karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

図を書いて考えましょう

 

小堤中納言 on Twitter: "禁止されている学校多数 の悪寒 https://t.co/8ZMjaXSMpK"

地元公立小5の時(1975年)、算数文章題を、図に書いて解いていた。ノートの図を担任が見て、「幼稚」と激怒。親も同調。当時愛読の学年雑誌に「図で考えよう」という記事があり、それを信じて助かった。

2019/12/10 01:50

 

 ずっと、「文章題で図を書かせないのは、当時の担任と私の親ぐらいだろう」と漠然と思っていた。ところが、ブクマ元にある一連のツイートを見て吃驚。「ひょっとしたら、私が過去に受けた仕打ち、受けた人は意外と多いのかもしれない」と思った。

私が大人になってから、「宅建」という資格試験を受けた。宅建試験科目の一つに「権利関係」というものがある。この科目で、「図を書いて考える」習慣がついていたことが役立った。資格学校に通っていたのだが、講師からも「図を書いたらわかりやすくなる」という助言があった。

当時、受講生のうちの一人が、講師のいないところで自慢げに語っていた。「いちいち図なんか書かなくても解ける。時間がもったいない。」と。それを聞いて私は驚いた。もっとも、その受講生は5年連続で不合格となったようだが。

今思うに、ひょっとしたらこの受講生も、似たような経験があったのかもしれない。

 

算数で、(計算問題ではなく)「文章題」を私が意識するようになったのは、確か小3あたりが最初だったと思う。「単純な計算問題よりも、少し面倒」という感覚があった。

小学生の頃、「〇年の科学」「〇年の学習」という学年別雑誌が学研から出ていた。私はそれらの雑誌が大好きだった。確か、「3年の学習」に出ていた記事だったと思う。「文章を読むだけではうまく解けなかった問題でも、図を書いてみたら考えやすくなることがあるんだよ」という内容の記事があった。楽しい記事で、強く印象に残っている。

「この記事がなかったら、私は簡単に理数系を捨てていたかもしれない。理数系を好きになれなかったかもしれない。」という思いを、20代の頃あたりからずっと私は持っている。

「図を書かないで解こうとする」ことと「図を書いて考える」こと、確かに違う。記事を初めて読んだ当時、子供心にも思った。

また、この記事は「図を書くということじたいも、楽しいよ」というトーンだった。後にいろいろな問題を解いていくときも、そのことを実感した。

 

担任や親が激怒した原因、実は、もう1つあると思う。それは、「大人から見て、見た目がよくない図、冴えない図」だったことだと思う。

過去に何度か書いているが、私は実技教科の成績が全部ビリだ。当然、絵も、冴えないものしかかけない。担任や親にしてみれば、たぶん見ていられないできばえだったのだろう。

激怒されたとき、怒られた原因として「図を書くこと自体が悪い」「図が下手くそすぎるから悪い」の2通りが私の頭に浮かんだ。幸か不幸か、私は絵が下手すぎた。下手すぎたがために、2番目の理由も頭に浮かんだ。

もしも私の絵が上手だったら、「図を書くこと」じたいが悪いと誤解したかもしれない。変な話だが。

 

担任と親からは激怒された。しかし、「大好きな雑誌に出ていた、大好きな記事」では、「図を書いて考えるのは、楽しいし大切なことだよ」となっていた。

「大好きな雑誌、大好きな記事」だったから、担任や親の反応よりもそちらを信じた。「見つかったら怒られる」ことが予想できたから、「問題を解き終わったら、すぐに図を消す」ことにした。

こうして、「図を書いて考える」ことは、「ほとんど意識しない習慣」のようなものになっていた。

 

大学に入ってから、家庭教師のバイトを何回かやったことがある。バイト先では、「図を書いて考える」ということを教わらなかったのでは? と思われる子供続出だった。

「図なんていちいち書くのは面倒」ではなく、「図を書く」「(文章だけでは)わかりにくいから、解きやすくするための手がかりを探す」ということすら頭の中にないのでは? という感じだった。

そして、「子供の頃に読んだあの記事がなかったら、私の人生は全く違うものになっていたんじゃなかろうか。理数系を嫌いになっていたのではなかろうか。あの記事に関係してくださった方々には大感謝だ。『たった1つの記事』が大きく明暗を分けているかもしれないとは、不思議なものだ。」と思った。

 

学生生活が終わった後、「他の大人が、子供に算数文章題の勉強を教えている光景」にも何度か出くわした。ネット上でもリアルでも。

「このように文章で書かれていたら、引き算を使うのだよ」といったような教え方をしているケースが、少なからずあった。しかも、「図を書く」ということもなされない状態で。

この指導法に、私は驚いた。「この方法だと、少しひねった問題とか他単元との総合問題になったら、行き詰る危険性があるぞ。」と思った。

そういえば、学生時代に、数学や物理や化学の試験勉強で、「どの公式を使うの?」「何か公式があるのですか?」という訊き方をされたことが何度かある。そして、その質問に戸惑ったものだった。

「どの公式を使えばよいのかわからない」というより、「条件に合うように式を立てるのが、難しい」という感覚が、私にはあった。図を書くことが、条件を整理することにつながっていたのかもしれない。

 

そして、

 も思い出した。ひょっとしたらこの「数量感覚」も、「図を書いて考えること」とつながっているのかもしれない。

 

親御さんをはじめとした、いろいろな方にお願いです。子供が問題を解く際に図を書いて考えていたら、それがどんなに冴えないものに見えたとしても貶さないでほしいです。

ひょっとしたら、「図を書くことが、センスを磨くことにつながる」のかもしれません。また、つながらないにしても、「図を書くことじたいが楽しい」という子供もいるのかもしれません。少なくとも私はそうでした。

大好きな雑誌に出ていた大好きな記事が、「楽しいことや好きなことを失わなかった幸運」につながった。このことを私は忘れない。

成長・同化・逸脱

今週のお題「〇〇の成長」

 

「成長」という言葉に胡散臭さを感じてしまうことが、私には時々ある。

発達障害啓発活動の類に接したとき」に、特に強く感じてしまう。

10年以上前に私は、成人発達障害関連自助会に何度か参加したことがある。自助会には、「発達障害者が身近にいる、非発達障害者」も数名参加していた。

自助会で発達障害者が、「自分の取ったこういう行動は、間違いでした。これからは、やらないようにします。」といった発言をすることが何度かあった。その発言のたびに、参加していた非発達障害者が次のコメントをしていた。

「そう、よく気づきましたね。ひとつ賢くなりましたね。賢くなって成長するよう頑張りましょう。」という類のコメントを。

正直なところ、それらのコメントが私には気持ち悪かった。確かに、「成長」といえる内容の発言もゼロというわけではなかった。しかし、私の頭の中には次の疑問が湧くことも多々あった。

「それ、本当に成長? 『同化』というヤツなのでは?」

「本人にとっての『成長』が、『逸脱』と勝手に決めつけらることもありうるぞ」

 

創作した具体例をあげてみる。「創作」と書いたが、このようなトーンでの発言が実際になされていた自助会だった。

例1

ある発達障害者が、「最近、主治医から聞いてうれしかった言葉」として発言。

発達障害者にしては、あなたは社会によく適応できています。『長い物には巻かれろ』という言葉の意味を、あなたがわかっていることが大きいです。」

この発言に対して、賛同コメント続出。「長い物には巻かれろ、大切なことですね」という空気が作られた。これに対して疑問を持った私。正直にコメントしたら、「逆張り思考がかっこいいと思ってるんでしょ、痛い人。成長しなきゃいけませんよ。」発言続出。

例2

「職場を解雇され(注 発言内容から考えるに、不当解雇も疑われる案件)、自分が発達障害ではないか?と思って」自助会に初参加した人がいた。その人の発言。

発達障害的なところがあるから務まらなかったのだと思います。発達障害を克服しないと職に就けないんじゃないかと思います。頑張ります。」

この発言に対して、「よく気づきましたね。決心できたのは立派です。一緒に頑張りましょう。」コメント続出。「不当解雇などにあたらないか、という角度からも検討が必要では?」と私がコメントしたら、「権利ばかり主張する痛い人」発言続出。

 

発達障害啓発キャンペーン、発達障害自助会、発達障害関連サイトやブログ、SNS」では、「成長」という言葉がどのように使われるか? 

  • 発達障害者の言動に、変容があった」と、「誰か」がみなす。
  • 「その変容は、好ましいものである」と、「誰か」がみなす。
  • その「変容」には、「『誰か』による、発達障害者への『見方』」を含めた「変容」が反映されているのか否か? 不明な状態。

「誰か」に該当するのはほとんどの場合、「発達障害者を観察する、非発達障害者」である。

「非発達障害者=支援する人、発達障害者=支援される人」認識。成長の度合いを、発達障害者本人の「能力の増加や欠如」によって測る。

「周囲の環境に合わせていくこと」を強調する、「同化」。他者との関わり合いを通じて、「自分がどのようにありたいか」を表現したり交渉したりする方向性は、除外。たとえ、その方向性で「本人なりの成長」をしても、単なる「逸脱」と解されてしまう。

 

発達障害者を観察する側が持つ、「発達障害者の行動変容を、解釈する枠組み」。これを含めた関係性のなかで、「成長」が語られない。また、観察「する」側と「される」側が一方的に決められている。私にはそう思えて仕方がない。

発達障害者は逸脱者。そのままだと排除されるだけの人。訓練によって成長(?)した人だけを認める」的な「発達障害啓発活動」と、私には思えて仕方がない。

発達障害「支援」(と呼ばれている)では、「作り笑顔の練習」が時々話題になる。「作り笑顔によって、どのような人間関係を築いていきたいのか」ということが明かされない状態で。

それが明らかにされないままだと、作り笑顔を「どうやって身につけさせるか」「どのような方法が効果的か」、本人に「何ができて、何ができないか」ということのみが、検討されてしまうかもしれない。

 

発達障害者の行動変容を、解釈する枠組み」。これを含めた関係性のなかで、「成長」を捉える。「変容」は、発達障害者本人だけにあるものではない。本人と社会とがぶつかり合いながら、互いに変容し、個人が社会の中で存在していく。

それを踏まえて、「作り笑顔によって、どのような人間関係を築いていきたいのか」ということを話してほしい。

と、過去にネットで発表したら、「余計なことを書くな」と某専門家からメールが来た。

 

発達障害者と「成長」、実は結構デリケートなテーマ。「成長像」が同床異夢状態にある。私も、この記事で書くことをを試みたけど、うまく書けない……

誤解されていた「水晶米」

特別お題キャンペーンの記事では過去に、「お若い人には想像のつかないであろう世界」を書いたことがある。今回も、お若い人を惑わすかもしれない。

平成の米騒動」よりも昔の話。「標準価格米、自主流通米、食糧管理制度、水晶米」という言葉、お若い人にはどの程度通用するのだろうか? 

 

このキャンペーンを知って、私の頭に最初に浮かんだものは「水晶米」という名の米である。1970年代に、うちではこの米を買っていた。

この「水晶米」の味を、私の家族は誤解していた。昭和が終わりかけるまでずっと。「誤解していた」とわかった頃には、水晶米は売られていなかった。「パールライス」という名前に変わっていた。

「水晶米の本当の味、どんな感じだったのだろう? 水晶米さん、家族が変な炊き方をしたために『まずい米』とずっと誤解して、ごめんなさい。」という内容の記事になる。

 

私の母は、機械音痴である。しかも、「説明書を読まない」人でもある。昭和が終わりかけるまでうちでは、この母がトンデモな方法で米を炊いていた。つまり、「水晶米」はトンデモな方法で炊かれていたことになる。

トンデモ故、まずいご飯ができあがる。ところが、遠方の大学進学をきっかけに自炊を始めるまで私は、この「トンデモ飯」のことを変だとは思っていなかった。

では、トンデモな方法とはどんなものか? それは、「米櫃の使い方を誤解する」プラス「洗米してすぐに炊く」という方法だった。

うちで使っていた米櫃は、「1合(150g)、2合(300g)、3合(450g)」の3レバー方式となっていた。レバーのところには、「1.5」と大きく書かれていた。そして、「1.5」の下に少し小さい字で「1合」と書かれていた。他のレバーも同様だった。

母はずっと誤解していた。「1.5合、3合、4.5合」の3レバー方式であると。

1970年代からずっと、こういう状態で米が炊かれていた。このトンデモが発覚したのは、1988年の夏だった。そのとき、私と弟は帰省していた。当時、弟は大学の3回生だった。

「ご飯を3合炊いて」と、私は母から頼まれた。

私は「1.5」レバーと「3.0」レバーを使って3合計量した。洗米後すぐには炊かず、米を水につけておいた。それを見て母が言ったのだ。「何で炊かないのよ」と。

私は答えた。「洗ってすぐに炊いた米じゃおいしくないから」と。すると母が答えた。「言い訳するんじゃありません」と。

そのとき、近くに弟がいた。助かった。弟も言ってくれたのだ。「夏でも30分はつけとかんとまずいよ」と。とりあえず、言い訳ではないということはわかってもらえた。

炊きあがったご飯を見て、母が言った。「このごはん、硬すぎるし量がおかしい。3合と言ったわよ。」と。そこで私は、米櫃のレバー部分に書かれた数字を母に見せた。

今度は母も納得した模様。やりとりを聞いていた弟も、「炊飯器がすぐに壊れて頻繁に買いかえるはずだ、こりゃ」と言った。弟は「高校卒業まで、いろいろな炊飯器を見た」と言った。

もっとも、今の炊飯器では、洗米後すぐに炊いてもおいしいらしいが。

 

九州の大学へ入学(1983年)後、最初の夏休みまでは、鍋でご飯を炊いていた。炊飯器を買う金銭的余裕がなかったからだ。料理本でご飯の炊き方を確認してから、炊いた。「洗米してすぐ炊いたごはんはまずい。夏なら30分以上、冬なら1時間以上(できれば2時間)吸水させてから炊くほうがよい」と、料理本には書かれていた。小学校家庭科の授業でも、そのように習った。米と水の量や吸水時間を料理本と同じようにして、炊いていた。

「あれれ、結構おいしいじゃねーか。安い米を下手な私が炊いているというのに。しかも、私はいわゆる貧乏舌の持ち主なのに。」と思った。

他の人が炊いたごはんを食べることもあった。そのごはんもとてもおいしかった。

「きっと、九州の米は鳥取の米よりもずっとおいしいのだろう。稲は元々熱帯性の植物だし。」「水晶米は、たぶん標準価格米。ひょっとしたら、九州では自主流通米のシェアが高いのかもしれない。」と、ずっと思っていた。「実家で、トンデモな方法でトンデモなまずい飯が炊かれている」とは、夢にも思っていなかった。

 

1970年代と1980年代は、「米の流通」に関して大きな変化があった時期だった。

1942年に食糧管理法が制定され、食糧を政府が管理統制する食糧管理制度が始まった。米価と米流通も、当然対象となっていた。その後、1972年に標準価格米制度が取られた。さらにその後、食糧管理法は1981年に大幅に改正された。

そして、食糧管理法は1995年に廃止。かわりに食糧法制定。食糧管理制度の呼称も食糧制度と改められた。その後、食糧法は2004年に改正された。

食糧管理法の時代には、「標準価格米」なる米と「自主流通米」なる米が流通していた。「標準価格米」は、政府が指導価格を定め、小売業者が扱っていた米」である。「自主流通米」は、価格設定には政府は直接関与せず、市場経済的に価格が決められていた。やはり、自主流通米のほうが高級なものが多かった。

「標準価格米」では、その地方(あるいはその近郊)の米が使われていた。銘柄指定なんてことは論外。

1981年の食糧管理法改正後、米の卸売や小売の営業区域が拡大された。コシヒカリササニシキなどの「米の銘柄」が一般庶民の間でも話題になったのは、法律改正と区域拡大がなされてからのことである。

「うちで食べていた水晶米よりも、九州で売っている標準価格米のほうがおいしい米なのだろう」とか「九州では、自主流通米のシェアが高くて、知らないでそれらを買っているのかも」と私が思ったのは、こういう背景があったからだ。

 

「水晶米」がまともな計量と浸水のもとで炊かれたら、どういう味がしたのだろう? もしもタイムマシンに乗って過去に行けるのなら、実際に炊いて味見をしたい。

 

パナソニック炊飯器「Wおどり炊き」×はてなブログ特別お題キャンペーン #わたしの推し米

一人郷土研究部

今週のお題「部活」

部活動に関しては、トゲのある記事を過去に書いたことがある。

karotousen58.hatenablog.com

今回も、トゲのある記事を書いていく。

青春の思い出を語ろう!「部活」をテーマにブログを書いてみましょう 

ときたか……

「青春」という言葉がここで出てくる。「世間一般で言われている青春」像から外れた年齢の人が入部することは想定されているのだろうか? という意地の悪い疑問が私の頭に浮かんだ。

最近、興味深いコメントをTwitterで見た。コメント・青春・部活 が私の頭の中で変なつながりを持ってしまった。 

現在の一般的な校則では、40代のおばさんの高校入学には大きな壁があるという結論に達しました

でもっって、40代のおばさんが入学してきても無理なく過ごせる校則にすると、若者にも優しいんじゃないかという話になりました。

そうだな。「高校生なら10代後半だな」という発想から自由になったほうが、いろいろと面白いかもしれない。「校則」を「部活動に対する、教育的に過剰なイメージ」に変えたくなる。

私は、「学校の部活動には『家庭の文化資本社会関係資本』めいたものを露にする面があるのでは? うちはどちらの資本も乏しすぎる。」という思いもずっと抱えている。10代の頃も、子供心にも漠然と思っていた。

 「普通科を卒業すれば、工業科等なら入学出来ます、が。」というツイートもあったが、私の生活圏の場合、詳細がわからなかった。

もしも私が今、実業高校に入学(私は公立普通科高校卒)して部活動をやるとしたら、どういう活動を考えるだろう? 最初に頭に浮かんだのは郷土研究部。次は園芸部。その次は(一人)イージーリスニング研究部。最後に浮かんだヤツに至っては、たぶんイミフとしか思われないだろう。

そういえば、郷土研究部、園芸部、(一人)イージーリスニング研究部のどれも、リアルの高校時代に、ある種の接点があった。思い出した。

郷土研究部

 私は中学卒業まで、居住地の校区内と市の中心部以外に出かける機会がほとんどなかった。それらから外れた地名を意識することは、ほとんどなかった。

高校入学後、「生徒名簿」なるものを配られた。名前や住所などが出ていた。違う中学の出身者だと、住所のところに出てくる地名が「初めて見聞きするもの」であるケースがほとんどだった。「これ、どこだ? どんなところなのか調べてみたい。」などと思い、市街地図を買って、休日に自転車で行くようになった。市街地図の「図面外」となっている地名もたくさんあった。

中学卒業までは「面白いものなんか何もない地元」と思っていた。しかし、「知らない町を探検」というノリで動いてみると、記念碑とか結構あるものだとわかった。

このとき、「郷土研究部って、どうだろう?」と思った。が、ほとんど同時に次のことも頭に浮かんでしまった。

「郷土研究部の人って、どういう動機で入部したのだろう? 地元を『研究の対象』とする発想が、どこから湧き出たのだろう? やはり、いろいろな所へ旅行に行くような家庭とか、歴史や文化の知識を持った家族のいる家庭の人なんだろうな。そういう文化のない私だと、たぶん浮いてしまうな。」

結局、高校時代は「一人郷土研究部」活動で終わった。

園芸部

出身中学に園芸部があったか否か、よくわからない。出身高校にはなかった。

しかし、昭和50年代の漫画には「園芸部」という部活動がちょくちょく出ていた。高校に入学したばかりの頃、「園芸部って、どんな感じなんだろう?」と思った。

しかし、私の身近には園芸をやっている人がいない。知識がない状態で「園芸部をつくりたい」などとは言えなかった。

大学入学以降も、リアルで「学校では園芸部員でした」という声を私は聞いたことがない。「面白そう」という思いと「本当に存在するのだろうか?」という思いが、私の中で同居している部活である。

(一人)イージーリスニング研究部

昭和50年代、イージーリスニングブームなるものがあった(らしい)。私が中学校に入学したのは1977(昭和52)年。当時、地方公立中学生の間では、「ラジオの深夜放送を聞くこと」が社交常識となっていた。また、(特に女子生徒の間で)「歌謡曲のベストテン番組」の類を見ることも社交常識となっていた。

ラジオの深夜放送で、偶然イージーリスニングを知った。気に入った。ラジオFM放送の番組表を見て、関連番組を探して聴いた。

謡曲のベストテン番組は、私にとってはつまらない番組だった。しかし、当時、学校内で行われる行事はしばしば、「ベストテン番組に出てくる歌」を歌う展開になっていた。「歌を知らない」などと言おうものなら、「ガリ勉」と罵られた。だから、その種の番組は、「浮世の義理」として見ていた。

こういう学校文化の下では、「イージーリスニングが好き」などとは外部には言いづらい。当時の私には、同好の士がいるとは思えなかった。「イージーリスニング部がないから、同好会を作ります」などという発想は、当然持てない。だから、「一人イージーリスニング研究部」活動で終わった。

大学に入ってから、同好の士がいることがわかった。「150人に1人」程度の割合で見つかった。その後、ネットを使うようになってから意外なことがわかる。ネット上では、「実はイージーリスニングが好き。同好の士はなかなか見つからない。」とカミングアウトする人が結構いた。

ひょっとしたら、高校時代にも身近に「隠れイージーリスナー」がいたのかもしれない。

トゲのある過去記事でも書いたが、「帰宅部の子は無気力で魅力のない子」的な物言いを、中高時代に私はしょっちゅうなされていた。部活動を楽しめない自分は、おかしいのだと思っていた。

しかし、こうしてみると、「『一人部活動』というヤツを、当時の私は結構楽しんでいたんだな」と思う。

最低気温の最高記録なるか?

今週のお題「夏を振り返る」

  

今年の8月12日22時半頃、私は「2000年9月1日」のことを思い出していた。その日、私の住んでいる鳥取県米子市で「米子市での最高記録を更新」ということがあった。

何が更新されたのか? 答えは「一日の最低気温」の最高記録である。

「2000年9月1日」のことを思い出すほど、その日の夜はむちゃくちゃ暑かった。

猛暑を表現する際、「一日の最高気温」や「連続猛暑日」や「連続真夏日」がよく使われる。しかし、「最低気温の高い記録」はあまり話題にされない。

「話題にされないが、この気温も結構強烈だぞ」と思った。

 

今年の8月12日22時半頃、あまりの暑さに、「まさか、米子市での『最低気温の最高記録』になるんじゃねーよな」と思った。その直後、「確か、米子市での最高記録は29度台後半だった。当時、歴代第6位ぐらいと報道されたような。」と思い出した。

「確か、気象庁のサイトで過去の気象データ検索ができたはず」と思った。都府県・地方と地点と年月日を選択→「米子 2019年8月12日(1時間ごとの値)」を検索。その日の22時の気温は31.3度と出た。そして、年月日を「2000年8月31日」に変えて同様の検索。その日の22時の気温は30.6度と出た。

「うへえ、本当に新記録がでるかも」「よーし、歴代全国ランキングを調べてやれ」と思った。簡単に見つかった。

気象庁|歴代全国ランキング

 

今、このランキングを見て思った。「ありゃりゃ。8月12~13日に見たときとランキングがだいぶ変わっている。2019年8月15日の値がランクインしまくり。」と。

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今年の8月12日の時点では、第1位は新潟県糸魚川市で1990年8月22日に記録した30.8度だった。この時点のランキングを見て、これからチェックする「都道府県、地点、起日、20時と21時の気温」を決めた。場合によっては、「10分ごとの値」も調べようと思った。23時10分頃に、23時の値も発表される。もちろん、こちらもチェック。その日23時の米子市の気温は31.0度と出た。

このランキング、初めて見たとき「あれれ?」と思った。「いかにも南国」という雰囲気からはかけ離れた北陸地方から、結構ランクインしている。今年8月15日の記録更新も、糸魚川だ。「1933年、山形で最高気温40.8度となったときと似たような感じなのかな? たしか、山形のその気温は、台風とフェーン現象とが絡んだものだったような。」と思った。

「よし、北陸地方を先に調べてみよう」と思った。

 

新潟県糸魚川 1990年8月21日 22時は30.1度 23時は31.5度」

「石川県小松  2000年7月30日 22時は31.0度 23時は30.7度」

富山県上市  1997年8月  8日 22時は30.4度 23時は30.6度」

富山県富山  2000年7月30日 22時は31.0度 23時は31.3度」

福井県越廼  2000年7月30日 22時は30.6度 23時は30.4度」

「福岡県福岡  2018年8月21日 22、23時とも31.4度」

「東京都東京  2013年8月10日 22時は32.6度 23時は32.5度」

長崎県口之津 2017年8月  4日 22時は31.0度 23時は30.6度」

沖縄県石垣島 2014年7月  4日 22時は30.8度 23時は30.7度」

鳥取県米子  2019年8月12日 22時は31.3度 23時は31.0度」

 

「おいおい、本当に記録更新かよ? 更新されそうなら、とことん、値とつきあってやる」と思いながら、日付が変わるのを待った。2019年8月13日0時10分頃に、0時の気温が出された。29.5度だった。記録更新ならず。更新ならずといえども、暑くてたまらない。値とつきあうのもやめようと思った。 

とはいえ、「東京都東京」での値が気になった。「2013年8月11日、どのような変化だったのだろう? 10分ごとの値を調べてみよう」と思った。

東京と東京でのその日のデータでは、午前中の最低値は30.9度(5時40分の値)。23時50分の値は30.5度だった。一歩間違えていたら、その日、1990年の糸魚川の記録を更新して東京がトップとなっていたかもしれない。日付変わる直前で30.5度というのも怖いが。

 

「2019年夏 最低気温25度以上の日数」のランキングが見つかった。

https://weather.time-j.net/Summer/Ranking

こちらでは、やはり北陸地方はランクインしていない。ランキングの違いが興味深い。

「こういうことをわざわざやって、楽しんでいる」なんて、リアルでは言いづらい。

不自由研究の持つ(裏)教育的意義

今週のお題「わたしの自由研究」

素朴な疑問。「自由研究は、大人にとっても子供にとっても不安な宿題。不安な上に、教育的に意義があるとは思えない。教育的な意義をはっきりと示してもいいのでは? また、自由研究のあり方を見直してみてもよいのでは?」的な提言が、過去になされたことがあるのだろうか?
本心ではそのように思っている大人(特に親御さん)や子供本人もいるのでは? と私は密かに疑っている。
「思っているのだが、実際に発言するのはまずい」とか「そのように思うことじたいが、悪いことだ」という思いなのでは? と私は捉えている。
では、教育的な意義について夏炉冬扇はどう捉えているのか? これに対する答えは、おそらく、世間一般からは「残酷なもの」と思われるものだろう。
 

自由研究については、過去に、トゲのある記事を書いたことがある。

karotousen58.hatenablog.com

この過去記事で特に書きたかったことは

  • 自由研究といってるけど、本当は不自由だぞ。
  • 自由研究という宿題には、実はとんでもない目的が隠れてるんじゃねーの?
  • 他に目的があるのなら、はっきりと子供に示してもいいんじゃねーの?

だった。
 

小中学生なんて、まだ、基本となる知識の量がごく僅かである。行動できる範囲も極めて狭い。取扱に注意を要する薬品や道具を使用するのも困難だ。

知識も経験も乏しい状態で、テーマを決めなければならない。 テーマを決めたら、実験や観察の方法や作品制作方法を考えて実行しなければならない。そして、結果や考察等を踏まえてまとめなければならない。

「テーマと選定理由、理論的背景、実験や観察の方法や準備、結果や考察、それを踏まえてのまとめ」なんてことを、普段の授業でやっているわけではなさそうだ。「それらのやり方について、小中学校で指導を受けた」という声を、私は聞いたことがない。どういうわけか、教えなくてもできることとみなされているらしい。

「小中学生がやらされる自由研究」と『裸の王様』もどき - karotousen58のブログ 

結局のところ、自由研究や作品制作という宿題の目的は、

・「もともと素質があり、かつ、自由研究や作品制作に意欲を燃やすことのできる環境が確保された子」がいるかどうか、いるとしたら誰なのか、学校側が把握したい。

・「下手な子供が、目も当てられないような下手くそ研究や作品を自力で作成」することよりも、「大人が教育力を持っていることや、大人の教育力によってド下手な子供でも上達・成長しましたという物語」を、示してほしい。また、その空気を読める子に成長してほしい。

といったところではなかろうか? 私はそのように疑っている。

「小中学生がやらされる自由研究」と『裸の王様』もどき - karotousen58のブログ

 

自由研究を通して、子供にどのようになってほしいのか? 親御さんを対象としたアンケートと、大学の先生によるコメントが見つかった。

アンケートは、「夏休み2018宿題・自由研究大作戦」なるイベントの入場事前登録時に実施。アンケートの期間は7/2~7/13。つまり、「大人からの支援なんてほとんど期待できない家庭」は、ハナから除外されていると思われる状況での実施。

https://www.jma.or.jp/img/pdf-report/summer_2018.pdf

そもそもなぜ「自由研究」は夏休みの宿題なの? ひと皮むける4つのポイント (1/2) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

 「やりきる力を身につけてほしい」「探求力を高めてほしい」「自主的な学びのスキルを習得する、絶好のチャンス」というコメントがあげられている。

コメントを読んだ私のホンネは、「それらの力やスキルを、屏風から出してくれ。『自由研究や作品制作に意欲を燃やすことのできる環境が整っていない』子を対象として。」である。

 

「もともとの素質に乏しく、かつ、自由研究や作品制作に意欲を燃やすことのできる環境も整っていなかった」私にとって、自由研究の持つ教育的意義は何だったのか?
それは、過去記事で書いた「目的」と、「『ごまかし』と向き合うこと」だったと思われる。
「できてあたりまえ」とみなされていることや、「できないなら、それ相応の処遇を受ける」ことが、この世にはある。それらのことがうまくできないorできそうにない場合、「ではどうするか? どう乗り越えるか? どうごまかすか? などを模索」する必要が出てくる。
最後に出てきた「どうごまかすか?」を模索することは、しばしば、「道徳的に悪いこと」として禁止される。特に、「清く正しく美しく」的お題目で純粋培養的な育て方を目指す大人のもとで。
汚い言い方をすると、「不自由研究で、『どうごまかすか?』を模索する機会にもなり得る」ということになる。
「どうごまかすか?」は、「ではどうするか?、どう乗り越えるか?」よりも心証が悪い。しかし、「これを模索することの必要性は、ゼロとは言い切れない」と私は思う。

「不自由研究」の持つ(裏)教育的意義は、「過去記事で書いた『目的』プラス「できない/できそうにないことを、上手にごまかすスキルを模索」である。私はそう捉えている。

 

今は、自由研究関連書籍や実験観察キット、自由研究関連サイトがある。大人になってからそれらを見て、私は思った。

「制作者は、子供の頃に本当にこれらの内容を考えついたのだろうか? 後でもっと高度なことを学んだからできるんじゃねーの? 『テーマは思いつくけど、実験観察方法を思いつかない』とか『理論的背景を調べる方法がわからない』とか『実験観察に無理がある(例 チューリップの種まき。なぜ種をまかないんだ?からスタートのテーマだが、花を咲かせるのに5年以上かかる。)』とかいった経験はなかったのだろうか?」と。
子供の頃の私は、「テーマだけはたくさん思いつく」「関係のありそうな本を探したり読んだりすることじたいは、好き」という子供だった。しかし、実験観察方面がうまくいかない子供だった。
「実験観察方法を思いつかない」「方法の書かれた本を見つけても、装置をうまくつくれなかったり操作をうまくできなかったり」「実は、チューリップの種まきみたいなテーマだった」「理論的背景の書かれた本を、うまく見つけられない」状態だった。

子供の頃、「実験観察方面にはあまりふれないで、本で見つけた『関係のありそうな事柄』をいろいろと組み合わせて、自由研究という宿題を一応は完成させる」ということは、8月上旬までの段階でできていた。しかし、父はこの「一応は完成させた宿題」を許さなかった。「実験観察がないなら、ダメ」といわれた。
「市販の『自由研究本』を買って、そこに書かれている実験観察やまとめをそのまま真似したものでなければダメだ。お父さんも一緒にやるから。」と言われた。

だが、うちの家族も親戚も、「図画工作の類と理数系は、大の苦手で大嫌い」という人ばかりだった。実際に実験観察を父が試みても、装置をうまく作れなかったとか変な結果がでたとかいった、調子だった。
たぶん、父にとって自由研究は、「親の顔を潰す」ものだったのだろう。自由研究終了後に、私はいつも怒られた。「どうして、ちゃんとしたテーマにしないのだ。他の子は親が手伝わなくてもやっているのに。」と。


私の場合、不自由研究という宿題では、(大人の期待しているであろう)「やりきる力や探求力や自主的な学びのスキル」とやらは身につかなかった。「父に怒られることが目に見えている宿題」だった。

ただ、「テーマについていろいろと考える」とか「関係のありそうな本を探したり読んだりする」「関係のありそうな事柄をいろいろと組み合わせて、まとめて書く」ことじたいは、とても楽しかった。「科学のアルバム(あかね書房)」とか、図書館に行くたびに、全巻読みたいと思ったものだ。

「怒られる嫌な宿題」という思いと、「ドサクサに紛れていろいろな面白い本を楽しめる宿題」という思いが、子供の頃からずっと私の中に同居している。変な感じだ。

 

「過去記事で書いた『目的』プラス「できない/できそうにないことを、上手にごまかすスキルを模索」という、「不自由研究」の持つ(裏)教育的意義。

この(裏)教育的意義を、子供の頃の私はわかっていなかった。もしも私が、それをわかる子供だったなら、私の人生はどう変わっていただろう? 

わたしと国鉄特急「まつかぜ」

今週のお題「わたしと乗り物」

 

列車という乗り物は、私にとって特別な思い入れがある。

高校卒業までは、列車を使う必要性がほとんどない生活をしていた。列車を使うのは、旅行などの限られた場合だけだった。だから、子供の頃の私は、「列車に乗る」というだけで、心がとてもわくわくしていた。

私が初めて乗った列車は、国鉄特急「まつかぜ」だった。初めての乗車に、強烈な思い出がある。更に、この特急「まつかぜ」、私が大学に進学してから再び意識するようになった。

 

1972年3月の終わり、突然、父が提案した。「父と姉と私とで、大阪の親戚の家へ旅行しよう。(弟はまだ幼いから)弟と母は留守番だけど。」と。当時、私は小2になる直前だった。鳥取から大阪へは、国鉄の特急「まつかぜ」で行くということだった。

当時の私にとって、列車は、「線路を走っているのを眺めるもの」「絵本や子供向け雑誌に出ているもの」でしかなかった。小学校の通学路途中には、踏切があった。列車が走っているのを時々見た。「この線路を走っている列車、乗ったことがある」と同級生が言っていた。それを聞いたとき、「どうして、この同級生には列車に乗るチャンスがあったんだろう?」と思った。「うらやましい」というより、「チャンスがあるということが不思議」だった。

「この旅行で、初めて列車に乗れる。絵本や子供向け雑誌の列車が現実のものとして現れる。何か不思議。」と、わくわくした。

 

大人になってからの私は、この旅行に疑問を持つようになった。「なぜ、突然、父は旅行に行こうなんて言い出したのだろう?」と。

父も母も、いわゆる「出不精」な人である。「旅行の計画を立てる」といった類のことも面倒くさがる人である。大阪の親戚関連で、特別な用事があったわけでもなさそうだ。夏休みや冬休みなら、「作文や日記の宿題が出されるから、ネタにする」という目的の旅行にしたかもしれないが。春休みだから、それは違う。

大人になってから父に訊いたが、父はこの旅行のことを覚えていないということだった。

 「1972年3月15日」という日付、当時岡山近辺で暮らしていた人ならピンとくるかもしれない。その日は、新幹線が岡山駅まで開業した日である。

新幹線が岡山まで延長。延長による影響は、関西~山陽・九州間だけではなかった。関西~山陰間の輸送体系にも、大きな影響があった。

また、1970年、「全国新幹線鉄道整備法」なる法律が制定された。その中で「山陰新幹線」なる構想もあったらしい。当時出ていた子供向け雑誌に、「全国新幹線」という記事が出ていた。

ひょっとしたら、当時、姉や私の同級生やその家族から、「うちでは、この春、京阪神旅行に行く」といった類の発言が結構なされていたのかもしれない。新幹線開業をうけて、姉が「旅行をしたい」とねだったのかもしれない。

 

どんな列車なのか全然知らない状態で、「まつかぜ」に乗った。乗ってすぐ、車内放送があった。食堂車の位置も放送された。

「食堂車! 弟の絵本に出ていた、あの『食堂車』。本当にあるんだ。そこで食べてみたい。」と思った。姉も賛成した。そして、みんなで行くことにした。ずっと、わくわくしていた。

メニューには、「ハムエッグ」なるものがあった。「ハム」はわかるけど「エッグ」が何であるのか、当時の私は知らなかった。それを頼んでみた。当時うちでは、目玉焼を作ることはあってもハムエッグにすることはなかった。面白い食べ物だと思った。

大阪では、いろいろな所に連れて行ってもらった。「大阪駅」だけではなく「新大阪駅」の存在も知った。この「新大阪」という名前が不思議だった。「新鳥取や新松江なんかないぞ。大阪だと、こういう名前もあるのか。」と驚いた。大人から見たら些細なことでも、子供にとっては「大発見」と思えることって結構あるものだ。

 

1983年、私は大学に入学した。当時の「まつかぜ」は、「大阪or新大阪~博多」間と「大阪or新大阪~米子」間の2種類あった。九州の大学に進学したから、「まつかぜ」と急行「さんべ」の存在を意識するようになった。

初めて乗ったときは、視線は京阪神方面だった。そして大学入学後、視線は九州方面。「まつかぜ」の名は同じでも、視線の向かう先がまるっきり違う。不思議に思えた。と同時に、「ずいぶんと気の長い列車だなあ」と思った。

ところが、1985年3月のダイヤ改正で、「まつかぜ」の博多駅発着が廃止された。「まつかぜ」は米子駅発着に変更された。「米子~博多」間は、新設の特急「いそかぜ」に系統分割となった。食堂車があって車両の数も多かった「まつかぜ」、使えなくなった。とはいっても、「さんべ」と「いそかぜ」は、貧乏学生の私にとって貴重な存在だった。

そして、1986年11月、特急「まつかぜ」は廃止となった。次の年の3月に、私の学生生活も終わった。廃止を知ったとき、「まつかぜ」との妙な縁を感じた。