている。ここで先生は、「(お約束事としての)笑顔は大切という規範」と「笑顔を浮かべるという行動」以外のことを重視した発言をなさったのでは? と私は勝手に想像している。では、何を重視したのか? それは、「『規範や行動に隠れて、世間的には表面に出てこない価値基準』を意識化して、再検討する」ことである。

この「意識化、再検討」によって、「笑顔を浮かべるという行動」の意味は広がった。そして、「規範に対する評価」が違うものへと変わっていった。私はそう考える。

暗黙のお約束事に隠れた価値基準を絶対視しない態度、その価値基準その価値基準が造られていった過程や意味をいろいろな角度から考えてみること、こういった態度も重要かもしれない。「自分が欠点だと思っていたことが、意外な観点から高評価される」というのも、こういった態度の一つなのだなと思った。

こういう態度の下では、「無表情で愛想のない最低の人間」という評価だけでは終わらず、「『コミュニケーションのふくらみや楽しさ』を生み出す可能性も持つ人」という評価が生み出される可能性もある。「コミュニケーションのふくらみや楽しさ」が、以外の人にも共有される可能性もありうる。私はそう捉えている。

「いじめ・居場所・リセット」に隠れているかもしれないこと

子供のいじめを母親が1日で解決した方法 - きなこ猫のスッキリ生活

いじめられて学校へ行きたくないから自分の頭を丸坊主にした話 - うにのひとりぼっち育児日記

これらの記事を読んで、拙ブログ過去記事  図書館ツイートへの反応 - karotousen58のブログ を思い出した。この過去記事を書いたときには「ほとんど頭の中になかった事柄」が、私の頭の中に新たに浮かんできた。新たな発見を与えてくださった、リンク先記事のブロガーさん、ありがとうございます。

 

「新たな発見」とは何なのか? それは、次のことである。

1.「自分の周りにいる人は、全員が全員『自分を脅かす人』だ。自分の味方をする人なんかいないに決まっている。」という思いが、過去に私が経験したいじめの裏にあった。私はいじめのターゲットにされた経験がある。恥ずかしいことだが、他人をいじめた経験もある。どちらの立場であっても、私の場合はその思いがいじめをエスカレートさせる主因の一つだった。

2いじめの裏に「その思い」が隠れているケース、他の人が経験したいじめにもあるのかもしれない。

3.図書館ツイートへの反応 - karotousen58のブログ では、「その『逃げる』には『自分の身の安全確保が一番大切だから』という思いが付随しているのか? それとも、『負け犬は要らないから去れ』という思いが付随しているのか? 後者なら、態勢立て直しには繋がらない危険性大。」ということを書いた。前者と後者を分けるものの一つに、「1.と2.で述べた思い」があるのかもしれない。

 

子供のいじめを母親が1日で解決した方法 - きなこ猫のスッキリ生活 の記事を読んで、「私が過去にしたいじめ」を思い出した。

恥ずかしい話なのだが、私が過去にしたいじめは次のような経過をとることがあった。

誰かのことを「気に入らない」と思い、その人をいじめる。

何度かいじめた後ある日突然、いじめをすることじたいを何故かバカバカしく思うようになって、いじめをやめる。いじめをやめた後、何故か、過去にいじめていた人の長所や魅力を感じるようになってしまう。「こいつ、結構いい奴じゃないか。」というふうに。

矢印の部分に何があったのか? それは、次のようなことだったのでは? と思った。

「あ、この人の周りには『この人を脅かさない人。この人の味方でいる人』がいるんだ。だけど、私はそうではない。いじめという行動を取ったとしても、『味方のいる人とそうでない自分』を見せつけられるだけだ。」という思いが私の中に湧いてきたのでは(言語化していなかったが)? ということだ。

これも恥ずかしい話なのだが、私は、「その後改心していじめをやめる」ということをしなかった。いじめのターゲットを変えただけだった。誰かをいじめたくなったときに、「あ、私、味方のいる人に対して嫉妬しているんだな」と気付くようになったのは、高校卒業後だった。遅すぎる。

 

いじめられて学校へ行きたくないから自分の頭を丸坊主にした話 - うにのひとりぼっち育児日記 の記事を読んで、「無理に『行け』と言わないこと、居場所、リセット」に対する思いが私の頭に浮かんだ。

「無理に『行け』と言ったら駄目だよ。」「居場所やリセットは大切だよ。」という言葉は、いろいろな場で言われる。ただ、どういう思いを持ってその言葉を発しているのかが、私は気になってしまう。『自分の身の安全確保が一番大切だから』という思いか? 『負け犬は要らないから去れ』という思いか?

ということが。

この記事の「いじめられている子に大切なこと」の所を読んで、「そうか、『自分の味方なんて、誰もするはずがない』という思いは、『安全確保が一番大切』という発想を奪ってしまう怖いものなんだな。」と思った。この記事では「居場所、リセット」について書かれている。それらを「味方でいてほしい」という言葉とともに書いてくださったことがうれしい。

 

「自分の周りにいる人は、全員が全員『自分を脅かす人』だ。自分の味方をする人なんかいないに決まっている。」という思いにとらわれるのは、とても危険なことだ。

いじめと裏社会性 4 - karotousen58のブログ で、「イジメ・カッコワルイ」について書いた。

 

「私が加害者であるいじめ」に関して言えば、どう考えても「イジメ・カッコワルイ」である。 異なる他者を認める柔軟さを、欠いた行為である。 それだけではない。「いじめ以外に、もっと有意義なもの・ことを探したり没頭したりする」という発想がわたしになかった。有意義なことを探したり没頭したりする方が、私だけではなく共通の場にいる人を利することにつながると思う。 いじめによって、私は他の人を無力化しようとしたことになる。そして、私自身の無力化にもつながった。

いじめと裏社会性 4 - karotousen58のブログ

その思いにとらわれていたら、 「いじめは他人も自分も無力化する行為だ。いじめ以外に有意義なことを探したり没頭するほうが、自分を含めて共通の場にいる人を利することにつながりうる。」という発想にも、おそらくつながらないだろう。

キャンペーンお題第2弾「5年後の自分へ」

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第2弾「5年後の自分へ」

 

5年後の私も、おそらく「(発達)障害」関連のことをいろいろと考え続けていると思う。

「医療や福祉サポートの対象となる障害者本人」でもなく、「サポートする職種の人」でもない、「部外者」に近いポジションのままで。

今までこのブログで、(発達)障害についていろいろと書いてきた。書いていて、「部外者に近いポジションだから、こういう内容のものを書ける。」と思うことがしょっちゅうあった。

5年後までに書いてみたいテーマがある。

「障害者への差別や偏見は、無知によって起こる。知ることによって乗り越えられる。障害者たちと実際にふれあっていく。障害者側も声を上げ、障害問題を語る必要がある。そうすることによって、社会が障害者の存在を意識するようになる。その結果、障害者への認識や行動に変化が起こる。」

という主張に対する疑問について書いてみたい。

無知が差別や偏見の温床となっている。そのことは正しいと思う。しかし、私は思うのだ。

「知ることによって乗り越えられる」との間に、何か飛躍があるのでは? と。

その飛躍が何なのか。飛躍についてどう考えるのか。まだまとまっていない状態にある。

5年後までに、何とかまとめていきたい。

 

http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog-5th-anniversary

小学校算数「割合」を、私はどうやって勉強していたんだろう?

 

800円の5割を800÷2と求めては駄目なのか? - Togetterまとめ

私が「割合」を習ったとき、分数や小数と関連させて図示して考えてみる→「割合」に関するイメージを持つ という方法をどこかで知った(授業かそれ以外でか不明)。イメージで捉えたら「2で割るのは自然」と思えるが。

2016/11/13 01:26

 あれれ、ブコメでは「2で割るのはアウト。飛躍があるから。」派が意外と多いんだな。

1.私が採点者だったら、「『手続き的に公式に数字を入れて計算』も間違いではないけど、『800円の5割ということは、800円の半分だな』とイメージできていたらもっとうれしいな。」と思って採点するぞ。

2.「5割という言葉から、すぐに半分をイメージ。2割や2割5分からもすぐに、5分の1や4分の1をイメージ。3割という言葉からすぐに、『3分の1より少し小さいな』とイメージ。」これらの感覚って、結構重要だと私は思うのだが?

3.元記事では、「800×0.5と書くのは一般的だが、800÷2と書くのは途中式の省略であり好ましくない。」という意見もみられる。ここで「×0.5」という表現が出てきたことにも疑問あり。

「100分の50(注 これを分数で表記)をかける」という表現(小数ではなく分数を使う表現)のほうが、割合についてイメージしやすいのでは? 小数を使うように指導があるのだろうか? この「一般的な書き方」だけを教えられたら、小5(注 私は「割合」をこの学年で習った)時代の私なら理解できなかったかもしれない。 

と、元記事とブクマを読んで私は思った。

 

子供の頃を思い出すに、私はこの「一般的な書き方」をしていなかったと思う。分数を使って解いていた。複雑な問題になったら、図を書いて考えることにしていた。習いたての頃は、簡単な問題でも、分数に変えて図に書いていた。「図を書いて考える」ことを何度かやっていて、2.で書いたイメージがすぐに頭に浮かぶようになったのだと思う。

また、「割合」に関連したことは日常生活でもよくでてくる。

・テレビのスポーツニュースで「プロ野球の順位表です。○○(注 チーム名)は今日勝って、勝率を5割としました。」とアナウンサーが話した。→「○○の勝ち数と負け数を見て、『確かに半分だ』」と思った。

プロ野球開幕戦で4打数1安打だった選手がいた。この時点での打率は2割5分と新聞に出ていた。→「確かに4分の1だ」と思った。

・スーパーのお買い物上手コーナーに、値引きシールの貼られた品物が置かれている。それを見て、「2割引シールだから、××円安くなる」と思った。

等といった、「日常生活と関連させて、無意識のうちに学んでいた」という経験も重要だったと思う。

 

「図を書いてみる」「小数ではなく分数を使う」「日常生活と関連させてみる」という方法を、私は何処で知ったのだろうか? 教科書や授業で扱われていたのか、児童書で知ったのか、はっきりと覚えていない。

「公式があります。公式を使って解けないようじゃ理解したとはいえません。」的な方針だけでこの単元を勉強していたら、おそらく私は割合の計算ができなかっただろう。そして、この単元が嫌いになっていただろう。

そういえば、小学校高学年の頃、算数ノートのことで担任や親によく怒られていたな。

「算数の問題を解くときに、図を書いて考える」という方法を、当時の私もよく使っていた。しかし、私は絵が下手すぎた。私の書いた図を見て、担任や親は怒った。「そんなノートは幼稚だ。やめろ。」と。親は更に続けた。「いちいち図なんかかかないと、解けないのか。」と。

ただ、私は運が良かった。当時読んでいた子供向け雑誌に、算数文章題に関する記事が出ていた。それを読めたのは運が良かった。記事には次のように書かれていた。

「問題文を読んだだけでは何をどうやっていいかわからない難しそうな問題でも、図を書いて考えると分かりやすくなることがあるよ。図を書いて考えていくうちに、力がついていくものだよ。授業で習ったことを他の事柄と関連させて考えてみるのも、力をつけることにつながるし楽しいよ。」と。

この子供向け雑誌が大好きだった私は、担任や親の言葉よりもこの記事を信じることにした。もしも、この記事を読む機会がなかったら私はどうなっていたのだろう? この記事を私に届けてくださった方々に感謝する。

 

日常生活と関連した学びや図を書いて考えた経験を重ねていって、「テストのときも、2.で書いたイメージを使って計算する習慣がついてしまった」子供って、いないんだろうか? 

「そういう習慣がついて、テストでもそれを使って解いた」ことを「表現力がない」「これじゃ算数のテストではない」と解釈されたら、私なら残念に思う。

もしも誤答とされたなら、「きちんとした計算方法がわかっていないのに、経験則で答えた結果オーライの答案」と決めつけないで、フォローする必要があると思う。

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第1弾「はてなブロガーに5つの質問」

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第1弾「はてなブロガーに5つの質問」

1. はてなブログを始めたきっかけは何ですか?

 

karotousen58.hatenablog.com

2.ブログ名の由来を教えて!

 夏炉冬扇という言葉をはてなidにした理由

karotousen58.hatenablog.com

「はずみでついてしまったid名だ。こうなりゃ、ブログ名にもこのidを入れよう。」と思った。

 

3.自分のブログで一番オススメの記事

 

karotousen58.hatenablog.com

ネットを始めた頃、「地域による違いを、いろいろと知ることができるんだな。」と思った。「地域による違い」を楽しんで書いたのがこの記事。

日本昔話は、地域や語り手によって内容が微妙に違ってくることがある。私は鳥取県在住である。「このお話は、鳥取県ではこのような内容になっている。」なんてことを話す機会は、オフラインではほとんどない。

4.はてなブログを書いていて良かったこと・気づいたこと

拙ブログにたどり着いた「検索ワード」をもとにして、検索してみる→面白い記事が見つかる

という経験ができるのが、一番良かったことである。

「こんなくだらん記事が発端となって、他のサイトの面白い記事が見つかる」というのは、不思議で面白い体験である。

karotousen58.hatenablog.com

5.はてなブログに一言

はてなブログトップページに、「新着エントリー」復活を希望します。

karotousen58.hatenablog.com

 

 

電子レンジで思い出したこと

 

「レンジで字が消える!」というYouTube動画を真似した息子がノートを黒焦げにした話 - give IT a try

電子レンジじたい、使い方に注意が必要。昔、甥が「焼き芋を温めようとしたら、煙が出た」と言った。母がアルミホイルを入れたこと有。「さつまいも 電子レンジ 発火」検索で http://www.city.osaka.lg.jp/shobo/page/0000169580.html

2016/10/26 21:43

ブックマーク元記事のブログ主や息子さんや動画投稿者を問題化するのではなく、「電子レンジの使い方がまずいと危険」という情報が知られていない(と私には思える)ことにも、着目する必要ありと思った。 

ブックマーク元記事を読んで私が最初に思ったのは、「電子レンジで加熱してよいものか否か、入れる前に迷わないのだろうか?」だった。しかし、続けて次のことも頭に浮かんだ。

・そうか。そういえば私の家族が家で電子レンジを初めて使ったのは、平成に入ってからだった。卵を入れてはいけないとかいった類のわずかな情報しか知らなかったから、使ってはいけない容器とか加熱に注意を要する食材とか最初に説明書を読んで確認したんだった。使用目的も限られていたんだった。

・一方、若い人の場合は『子供の頃からうちにあった家電で、使うときに説明書を意識する必要はなかった』ケースが多いのかもしれない。『電子レンジであたためて使う湯たんぽ』など、料理や食事以外の目的で使ったことのある人も多いのかもしれない。

 

ブックマークコメントを読んで、「電子レンジの使い方がまずかったことが原因で、起こった火災」について見聞きしたことのある人は少ないのかな? とも思った。

続いて、「電子レンジに関連した、子供向け科学記事」を探してみた。意外と見つからない。

「そういえば、子供の頃学校にあった『少年写真ニュース』の類や子供向け科学の本でも、『電子レンジの科学』といった記事を読んだ覚えがない気がする。」と思った。(「家に電子レンジがなかったから、記事があっても印象に残らなかった」のかもしれないが。)

 

私が「使い方を間違えると、電子レンジも危険な家電になりうる」と初めて意識したのは、私の母がアルミホイルを入れて加熱したときだった。そのとき、私の家には私の甥(当時中学生)が遊びに来ていた。甥が「ピザが食べたい」と言ったので、母がアルミホイルにピザをのせて電子レンジのスイッチを入れた。

そして、母が大声で私を呼んだ。「怖い」と。扉を開けずあたためを中止し、電源プラグを抜いた。火はすぐにおさまったから、加熱してすぐに異変に気付いたのだと思う。もしも、加熱開始直後に母がその場を離れていたら、母と甥以外は家に誰もいなかったら、どうなっていたか? 想像すると怖い。

後で「アルミホイルを入れるなんて怖いこと、これまでやってたのか?」と私は母に訊いた。

そのとき甥が言った。「僕も焼き芋をあたためようとして、火や煙がでて怖かったことがある。」と。

これを聞いて、母と甥と私とで、電子レンジの説明書を確認してみた。

「水分の少ない食材を加熱する場合は、水分が蒸発してカラカラになって焦げやすくなり、加熱が進むと煙が出たり発火する場合がある。」「あんまんや焼き芋なども水分が少ないので焦げやすい」と書かれていた。

甥が打ち明けてくれて、「水分が少ない食材の加熱」について強く意識することができた。市販のあんまん等はパッケージに、「水で濡らしてラップをして電子レンジで加熱」というふうに書いてある。「これは、水分が少ない食材ということが背景になっているのだな」と思った。子供に対しては、この背景についても説明したほうがいいと思った。

 

電子レンジ使用時の注意点については、 http://www.sharp.co.jp/support/safety/doc/mw_oven-caution.pdf にわかりやすく書かれている。理論的背景についても説明がある。また、「生クリームやヨーグルトなど油分の多い食品は加熱しない」「少量の食品加熱も要注意」も付け加える必要がある。

「電子レンジ 発火」で検索すると、写真や動画を使って説明した記事も見つかる。

ブックマークコメントは、ネットリテラシー関連コメントが多い。しかし、それだけではなく、「電子レンジの不適切な使い方が原因で起こりうる発火」に関する知識も周知させたほうがいいと思った。

「最近あった、修学旅行での溺死」について思うこと

 

小6女児、修学旅行先で溺死 ホテルで入浴中 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

"6月に自宅で入浴した際に意識がもうろうとし、9月に入ってからも気分が悪くなったことがあり"が気になる。2度目のとき、きちんとした診察を受けたのか?学校側はそれを把握か?他者に気付かれにくい意識消失もある

2016/10/02 02:51

現段階では、 この溺死について、地元マスコミでは詳しい報道はなされていない状態にある。6月から9月の、本人や周りの人の状況が私は気になっている。

私はてんかん患者。「一歩間違えたら似たようなことになっていたかもしれない、てんかん患者」の話を、私は何度か聞いたことがある。私もその中の一人である。(注 「小学生がてんかんを持っていた」と決めつけるわけではない。)

医療的なことについては、Ponta08さんのブログ記事 「小6女児、修学旅行先で溺死」についての見解 - ネットの情報に惑わされない病気の見方 と  「小6女児、修学旅行先で溺死」についての見解 - ネットの情報に惑わされない病気の見方 で、丁寧な説明がなされている。(注 「てんかん」についての説明記事ではない。)

 

溺死した小学生の体の状態に関する記述は、ネットニュース発表の時刻によって微妙にトーンが変わっている。これも気になる。

では、てんかん患者が「一歩間違えたら似たようなことになっていたかもしれない」と認識した理由は何なのか? それについてこれから書く。

本人、家族(特に親)、周りの人(特に学校関係者)に誰一人として悪い人がいるわけではない。むしろ、誰もが、「他者の心を傷つけないように、お互いが空気を読みあって接している」状態にあると思われる。

だが、この「傷つけない、空気を読みあう」状態が、「本人、家族(特に親)、周りの人(特に学校関係者)という集団内にとんでもない力学」を発生させてしまうことがある。

とんでもない力学とは何であるか? それは、「受診なんて大袈裟。貧血やのぼせなんて、成長期の子にはよくある話。」という認識に走らせてしまうことである。「次にあげる3つの事柄が重なって、この力学が発生」した話を、てんかん患者から私は聞いている。

・「てんかんという病名は、社会的に偏見が持たれている。この病気を持っている可能性を、認めたくない。」という思いを家族(特に親)や周りの人(特に学校関係者)が持っている

・「ただの貧血、ただののぼせ。成長期の子にはありがちなこと。過保護はだめ。」という類の発言が、影響力の強そうな人からなされる。複数人からなされることもある。

てんかん発作の場合、患者本人には発作当時のことがわかっていないことが多い。だから、意識もうろう状態等について本人がわかっていない。

 

てんかん等の疾患を否定したい」という思いを家族(特に親)が持っている場合、周りの人が「おたくのお子さん、ひょっとしたらてんかんが隠れているかもしれません」といった類の言葉をかけるとなると、やはり「言葉をかけられる側にショックを与えない物言い」等について考える必要が出てくる。

言葉をかける側も、「ショックを与える冷酷な人」になることはやはり避けたい。

発作(と思われるもの)の起きた本人に対しても、「てんかんを疑わせる情報」を正直に話しづらいということらしい。私が話を聞いたてんかん患者も、「発作のときの詳しい情報は、教えてもらえなかった。」「『受験とか、ストレスがたまっただけだよ。心配しないで。』としか言われなかった。」と答える人多数。

そして、こういう状態で、「成長期の子にはありがちなこと。大袈裟だ。」という発言が、影響力の大きい人や多数の人からなされたら、親や教師が動揺してしまうこともありうる。

こういう条件が重なって、

受診なんて大袈裟と、親や教師が思い込んでしまう→隠れていたてんかんが見逃されてしまう→その後、悪化してから発覚 

というルートを辿ってしまう。

 

てんかんの場合、最初に起こった発作だけでは「てんかん」という診断名は、通常の場合つかない。経過観察はなされるが。だから、2度目の発作らしきものが見られたら要注意。患者の感覚としては、これは「常識」である。

しかし、患者本人以外の人にとっては「最初の受診で診断名がつかなかったのだから」と解釈されてしまう、そういう危険性もあるのかな? とも思った。

また、てんかん発作は、「全身痙攣や意識消失」が起こるものだけではない。「ただのたちくらみ」とか「ただの頭痛」とか「疲れて、一瞬ボーっとしていただけ」と片づけられていたものが、実はてんかん発作だったということもある。これらが見逃されやすい(受診なんて大袈裟という認識につながる危険性あり)ことにも要注意。

 

「いくらなんでも、『受診なんて大袈裟』という認識に至るのは楽観的すぎるのでは?」と思う人がいるかもしれない。

しかし、実際にその事態となって、「てんかんという病名を否定」という認識に走った人は、ネット上でもリアルでもかなり存在する。

過去記事  てんかん患者と家族 - karotousen58のブログ でも書いたが、てんかんと間違えやすい病気に「心因性てんかん性発作」がある。「てんかんではなくて、単なる心因性てんかん性発作なんだ。心因性だから、本人の気の持ちようでなんとかなる。」と家族が決めつけてしまうケースに、何度か私は遭遇している。

心因性と決めつけるのは危険です。受診が必要です。小さい発作は特に見逃されやすいし。もしもてんかんだったら、悪化しないうちに見つかって治療するほうが予後がいいです。」と私が何度言っても、「否、心因性に決まっています。」という言葉が返ってきたということも何度かある。特に、小さい発作は否認されやすい。

私も、家族から「心因性てんかん性発作」と決めつけられ続けている。「てんかんは、知的障害者に見られる病気。(自称)進学校といわれている高校に通っていたんだから、てんかんなんてありえない。」と、今でも私は言われている。そのたび、「それはてんかんについての誤解」と私は説明しようとする。しかし、家族は取り合わない。

 

「同級生は誰も気が付かなかったのか?」というコメントも、ネット上ではあげられていた。

同級生を責めることはできない。「誰も気が付かない」ということはありうる。見逃されやすい発作は特に。

 

「この事故について、誰かを責める」という行動を、私は取ってほしくない。ただ、「隠れていた疾患が見逃されてしまう」事態を防ぐこと、これを考える必要がある。そう思ったからこの記事を書いた。