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「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

「『病気や障害の受容』(とやら)が出来ていない」と言われるけどさ 1

 

口唇口蓋裂を受け入れられなかった家族 : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

家族の感情を、私的行為として切捨てなら疑問。それを引き起こした原因の1つは、「身体的差異への社会的意味づけによって起こされる、否定的感情」では?その場合、政治的公的な問題(障害の社会的制約)としても要検討

2017/11/18 02:15

  

はてなブックマーク - 口唇口蓋裂を受け入れられなかった家族 : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

"治すことができます"の内容は、医師と世間一般とで認識が異ならないか?私はてんかん患者。てんかんの場合は異なっている場合多。「治る」の世間一般認識は「薬なしで発作も無」。医師側は「薬で発作抑制」認識

2017/11/18 02:46

 Yahoo!ニュースについたブクマ。こちらのほうがコメント多数。元記事が削除されている。

はてなブックマーク - 奇形の顔「受け入れられない」…家族が手術拒否、ミルク飲めず赤ちゃん餓死 (読売新聞(ヨミドクター)) - Yahoo!ニュース

はてなブックマーク - はてなブックマーク - 奇形の顔「受け入れられない」…家族が手術拒否、ミルク飲めず赤ちゃん餓死 (読売新聞(ヨミドクター)) - Yahoo!ニュース

 

断っておくが、この家族が取った行動を私は支持しない。ただ、「治るんだから問題ないだろ」トーンのコメントや 元記事の一部に疑問を感じる。

患者や家族以外の人には、「治る」という言葉は「客観的な表現」と解釈されているのかもしれない。しかし、私にはそうとは思えない。「強い権力を有する側から発された、『治る』という言葉」が、「しばしば政治的意味を持つ(客観的ではなく、個人的主観的世界に基づいたものとして作用する)」ことがある。

「治る」の定義権を握っているのは、患者の側ではない。また、「診断名が付く、告知する」という行為は「医学的事実」を述べているだけではないことも多い。社会的処遇についての所見も同時に述べることになる場合も多いからだ。例えば、「インフルエンザ」という診断名ならば、「『解熱後2日が経過かつ発症後5日が経過』という条件を満たさないと、登校できない」というふうに。

この「社会的処遇」が「医学的処置」だけで決定されるとは、私には思えない。多くの「社会的な要因」や「いろいろな人による、異なる状況判断」が入り込むと思う。「入り込んだもの」の中に、家族を追い詰めたものがないのか? それも考える必要があると思う。

元記事の次の部分に、私は疑問を感じている。

考えたくはありませんが、もしや医師の中にも、手術を拒否した家族に共感した人がいた、ということはないでしょうか?

 私は今になって思います。もっと別な方法はなかったのだろうかと。たとえば、障害とともに生きている子どもとか、先天性の病気を治して生きている子どもやその親たちを実際に見てもらえば、赤ちゃんの家族も手術を受けさせる気になったのではないか。

私は、家族の行動を支持できない。しかし、「行動の裏に隠れていた感情」を、「ひどい人が持っていた、私的な感情。この感情に共感する人は残酷。」として切り捨てたくない。「行動の裏に隠れていた感情」のうちの一つが、「『身体的差異に対する社会的な意味づけ(特に、スティグマ的なもの)』によって起こされる、否定的感情」だったのでは? と私はひそかに疑っている。

更に、「社会的な意味づけ(特に、スティグマ的なもの)」にまつわる困難の軽減や解消は、本人だけに課されるものなのか? 「そうせざるをえなかった人が生み出した『対処方法の豊かさ』を高く評価することによって、そうせざるを得ない状況に追いやった社会を免罪」方向に拍車がかかる危険性はないのか? という疑問が私の中にある。

 

私はてんかん患者。「赤ちゃんの顔を受け入れられない」という記述で、「てんかん発作はグロテスクだから受け入れられない」といろいろな人から言われたことを思い出した。また、「治るんだから問題ないだろ」トーンのコメントで、「薬を飲みさえすれば、てんかんは治る」という言葉に隠れた「医学的処置」「社会的な要因」「いろいろな人による、異なる状況判断」に振り回された過去を思い出した。

これらの経験から、「『身体的差異に対する社会的な意味づけ(特に、スティグマ的なもの)』によって起こされる、否定的感情」は、この家族にだけ存在するものとは私には思えない。また、「社会を免罪」空気も感じる。

 

「『病気や障害の受容』(とやら)が できていない」という類の発言が、患者や家族に対してなされることがしばしばある。その際、「患者や家族の中にあるかもしれない思いを、想像してみよう」という態度が取られることは稀だと私は思っている。「前向きに受け止めればいいだけじゃありませんか。差別というのも、後ろ向きな感情の問題ですよ。」というふうに処理されることが、しょっちゅうある。

では、「患者や家族の中にあるかもしれない思い」とはどんなものなのか? 私の場合は、次のような思いについて考える必要があった。

  1. 「治る」というのはどういうことなのか? 医師や家族や周囲の人が語る「治る」像が、時や場所や場合が変わると二転三転するぞ。
  2. 「治るんだからいいでしょ」という言葉が、患者を黙らせるために使われるケースもある。
  3. 合理的配慮を受けるには、自分に障害や病気があることを相手に知らせる必要がある。しかし、そのことが差別や偏見につながる場合もある(特に、外部からはわかりにくい障害や病気)。こうした状況では、差別や偏見のリスクと引き換えに合理的配慮を要求するか否かという、苦しい選択を迫られる。
  4. 「相手に知らせる努力や自助努力は不要」と主張しているわけではない。ただ、それを担っているのが「もっぱら個人である」というのはどうなのか?

 元記事に出ていた「食道閉鎖や口唇口蓋裂」について、1.や2.の追い詰め方がなされていないか? それが気になる。

 

私の経験について書く。

 1981年、高2のときに発症。当時、てんかんの人は自動車運転免許取得が禁止されていた。取得が認められていない資格や就くことができない職業も少なからず存在した。当時は、薬剤師などの医療系資格も取得できなかった(制度上は、大学や短大の医療系学部への進学と資格試験合格は可能だった。しかし、資格取得は禁止されていた)。

患者によっては、「家族の持つ偏見」という条件も加わる。私の親もそうだった(今でもそう)。「おまえのはてんかんなんかではなく、心因性てんかん性発作だ。」と今でも言い続けている。高校へ提出する診断書には、「てんかんではなく「けいれん発作」と書くように、親が希望した。主治医も、私には病名をはっきりと告げなかった。

「ほぼ間違いなく、てんかんだろうな。病院で受ける検査用書類に『抗てんかん剤』と書いてあるし。てんかん関連の本で見た、検査や治療方針から考えても。」と私は思っていたが。

そして、月1回地元の総合病院への通院が義務付けられていた。その診療科で診察がなされるのは火曜と木曜だけだった。だから、特定の曜日の授業を欠席することになった。また、水泳やマラソンや登山や一部の校外行事への参加を禁止された。そのことについて、高校に報告する必要が出てきた。

親は私に、「学校には、てんかんなんて言うな。」と命令した。この病名を隠した報告を試みたら、特定曜日の授業担当教諭や体育教師や担任から、嫌疑をかけられた。「校外行事をサボってガリ勉か。」と嫌味を言われたこともあった。

 

1.てんかんの場合、「薬を飲みさえすれば治る」という物言いがなされることが多い。私もそのように主治医から言われた。

だが、当時は、「どういう状態になることを以て『治る』というのか?」これがあいまいにされてしまうことがほとんどだった。「薬を飲みさえすれば治る」と告げられた直後に、「自動車運転免許を取ってはダメだよ」とも告げられた。「本当に治るのなら、ずっと後に自動車運転免許が取れるはずだろ? 」「結局、病名はてんかんなのか? それとも違うものなのか? てんかんだからダメということなんだろ?」と私は思った。

主治医に尋ねたら、「『治る』というのは、『服薬によって、発作が長期間起こらない状態が続くこと』」という答えだった。「長期間」という表現が、曖昧ないいかげんなものに私には思えた。

自動車運転免許との関係について尋ねたら、「自動車運転免許が取れるのは、『薬を飲まなくても発作が起こらない』場合だけ。だからあきらめなさい。」という答えだった。

「それなら、『治らない』と考えたほうが正しいということですか?」と「結局、病名はてんかんなのですか?」と私は尋ねた。主治医は答えた。「世間一般の『治る』は、薬を飲まなくてもよくなることなの。あなたはしつこい。」と。

 高2といえば、多くの人にとっては将来への具体的進路検討や決定と重なる時期である。私は理数系科目が好きだった。担任は私に、医療系学部進学を勧めた。親もそれに賛成した。てんかんだと、医療系資格は取れなくなる。だから私は、医療系進路を拒んだ。

親が偏見を持っているから、高校には病名を明かせない。病名を知らない高校側は、医療系学部進学に対して障壁はないと考えただろう。「てんかん」を認めない親も、「医療系資格が取れない」なんてことは夢にも思っていなかっただろう。

てんかんだと医療系資格が取れない」ことを、確認する必要がある。私はそう考えて、主治医に相談した。しかし、このときも主治医は「治る」解釈を変えてきた。

「薬を飲んで発作が長期間起こらないのなら、入学も資格試験合格もできる。だから、進学に問題はない。資格取得についてはその後の問題。」という答えが返った。それなら、私の病気は「てんかん」ではないということなのか? てんかんではないのなら、自動車運転免許関連話のときと説明が矛盾するぞ。私は思った。しかし、そのときも病名はうやむやにされた。

 

2.「『治るんだからいいでしょ』という言葉が、患者を黙らせるために使われるケース」について

「薬を飲みさえすれば、発作は起こらなくなる。そして普通に暮らせる。つまり、治るんだからいいでしょ。」と世間一般では思われているようだ。
本当のことを言うと、この言葉は正しいとは言い切れない。
しかし、「正しいとは言い切れない」という発言を、患者本人や患者の家族がすることは、タブーとされている。

「治るんだからいいでしょ」という言葉によって、次の3つの事柄は「存在しない」ことにされてしまう。

  • 「薬を飲んでいても、発作が出てしまう」難治性のてんかん患者もいること
  • 障害者手帳障害年金などを検討しようにも、「薬飲みさえすれば、普通に暮らせるんでしょ」で片づけられて利用できないケースが多いこと
  • 服薬中の状態にある場合でも、移動手段等について便宜がはかられることがほとんどないこと

「薬を飲んでいても、発作が出てしまう」難治性の患者は、本当に隠された存在になっている。
30年以上前からの患者である私でも、ネットが普及して初めて、難治性の患者によるコメントを知ったぐらいだから。彼(女)らのほとんどが、「ネットが普及して初めて、意見を発表できるようになった。『きちんと服薬しているが、時々発作がある』発言は、リアルでは許してもらえない。」と書いていた。

(念のための注 ネット上の記述を読む限りでは、その難治性患者らが不摂生な生活をしていたとは思えない。むしろ、きちんとした生活習慣を心がけていたと思われる人がほとんどだった。)
難治性の患者が、タブーを犯して発言→他の患者や患者の家族や、医療関係者から叩かれる→ブログやサイトを閉鎖
という実例を、私は何度か見た。

その後、「全身けいれんではないタイプの発作」や「薬を飲んでいても、発作が出てしまう」患者について、思いもよらないことがきっかけで可視化されてしまった。2012年4月、京都祇園でのワゴン車暴走事故である。逆に言うと、この事故までずっと、「隠された存在だった」ということになる。

「他の人に、余分なことをベラベラしゃべるんじゃありません。『発作は派手だけど服薬さえすればいいのです』これ以外のことは、知られなくていいのです。」と彼(女)らは言われまくっていたらしい(ネット上の記述によると)。

 

3.配慮や「相手に知らせる努力」について

 日本の田舎では、「成人は車を運転することが前提となっている」と言わんばかりの生活設計がなされている。日本の田舎に住んでいる成人が自動車運転免許を持たない場合、「持たない理由を説明する責任」を課せられることになる。

田舎では、「自動車運転免許を持たない人が職を得る」ことは困難である。職を得たとしても、業務の上でいろいろと支障をきたすことがある。「取らなきゃ不便だよ。あなたのために忠告しているんだよ。」という言葉、いろいろな人から発せられる。取らない理由もしょっちゅう訊かれる。

他の人が運転する車に同乗する際に次の言葉を浴びたことのある人を、私は複数知っている。「加害者になる危険性を持たないポジションにいられる、優雅なご身分だな。そこまでして善人ヅラしたいのか。」

かと言って、病名をカミングアウトするのも危険である。解雇される危険性が高い。病名を隠したうえで取らない理由を説明する、ややこしいことになる。

もう一つ。運転免許証は、本人確認書類としてよく利用される。田舎では、本人確認書類として運転免許証以外のものを提示すると、嫌な顔をされる。
「運転免許証が取れないような、変な理由を持った奴に違いない」という認識がなされるらしい。

 

長々と書いたが、今回の記事で主張したかったのは次のことである。

  • 「病気や障害/そうではない状態」の間に引かれている(と思われている)境界。境界の移動を決めるのは「医学的処置」だけではない。「社会的な要因」や「いろいろな人による、異なる状況判断」も多く入り込んでいる。
  • その「多く入り込んだもの」にまつわる困難が存在するのでは? そしてそれらの解消や軽減は本人や家族だけがするものなのか? それらの検討を外して「病気や障害の受容」と主張するのなら、無理がある。 
  • それらの検討がなされない場合、「そうせざるをえなかった人が生み出した『対処方法の豊かさ』を高く評価することによって、そうせざるを得ない状況に追いやった社会を免罪」方向に拍車がかかる危険性がある。

次回は、「拍車がかかる危険性」などについて詳しく書く予定。

「得意と言えるようにしたいが、うまくいかない」料理

今週のお題「得意料理」

 

正しく言うと、「得意と言えるようにしたいが、うまくいかない」料理である。

それは「ナムル」である。

ナムルについて私は、「野菜をたくさん食べることができて体によさそう」というイメージを持っている。

 

私は所謂「メシマズ」家庭で育った。親は嫌いな食べ物が多い。特に野菜と乳製品を嫌っている。硬い食べ物やにおいの強い食べ物も嫌う。また、1970~1980年代にかけて、マスコミで「塩分の取りすぎはいけませんよ」キャンペーンが盛んに行われていた。親はこのキャンペーンを拡大解釈している。香辛料も嫌う。

「野菜も食べないといけないから、浅漬けも出しとくよ」などと言っても、「塩分は体に悪い」と言い訳をして食べたがらない。

親が高齢になって、「介護食」なるものも意識する必要がでてきた。こういうときに、「嫌いな食べ物の多い親」だといろいろと面倒なことになる。

うちの場合、特に「カルシウム」を取らせることに難儀している。乳製品なしでカルシウムを取るとなると、高野豆腐や野菜等から取ることを考えなければならない。また、野菜は生で食べるよりも加熱して食べるほうがたくさん食べられる。

そこで、「うちの親でも食べやすいナムル」って作れないだろうか? と思うようになった。

 

私がナムルなる料理を初めて知ったのは、1992年。バルセロナオリンピック直前に買った料理本で知った。

当時、私は一人暮らしをしていた。どんな味がするのか知りたくて、試しに作ってみた。正直言ってマズかった。私の料理が下手だったからであるが。その後、しばらくの間ナムルを作ることはなかった。

10年近く前、スーパーマーケットのお買い物上手コーナーで「ナムルの素」を見た。

「これで作ったら、おいしいかもしれない。」と思ったから、買って使ってみた。

「おいしい。初めて作ったときにマズかったのは、私が料理下手だからだ。」とわかった。

 

カルシウムの多い野菜といえば、小松菜、チンゲンサイ、オクラ、ホウレンソウなどがある。これらのナムルについても、検索すればレシピが見つかる。

検索すると「ニンニク抜きナムル」のレシピも見つかる。体質的にニンニクと相性の悪い(例 胃があまり丈夫でない)人もナムルを楽しめそうだ。

ただし、「料理の上手な人なら」という条件がつくことになる。私は料理が下手。市販の「ナムルの素」を使わないとうまく作れない。自力でおいしいナムルを作れるようになりたい。

今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」

今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」

 

ブログ名の下にブログの説明がある。

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

である。この矢印部分でいろいろなことが私の中で起こる。

そのプロセスが興味深いと思えたときや、そのプロセスについて「現段階ではうまくまとまらないが、なんとかしてまとめたい」と思ったときに、私はブログを書きたくなる。

この矢印部分でしょっちゅう頭に浮かぶのは、「『普通』と『排除』の関係性」や「『普通』の持つ権力性」である。

「普通」って何なのさ? とか 「普通」と「排除」の間にあるものが気になるぞ とかいったことが発端となるケースが多い。

 

「そんなもの(こと)が好きなんて変。普通はそんなもの(こと)好きになるはずがない。普通の人が好きになるもの(こと)を好きにならなきゃいけません。」

私が子供の頃、当時身近にいた(多数の)大人からしょっちゅう言われていた言葉である。子供の頃の私は、この言葉がとても怖かった。そして、この言葉に囚われていた。高校卒業までずっと、「私が考えたり感じたりすることに、ロクなものなんかない。考えたり感じたりしたことが他の人にバレたら、こっぴどく否定されるに決まっている。」と思っていた。

大学入学後、おそるおそる自分の考えや感情を他の人の前で出してみた。そうでもしないと、間が持たなかったからだ。実際にやってみて、「私の考えたり感じたりしたこと全部が全部、否定されるとは限らない」とわかった。

逆に、面白がってくれる人が出てくることもあった。

こういう経験を何度か積んだからだろうか、今では、「変」という言葉について考えることが、子供の頃とは違う意味を持つようになった。

 

「変だ」と思ったとき、それで終わらない。

「何故、どこが、どのように変?」「『変』と思ったものやことの内実は、本当に変なのか?」「『変』と思った私の感覚や常識は、『変』ではないと言い切れるのか?」

など、いろいろな推論を暴走させていくこと。私にとっては、それが面白い。

池田中学自殺事件・「力による支配を安易に容認」空気・閉鎖環境 4

   

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2017/10/19 23:55

 今回は、「感情理解や他者への配慮も、確かに大切なこと。しかし、『それだけでは解決困難』という場合もよくある。」ということについて書く。過去記事 いじめと裏社会性 3 - karotousen58のブログでも少しふれている。

 

 

トラブルにあったとき、どう対処するか?

「トラブルの全体像を把握し、自分にとっての安全策を練る。自分に落ち度がなかったか否かを考えるのはその後。」という対処法が考えられる。

しかし、自分自身を必要以上に厳しく見つめることに慣らされた人の場合は、この対処法を取るのが困難となってしまう。

トラブルの全体像を探る余裕も、善後策を練る余裕もない。ましてや、自分自身の身を守る策を練る(よい意味での)ずるさもない。自分自身の落度(と本人がみなしたもの)に脅えきって、頭の中が真っ白になってしまうだけである。

いじめと裏社会性 3 - karotousen58のブログ

  

トラブルにあったときの対処スキルを磨くには、何が必要か?

それが、いじめと裏社会性 1 - karotousen58のブログで述べた「裏社会性」である。

いじめと裏社会性 1 - karotousen58のブログであげたいじめ・不登校総合対策センター/とりネット/鳥取県公式サイトでは、対人交流について美しく語られている。 そのサイトに限らず、対人交流では、「心が開かれた」とか「他の人と仲良くなれた」とかいう表現がしばしばよいものとして語られる。

しかし、私は考える。対人交流はそのような美しいものだけで成り立っているものではないと。

・自分を見せなくすること ・他人と距離(物理的・心理的両方の意味)を置くこと ・他人を疑うこと ・他人を選り好みすること ・他人に怒りを感じること ・他人を嫌うこと ・ウラとオモテを使い分けて人と接すること ・上手に嘘をつくこと などの、ブラックな面も対人交流には最低限必要であると。

このブラックな面は、「窮地に追い込まれたときに、自分の身を守る」上で必要だと、私は考える。 これらの事柄を私は、「裏社会性」とよんでいる。

裏社会性は、

・必要最小限なら、認められる。心の中で思うだけなら悪とは言えない。

・心の中で思うにとどまらないで、自分も他の人も傷つける行動に出るのならまずい。

という条件のもとで、対人交流に必要になると思う。

いじめと裏社会性 3 - karotousen58のブログ

つまり、「感情理解や他者への配慮について考えるだけでは、窮地に追い込まれたときの対処スキルを身につけることは困難。本人は、『対人交流のブラックな面』についていろいろと向き合っていく必要に迫られている。」ということである。

  •  逃げることが極めて困難、或は、一応可能だが逃げた場合には多大な不利益を被る危険性が大きい場で
  • 地位や権力が非対称な関係の、圧倒的下位にあって
  • 徹底的な自己否定を反復継続することを強要される

 という状態に、この生徒はおかれていたと考えられる。この環境は、無実でも自白してしまう、冤罪が生まれるメカニズム」の存在する環境と似ている。「当該生徒は傷つきやすい子」という認識には、「誘導によってなされた虚偽自白」的な面も隠れているのでは? 私はそう思っている。

「無実でも自白してしまう、冤罪が生まれるメカニズム」について書かれた本に、『心はなぜ不自由なのか』(浜田寿美男 著 PHP新書)がある。私はこの本について、次のように解釈している。

取り調べの場では、事件とは直接関係のないこと(例えば、過去の出来事や身近な人との関係のことなど)まで話題にされ、責任を追及されたり罪悪感を刺激されたりする。そしてこれが何度も繰り返される。また、時間的な展望が持てない」という要因も大きい。「いついつまでがんばったら、解決する」とわかっている場合とそうでない場合では、影響力が大きく異なる。

そして、自白に落ちてしまってからは、「虚偽自白に基づいた犯行ストーリーをどんどん語っていく」という事態になってしまう。「実際には犯行をやっていないにもかかわらず、自発的に(←ここ重要)犯行ストーリーに自分自身を合わせてしまうようになってしまう」事態が生まれる。「話せば話すほど、自分がどんどん犯人らしくなっていくように思えた。」という言葉は、虚偽自白をした人からよく語られる。

→冤罪や虚偽自白とまではいかなくても、地位や権力が圧倒的に上位にある人から執拗に、「人格否定や、言動についてを否定される」ことがなされた場合も似たようなことが起こりうる。「そうさ、自分は傷つきやすい無力な子さ。」と自己規定をしてしまう。そして、その後何か諍いが起こった場合にまで、「自分が傷つきやすく無力だ」という自己規定を強化してしまう。この生徒の場合、「地位や権力が圧倒的に上位にある人」として「親や地域の大人」が、「性格的に傷つきやすい子」というまなざしをむけている状態にもあったのでは? そして、他の子供にもそれが伝わっていたのでは?

それだけではない。人間は、他者からの語りかけや交わりからは自由にはなれない。

冤罪事件で無実の人が追及を受けるときも、被疑者は取調官を敵だと思って突き放してみることができれば自白に落とされないのだがそれができない。相手が悪意で自分を陥れようとしているのではないとして、まじめに向き合えば向き合うほど、相手の語りかけからは自由になれない。これは当該生徒にも当てはまると思う。

 

この状態で、「傷つきやすい子に対する配慮」や「あたたかな人間関係」型の問題解決を試みても、無理がある。否、対処スキル取得の妨げになる危険性が大だと私は考える。「あなたが心を開かないからいけないのよ」などと、的外れな叱咤激励を呼ぶ危険性があると、私は考える。

「傷つきやすい子に対する配慮」や「あたたかな人間関係」型のみの問題解決には、他にも危険な面が2点あると思う。

・「学校でおりなされる多様な社会関係、学校の制度的特徴等の周辺的なことも考えていく」という方向をふさいで、「傷つきやすい子」への対処と称して「問題を、生徒個人の内面に閉じ込めること」に繋がる危険性あり。

・「傷つきやすい子」という解釈は、実は、「傷つきやすい無力な子」というスティグマ的認識なのでは?その認識について、親や身近な大人はどのように向き合ってきたのか?(「何故、どんな点で、傷つきやすいと思ったのか?」「傷つきやすいと思った中身は、本当にそうなのだろうか?」「傷つきやすいと思った、自分の思考や感覚や常識は、本当に正当なものなのか?」等) 向き合うことを避ける口実にもつながる危険性あり。

 

この事件で気になることがもう1点ある。それは「生徒会副会長」というポストである。

生徒会役員や正副室長というポスト、実は「いじめ」が隠れているケースがある。それだけではない。「いじめだと訴えても、大人が、『いじめではない。優秀な子が選ばれるんでしょ。』と言って取り合わない」ケースもザラ。

「特定生徒を生徒会役員や正副室長に押し付け、集団内で他のメンバーが学級崩壊状態のような振る舞いを続ける」といういじめである。

私は過去に、このタイプのいじめを受け続けた。親に言っても、「いじめではない。役員をサボりたいと思ってるんでしょ。」と取り合ってくれなかった。「このタイプのいじめを受けたのは、私だけらしい」と、30代半ばまで思っていた。不登校の子を持つ親による手記に出ていて、「私だけではなかったんだ」と思ったのが最初だった。ネットを使うようになって初めて、「実はよくあるいじめで、しかも大人にとりあってもらえないことが多い。」とわかった。

この事件に関して、「生徒会副会長をやるような優秀な子」とか「生徒会副会長の仕事をこなせないなんて、副会長になれるほどお勉強はできるんだけど、それ以外の大切なことを学び損なった子」とかいうコメントもみられた。

「やっぱり、役員押し付けいじめが可視化されないこともザラにありそうだな。」と私は思った。

「可視化されないこと」の裏には、「感情理解、他者への配慮」メソッド偏重が隠れているのでは?と思えて仕方がない。

 

いじめ関連報道がマスコミでなされるとき、しばしば、「傍観者も悪い」コメントが出される。今回のことでは、「傍観者」についてはほとんど語られない。

では、今回の事では、「加害者=担任と副担任、被害者=当該生徒とその家族」と言い切れるのか? 私は言いきれないと思っている。

担任と副担任の行為に歯止めをかけられなかった「空気」、これについて考えることも重要。そう考えたから、このシリーズ記事を書いた。

当該生徒を、「自分たちとは異なるマイノリティ」として「傷つきやすい子認識」を持つ。学校で織りなされる多様な社会関係や学校の制度的特徴等の周辺的なことについてはスルーした上で。「自分たちは、担任や副担任とそこそこうまくやっているマジョリティ」として連帯感を持つ。

当然、「社会関係や制度的特徴など、システム関連について批判的な検討を試みる」とか「自らの『傷つきやすい子』観を振り返って捉えなおしてみる」といった契機発生なんて、期待できない。

当該生徒本人にしてみれば、「宿題や生徒会活動の問題に対して、具体的な解決や改善が得られない無力感」プラス「本人の資質をスティグマ的に決めつけられる」プラス「スティグマ的まなざしを、多数の人から向けられる」辛さがとてつもなく大きなものになる。

実は、この「連帯感」、今回のこととは直接接点のない「一般社会」にも広く支持されている。私はそう考える。再発防止を呼び掛ける場合、この「周りの人たちの(スティグマ的)まなざし」がなかったかどうかも、考える必要があると思う。

 

(このシリーズひとまず完結)

池田中学自殺事件・「力による支配を安易に容認」空気・閉鎖環境 3

 

職員会議で担任の叱責問題視せず 福井県池田町の中2男子自殺 - 共同通信 47NEWS

"ほとんどの教員が問題視していなかった。担任は調査に「生徒に期待していて、叱責に応え得るとみていた」「叱責した後、頻繁に家庭訪問して指導の思いを伝えていた」と説明"「教育的指導」という口実を他教員も共有

2017/10/19 15:48

 

 

中2が自殺、「教師の指導や叱責でストレス」 福井:朝日新聞デジタル

"福井大大学院教授は「叱責を繰り返したことは指導の範囲を超えていた」と述べた"教師のパワハラというより「生徒を強くするための刺激や叱咤激励。正当な指導」と確信→教師が反省せず過激化 かも。「確信」の正体は

2017/10/19 16:16

 

 

福井・中2自殺で再発防止策「地域全体が協力し合う」:朝日新聞デジタル

寧ろ、「生徒を強くする為の方法として必要なのが厳しい叱責。ストレスに感じるようじゃ生徒の将来はない。」という思いを、担任や副担任以外の大人も共有していたのでは?と私は疑っている。パワハラの告発が困難に

2017/10/21 00:04

 

 

中学校生徒自死に係る報告書概要について | 福井県池田町

"「小さな町だからこそ」「小さな学校だからこそ」が生かされる子育て・教育環境の再生、向上化に向け"怖い。

2017/10/19 23:55

 

今回は、 池田中学自殺事件・「力による支配を安易に容認」空気・閉鎖環境 1 - karotousen58のブログ

で述べた

不登校フリースクールという方法もあるよ。発達障害なら、専門家に相談していろいろと教えてもらうといいよ。」と無責任に(←ここ重要)煽る。(「システムに問題があるか否か、あるとしたら、どう改善していくのか」といったことは無視。「生徒個人の資質」に問題があって学校不適応と決めつけ→「学校でうまくいかないダメな奴でも居場所はあるよ」と、見下した形での助言めいたもの。)

 等について書く。

不登校フリースクール関連の無責任な煽りや見下した形の助言については、 図書館ツイートへの反応 - karotousen58のブログ や 学校観って、どうつくられるんだろう? - karotousen58のブログ で過去に書いた。

 

2.の思いを身近な大人が持っていた場合、不登校フリースクールで事態が(身近な大人にとって)好転しなかったら、もっと怖いことになるかもしれない。 「フリースクールにさえ行けない、ダメな奴なのか」といった類の罵倒を、ついつい私は想像してしまう。

図書館ツイートへの反応 - karotousen58のブログ

 

 

つまり、「援助の対象としてしか児童生徒を評価しない外野によって、一方的に『交流のできないダメな子』役割を割り振られた」状態に、子供が置かれるのでは……。そして、子供がその役割を内面化することにも拍車がかかるのでは……。 という最悪の事態を、私はついつい想像してしまうのだ。

学校観って、どうつくられるんだろう? - karotousen58のブログ

 等書いた。

 

では、「発達障害関連業界」の場合はどうなのか? これについて書く。

結論から言うと、「この業界も、『力による支配』というコミュニケーションスタイルを支持している。「弱くて無力な資質を持つ、その生徒本人。その本人に配慮して接してあげる大人。生徒本人も、大人のそういう思いをくみ取って努力すべき。」という物語は温存されたまま。」

発達障害の専門家に対して、ずいぶんと失礼な発言。マスコミ報道から考えるに、専門家の先生方は発達障害者にあたたかいまなざしを向けておられる。それなのになぜそんな発言を?」と思われるかもしれない。

確かに、「発達障害児を理解するよう、努力しています。早く見つけて早く療育すれば、予後は良好です。」という類のアピールは、いろいろな場でなされている。しかし、「成人発達障害者」に対しては態度を変えていることが多々ある。「社会にとって受け入れやすい存在にならなければいけない。『差別性や加害性を非発達障害者が持つ場合もある』などと言っているようではダメ。」というコメントが成人発達障害者に対してなされるのを、私はいろいろな場で見聞きしている。

成人発達障害者に対する態度が、「発達障害に対する、業界人のホンネ」と私には思える。

業界人だけではない。「発達障害のお子さんにあたたかいまなざしを向け、熱心に療育を行っておられる親御さん」的な評価を受けている方々のブログやサイトにも、時々「成人発達障害者に対する蔑視」を感じることが私にはある。

例えば、「ある女性芸能人が、バラエティー番組で、うまくかみ合わない会話をやっていた。このかみ合わなさが発達障害っぽい。」という類の記事を引き合いに出して、「うわっ、うちの(発達障害の)娘が大人になったらあんなのになりそう。反面教師にしなくちゃ。」とか騒ぎ立てる。台本とか芸能人側の演出とかいった、周辺事情に関するいろいろな可能性については無視した状態で。

 

次に、この悲観的な見解を出した理由について書く。

この自殺事件で私は、「発達障害系の子供が厳しい叱責を受ける→所謂パニックが起こる」というケースを連想した。

(注1 この「パニック」は、世間一般で言われている「パニック」やパニック障害とは異なる。)

(注2 所謂「パニック」は、人によって表現のされ方が違う。「暴れる、大声や奇声をあげる」等の激しい形で出る人もいれば、「泣いてはいけないということは頭では分かっている。しかし、何故かメソメソ泣いてしまう」「何故か独り言を言ってしまう」という形で出る人、他の形で出る人もいる。この事件では「メソメソ泣いてしまう」タイプのパニックを連想。)

所謂パニックについて、業界関係者や「発達障害関連ブログやサイトを運営する人々」がどのように捉えているか?

特に、「成人障害者のパニック」についてどのように捉えているか? このことが、「発達障害を踏まえた指導」の方針に大きく反映されるのでは? と私は考えた。この「捉え方」の中に、私なりの理由が存在する。

「成人発達障害者のパニックについて、周りにいる人から的外れな提言がなされている場合多し。しかし、それらについて、発達障害関連業界から訂正や助言はほとんどなされない。それどころか、的外れな提言をする人たちに対して『共感』を示すこともザラ。」これが現状である。この現状から、悲観的な見解が頭に浮かぶ

「成人発達障害者がパニックで泣く」ときたら、何かを連想される方もおられるだろう。そう、「野々村竜太郎元県議の記者会見」だ。ただし、私は、この元県議を「発達障害とは違うタイプ」だと思っている。

例の県議は、発達障害とは違うタイプに思える - karotousen58のブログ

「例の県議と発達障害とは、違うタイプ」と思う理由 - karotousen58のブログ

「例の県議をおもちゃ扱いすること」が、発達障害者や周りの人に及ぼしかねない影響について - karotousen58のブログ

この元県議関連で、いろいろな人が「発達障害」について騒ぎ立てた。「社会にとって受け入れやすい存在にならなければいけない。『差別性や加害性を非発達障害者が持つ場合もある』などと言っているようではダメ。」的価値観を内面化した成人発達障害者や、発達障害児を持つ家族の人々も、騒いでいた。

「あの元県議は発達障害に違いない。あそこまで酷いのなら、受診して専門家の指導を受けるべき。」 「あの元県議は発達障害に違いない。パニックになったときのうちの子そっくり。頑張って療育して、あんなふうにならないようにしないといけない。」「あれだけ一生懸命指導や叱咤激励をしてあげているのに、うちの子は反省すらしない。」といった類のコメントを、嫌になるほど私は見聞きした。

雑誌等の記事でも、元県議に関して「いろいろな状況や事情について吟味しないまま、発達障害関連本に出ていそうな行動を記述→発達障害では?」の誘導を思わせるものが多かった。

その一方で、「例の県議をおもちゃ扱いすること」が、発達障害者や周りの人に及ぼしかねない影響について - karotousen58のブログで述べた次のようなことについて、コメントがなされることはほとんどなかった。

 

このパターンに陥ってしまっても、「本人にとってもまわりにとっても事態を少しでも好転させるための、パニック対処法」なんてものは頭に浮かばない。実は本人も、「パニックを起こしてはいけない。起こさないための方法を見つけなければいけない。それは頭では分かっている。しかし、どうすればいいのかさっぱり見当がつかないから困っている。」という状態なのだが。

「例の県議をおもちゃ扱いすること」が、発達障害者や周りの人に及ぼしかねない影響について - karotousen58のブログ

 

 

パニック状態の陰には、「パニックを誘発する人」も存在する。(前述の「空気読め」の記事参照)しかし、この「パニックを誘発する側」が批判されることはほとんどない。放置されることが多い。 「わざわざパニックを誘発する以外に、事態をすこしでも好転させる方法はないのか? 発達障害者本人も周りの人も利する方法は、ないのか?」などと誘発した側が問われることはほとんどない。

「例の県議をおもちゃ扱いすること」が、発達障害者や周りの人に及ぼしかねない影響について - karotousen58のブログ

 

 

発達障害者が、いわゆるパニックに陥ること」と「非発達障害者にとって、それと似た状態になること」とでは、「身近の人による対処の仕方を変えたほうがいい」場合が、実はよくある。

「例の県議をおもちゃ扱いすること」が、発達障害者や周りの人に及ぼしかねない影響について - karotousen58のブログ

 

「例の県議をおもちゃ扱いすること」が、発達障害者や周りの人に及ぼしかねない影響について - karotousen58のブログの後半部で、私の場合について書いた。

「自分がこれまでやってきた努力が的外れだったこと」「ひとまず落ち着くことが大切。そして、本人も周りも利するようなパニック対処法を、一緒に考えて行くことが必要」「パニックを誘発する側についても問題はないのか、パニック誘発以外のコミュニケーションスタイルは他にないのか、それらも頭にいれておいてよい」といった類の助言を、カウンセラーから受けた。これらの助言は、私にとって意味があった。

これらの助言を受けたのは、四半世紀近く前だった。そして今まで、このカウンセラー以外の人から、この内容の発言を見聞きしたことがない。現状では、「空気読め」のような返事が発達障害専門家からなされることもザラだ。

 

「学校で身につけさせるもの」が何であるのか? それを周囲の大人がどう認識していたか? について考える。次のような認識だったのでは? と私は疑っている。

学校とは「社会性を身につけさせる場」である。ここでは、教師が「社会化のなされた、あるべき姿」を知っていて「社会化のうまくできていない生徒」を教え導くことになっている。

「宿題を提出しない」「生徒会活動等で、望まれている行動をうまくとれない」という状態は、「規範からの逸脱」である。逸脱は「叱咤や指導」の対象となる。「叱咤や指導」によって改善されなければ、その生徒は排除されることもありうる。

具体的行動に関する規範以前に、「生活態度改善規範」の習得が重要。「生活態度改善規範」は、話の聞き方、他人の立場や心情理解など多肢にわたる。

「生徒が教師の感情を理解することによって、生徒教師間の関係性の変化を教師が求める。→他者への配慮として、生徒が行動を改善する。」というレールに乗れないようでは、「生活態度改善規範」は習得できない。叱責を受けて混乱するのは、教師の立場や感情を理解できていないからだ。レールに乗れない原因は、生徒の「常識のなさ」「他者に関する想像力や思いやりのなさ」「幼稚さ」「耐性のなさ」等にある。

池田中学自殺事件・「力による支配を安易に容認」空気・閉鎖環境 2 - karotousen58のブログ

 という認識に対して、捉えなおしがなされたのか?なされたのならどんなものなのか?それによって、「不登校フリースクールという方法もあるよ。発達障害なら、専門家に相談していろいろと教えてもらうといいよ。」発言の意味は違ってくる。

不登校フリースクール発達障害という方向からの検討」が

  1. 認識を揺さぶった、つまり、「力による支配を安易に容認」空気を揺さぶったうえでのもの
  2. 認識の揺さぶりではなく、「自殺よりはマシ。本人が弱いんだからしょうがない」という、「例外」を設けたもの
  3. その他

のどれなのか?

2.ならば、『力による支配』というコミュニケーションスタイルは温存されたままであり、本人が劣位とみなされた状態は続いている。

確かに、いったん「例外」として見られることによって、態勢立て直しにつながることもあるかもしれない。しかし、「一見応援した態度を見せておきながら、問題を生徒個人の内面に閉じ込める」まなざしで、生徒が見られる状態は続いている。

前記事から引用した「認識」を捉えなおしてみる。その視点にたって初めて、事態の好転や本人にとっての生きづらさ軽減につながりうるのでは? その「認識」は、担任と副担任だけが有しているものとは思えない。おそらく、社会一般に共有されている。

 

次回は、「感情理解や他者への配慮も、確かに大切なこと。しかし、『それだけでは解決困難』という場合もよくある。」ということについて書く予定。

池田中学自殺事件・「力による支配を安易に容認」空気・閉鎖環境 2

 

職員会議で担任の叱責問題視せず 福井県池田町の中2男子自殺 - 共同通信 47NEWS

"ほとんどの教員が問題視していなかった。担任は調査に「生徒に期待していて、叱責に応え得るとみていた」「叱責した後、頻繁に家庭訪問して指導の思いを伝えていた」と説明"「教育的指導」という口実を他教員も共有

2017/10/19 15:48

 

 

中2が自殺、「教師の指導や叱責でストレス」 福井:朝日新聞デジタル

"福井大大学院教授は「叱責を繰り返したことは指導の範囲を超えていた」と述べた"教師のパワハラというより「生徒を強くするための刺激や叱咤激励。正当な指導」と確信→教師が反省せず過激化 かも。「確信」の正体は

2017/10/19 16:16

 

 

福井・中2自殺で再発防止策「地域全体が協力し合う」:朝日新聞デジタル

寧ろ、「生徒を強くする為の方法として必要なのが厳しい叱責。ストレスに感じるようじゃ生徒の将来はない。」という思いを、担任や副担任以外の大人も共有していたのでは?と私は疑っている。パワハラの告発が困難に

2017/10/21 00:04

 

 

中学校生徒自死に係る報告書概要について | 福井県池田町

"「小さな町だからこそ」「小さな学校だからこそ」が生かされる子育て・教育環境の再生、向上化に向け"怖い。

2017/10/19 23:55

 最初に断わっておくが、学校側のとった行為を庇おうという意図はない。自殺した生徒の家族や地域住民を責めようという意図もない。自殺した生徒の資質を責めようという意図もない。

私はこの事件を、「『一部のトンデモ教員達によるとんでもない暴走』プラス『特定の資質を持った生徒』という組み合わせ故に起きた事件」とは見ていない。「歯止めをかけさせなかったもの」が存在したことも大きいと、私は思っている。更に、学校以外の場も含めて、この事件は「氷山の一角」だと私は思う。

 

「この事件ほどは人目をひかないタイプのパワハラ」を受け続ける。

プラス

「ただ単に、耐性がない、甘やかされて叱られ慣れていない奴だ。こいつは厳しい叱責を浴びて強くならなければいけない。」というまなざしを周囲が向け続ける。こういうまなざしが向けられているうちは、パワハラに歯止めなんかかからない。

プラス

それでも本人はなんとか我慢を続けている。しかし、事態は好転せず本人にとっての生きづらさも軽減されない。

 

というケースは、たくさんあるのでは?と私は考える。

「たくさんある。つまり、みんながそうなの。だからあなたも頑張って我慢して強くなって。」などと私は主張したくない。

社会一般にも「力による支配を安易に容認」空気がある。この事件は、「力による支配」や「それを安易に容認すること」への警告とも考えられるのでは? そしてそれらについて問い直してみる必要があるのでは? という思いで私は記事を書いている。

 では、この事件での「力による支配を安易に容認」空気とはどんなものか?それについて書く。

 

最初に、学校や地域で、周囲の大人はその生徒にどういうまなざしを向けていたのか?これを考える。

  1. 「この子は叱られ慣れていないだけだ。叱責を受けてうろたえているようじゃいけない。強くならなければいけない。激しい叱責を何度も受けて訓練しなければいけない。」と周りの人が認識。
  2. 「『担任や副担任は、あの生徒に対して常軌を逸した振る舞いをしている。』と私個人としては思うよ。だけど、『今の子供は叱られ慣れてなくて耐性がない、叱責を受ける訓練が必要というのも事実。あの生徒が他の生徒よりも強い叱責を受けているのは、あの生徒に耐性がなくて訓練が必要だからだよ。』と、私以外の大人はたぶん思っている。」と周りの人が認識。
  3. その他

事件が明るみに出るまで、2.の認識を介したまなざしを向けていた大人が多数派だったのでは? と私は疑っている。

 

次に、「学校で身につけさせるもの」が何であるのか? それを周囲の大人がどう認識していたか? について考える。次のような認識だったのでは? と私は疑っている。

  • 学校とは「社会性を身につけさせる場」である。ここでは、教師が「社会化のなされた、あるべき姿」を知っていて「社会化のうまくできていない生徒」を教え導くことになっている。
  • 「宿題を提出しない」「生徒会活動等で、望まれている行動をうまくとれない」という状態は、「規範からの逸脱」である。逸脱は「叱咤や指導」の対象となる。「叱咤や指導」によって改善されなければ、その生徒は排除されることもありうる。
  • 具体的行動に関する規範以前に、「生活態度改善規範」の習得が重要。「生活態度改善規範」は、話の聞き方、他人の立場や心情理解など多肢にわたる。
  • 「生徒が教師の感情を理解することによって、生徒教師間の関係性の変化を教師が求める。→他者への配慮として、生徒が行動を改善する。」というレールに乗れないようでは、「生活態度改善規範」は習得できない。叱責を受けて混乱するのは、教師の立場や感情を理解できていないからだ。レールに乗れない原因は、生徒の「常識のなさ」「他者に関する想像力や思いやりのなさ」「幼稚さ」「耐性のなさ」等にある。

 

この「感情理解、他者への配慮」が、実は「要警戒ワード」として、この事件に深くかかわっている。私はそう捉えている。

「生徒と教師がお互いの感情を理解することによって、生徒教師間の関係を変化させていく。→他者への配慮として、お互いが行動を改善する。」というレールは、自殺した生徒の家族も支持していたように見受けられる。

「傷つきやすい子に対する配慮」や「あたたかな人間関係」型の問題解決を、その生徒の家族が希望していたように見受けられる。

「それのどこが要警戒なのですか?」と思われる方もおられるかもしれない。しかし、私はあえて主張する。「パターナリズムが隠れているケースもありうる。それを警戒する必要あり。」と。

「誰にとっての、どんな問題なのか」「どういう状態を、解決と考えるか」「解決に向けて、どんなアプローチをしていくか」等のことを、生徒側が考えたり主張したりする→大人がそれを反抗的態度とみなす ということはないか? 「大人よりも弱い立場にある生徒は、大人が子供に望んでいるものを従順に受け入れ応えなければならない」という発想が隠れていないか? ということも考える必要があると思う。

もう一点、要警戒ポイントがある。

「感情理解、他者への配慮」メソッドでは、「市民相互の私的な人間関係」の中で「心のあり方」によって解決することになる。「人権を実現する公的機関の責務」や「諸制度を構築しながら解決」という方向は閉ざされている。

パターナリズムが隠れている場合、「社会的弱者は、強者に従ってこそうまくいく」「実際に、弱者は強者を慕う」「だから、強者のルールに従うべき」という規範意識の押し付けがなされる。

これは、「力」による関係性を基盤とした「厳しい指導」とつながるのでは? そして、この「規範意識」は、実は、社会一般にいきわたっているのでは? と私は思う。

「力による支配を安易に容認」空気を、私はこのように捉えている。

 

「誰にとっての、どんな問題なのか」「どういう状態を、解決と考えるか」「解決に向けて、どんなアプローチをしていくか」等について、自殺した生徒の側はどう捉えていたのだろう? 厳しい表現になるが、「生徒本人不在のまま、大人が解釈のレールを敷いてしまったのでは? その解釈のレールは、本人にとって承服し難いものだったのかも? 」と私は疑っている。

承服しがたいもの、それは、「この生徒は性格的に傷つきやすい子。傷つきやすい子でも、感情理解や他者配慮によって行動改善できるように教育してほしい。本人もその方向で努力してほしい。」という解釈のレールでは? と私は捉えている。(池田町学校事故等調査委員会がまとめた報告書(要約)を読んで、「特定の資質を持った子供だった」アピールを私は感じた。)

報告書(要約)には、自殺した生徒の発言が何か所か出てくる。

「宿題未提出の理由を言い訳だとして聞いてくれない」「何を言っても言い訳として決めつける。どうしていいかわからない。」「僕だけ強く怒られる。どうしたらいいかわからない。」

ひょっとしたら、その生徒本人が大人に求めていたものは「宿題関連や生徒会活動等の問題について、本人にとっての周辺情報を大人に分かってもらうこと」「周辺情報を踏まえて、宿題関連や生徒会活動等の問題について具体的解決策を、一緒に考えていくこと」だったのかもしれない。「感情理解や他者への配慮ができる生徒になるように、自分を改造してほしい」よりも。

その生徒の発言に関して、次のような言葉が大人によってやりとりされた。

「副担任が本生徒にかかわらないようにしてほしい」「副担任を替えてほしい」「自殺などにはならないようにしてほしい」「傷つきやすい子だから気を付けて」「ふたりきりにならないよう注意します」

 つまり、大人の側は「傷つきやすい子」「感情理解や他者への配慮による状況改善が、うまくいかないこと」を「問題」としてたてていたのでは? しかも「本人の資質」をスティグマ的に捉えていたのでは? と私には思える。

もしも私がその生徒だったら、

  • 「弱くて無力な資質を持つ、その生徒本人。その本人に配慮して接してあげる大人。生徒本人も、大人のそういう思いをくみ取って努力すべき。」という物語を、自分に無断で周りが勝手に押し付けた。
  • これって、「優しく指導してあげないと自殺などに至ってしまう、特別な配慮がなければ成長できない、弱くて無力な本人。」という解釈の押し付け。状況や理由を知ろうともしないで押し付け。

と思ったかもしれない。はっきりと意識化できるかどうかは別として。

 

その生徒にとって、「本人にとっての問題に対して、具体的な解決や改善が得られない無力感」プラス「本人の資質をスティグマ的に決めつけられる」プラス「スティグマ的まなざしを、多数の人から向けられる」辛さがとてつもなく大きなものだったのでは? と私は考える。

それだけではない。力による支配をする教師側からすれば、「自分たちの行為が正しいと、他の人も追認している」という認識につながりうる。

更に、「閉鎖的な環境」という要素も加わる。人を短期間で従属させる最も手近な方法は、「孤立」させたうえで「暴力(精神的なものも含む)」をふるうことである。そのことは各種カルトやDVや虐待関連本でよくとりあげられている。

再度述べるが、学校側のとった行為を庇おうという意図はない。自殺した生徒の家族や地域住民を責めようという意図もない。自殺した生徒の資質を責めようという意図もない。

 私はこの事件を、「『一部のトンデモ教員達によるとんでもない暴走』プラス『特定の資質を持った生徒』という組み合わせ故に起きた事件」とは見ていない。この事件の背後には、(この事件での教師個々人以外にも)社会一般に存在する「力による支配を安易に容認」空気と閉鎖環境がある。そう見ている。

そして、それらについて捉えなおす必要があるのでは? と思って記事を書いている。

 

次回は、 池田中学自殺事件・「力による支配を安易に容認」空気・閉鎖環境 1 - karotousen58のブログ

で述べた

不登校フリースクールという方法もあるよ。発達障害なら、専門家に相談していろいろと教えてもらうといいよ。」と無責任に(←ここ重要)煽る。(「システムに問題があるか否か、あるとしたら、どう改善していくのか」といったことは無視。「生徒個人の資質」に問題があって学校不適応と決めつけ→「学校でうまくいかないダメな奴でも居場所はあるよ」と、見下した形での助言めいたもの。)

 等について書く予定。

池田中学自殺事件・「力による支配を安易に容認」空気・閉鎖環境 1

 

職員会議で担任の叱責問題視せず 福井県池田町の中2男子自殺 - 共同通信 47NEWS

"ほとんどの教員が問題視していなかった。担任は調査に「生徒に期待していて、叱責に応え得るとみていた」「叱責した後、頻繁に家庭訪問して指導の思いを伝えていた」と説明"「教育的指導」という口実を他教員も共有

2017/10/19 15:48

 

 

中2が自殺、「教師の指導や叱責でストレス」 福井:朝日新聞デジタル

"福井大大学院教授は「叱責を繰り返したことは指導の範囲を超えていた」と述べた"教師のパワハラというより「生徒を強くするための刺激や叱咤激励。正当な指導」と確信→教師が反省せず過激化 かも。「確信」の正体は

2017/10/19 16:16

 

 

福井・中2自殺で再発防止策「地域全体が協力し合う」:朝日新聞デジタル

寧ろ、「生徒を強くする為の方法として必要なのが厳しい叱責。ストレスに感じるようじゃ生徒の将来はない。」という思いを、担任や副担任以外の大人も共有していたのでは?と私は疑っている。パワハラの告発が困難に

2017/10/21 00:04

 

 

中学校生徒自死に係る報告書概要について | 福井県池田町

"「小さな町だからこそ」「小さな学校だからこそ」が生かされる子育て・教育環境の再生、向上化に向け"怖い。

2017/10/19 23:55

最近明るみに出た、池田中学自殺事件。「次のような解釈のレールを敷いて幕引き」とするのならば疑問あり。

・この事件は、担任と副担任によるいじめや鬱憤晴らしがエスカレートして起きたもの。教師の個々人的問題。

発達障害や障害への対処法がわかっていなかった。生徒の個人的特性と、障害に関する情報不足、これらが重なって起こった。生徒は運が悪かった。(「本人の個人的特性以外に、周辺事情等も考えていこう」という態度ではない。)

・「不登校フリースクールという方法もあるよ。発達障害なら、専門家に相談していろいろと教えてもらうといいよ。」と無責任に(←ここ重要)煽る。(「システムに問題があるか否か、あるとしたら、どう改善していくのか」といったことは無視。「生徒個人の資質」に問題があって学校不適応と決めつけ→「学校でうまくいかないダメな奴でも居場所はあるよ」と、見下した形での助言めいたもの。)

 

私は次のように考えている。

・担任や副担任の行為は、いじめや鬱憤晴らしではない(それらなら、まだマシだ。それらなら、やっている側が飽きるとか外部から歯止めがかかるとかいった可能性も、ゼロとは言えないから)。

・担任や副担任の行為は、「自分の個人的動機で厳しい叱責をしているわけではない。教育的指導として必要なのである。これが教師としての自分の仕事である。」と確信していたのでは? 確信しきっていた場合、「自己懐疑」がなされなくなる危険性大。

・「学校とは、生徒に社会性を身につけさせる場である。『生徒に期待している故の叱責。指導の思いをくみ取って叱責に応える』これができない生徒は、『社会化ができていない生徒』である。指導や矯正が必要。」という見解が、事件が明るみに出るまでは学校や地域という場で共有されていたのでは? そして、この見解には「力による支配を安易に容認」空気が隠れているのでは?

・この学校や地域に限らず、実は社会一般でこの見解が強く支持されているのでは? 

・『生徒に期待している故の叱責。指導の思いをくみ取って叱責に応える』これができない生徒は、『社会化が出来ていない生徒』である。」という見解そのものや、それに基づくシステムを見直す必要もある。見直しをせずに「生徒個人の資質」を問題や原因と決めつけたうえで、「特別な資質を持つ生徒でも、その見解やシステムを受け入れることができるようにする教育を。」と主張しても、本人の利益には結び付きにくいのでは?

・「小さな町」「小さな学校」で「個人の資質を問題とした」「力による支配を安易に容認」を共有されたら、抜け道が見つからなくなるのでは?

 

池田中学自殺事件から、私は過去のおっかない事件を連想してしまった。

アイヒマンによるユダヤ人虐殺や、2006年11月にあった自殺(「生まれつき体の成長が遅くなる病気」だった中学生が自殺。背が低いことを口実にしたいじめを受けていた。)を。

http://www6.plala.or.jp/fynet/2scrap354kodomo-jisatu2006.htm#354a061118xxx-2「自殺はいじめが要因」校長認める 大阪・富田林

遺族からも指摘されていた「チビと言ってからかう」といういじめについては、「(同級生らが言うのを)見たことがある」と答えたのは全体の4割超の65人、「陰で言った、思った」が3人で、「自分が言った」と答えた生徒はゼロだった。新美校長は「事態の深刻さや罪悪感を感じていることがうかがえるが、いじめたという意識がないとも考えられる」と述べた。

いじめをしたと答えた生徒は、「通せんぼした」=5人、「大声を出し(威圧し)た」=4人、「バレーボールの授業でボールを当てた、きついことを言った」=6人だった。

「からかう」といういじめについては、「見たことがある」と答えた人数と「自分が言った」と答えた人数にギャップがある。 

池田中学自殺事件では、自殺が明るみに出て初めて、「聞いた人が身震いするくらい怒られていた」とか「過呼吸」とかわかった。それまでは、問題視されなかった。「副担任をかえてほしい」「性格や気持ちを考慮して対処してほしい」といったかたちでは表現されたが「指導方針そのものの問い直しを」というかたちでの表現はなされなかった(あるいは、表現が困難な状態にあった)。

人数のギャップや、自殺が明るみに出るまで問題視されないことや、それらがほとんど話題にならなかったことが、私は気になる。これらに隠れたものは何なのか? 

アイヒマンも、「自分の個人的動機から大量のユダヤ人を虐殺したわけではなく、自分の仕事を忠実に果たしてヒトラーに奉仕」という思いだったのだろう。担任や副担任の行為も、いじめや鬱憤晴らしというよりもこの思いに近かったのでは? この思いに隠れたものは何なのか?

隠れたものは、タイトル中の「力による支配を安易に容認」空気や閉鎖環境なのでは? と私は考える。

 

「『力による支配を安易に容認』という見解には、飛躍がある」と思われたかたも多いと思う。これについて次回(それ以降になるかもしれない)書く。