karotousen58のブログ

「変なことを思い出す→そのことについて、変な見解を述べる」というブログ

発達障害者と長期記憶

今週のお題「忘れたいこと」

 

2000年代の初め、ネットの世界では「BBS(ネット掲示板)」を使ったやりとりが、しばしばなされていた。
「成人発達障害者本人」が参加していたサイトのBBSで、「嫌なことを忘れたくても、なぜか忘れられない」という発言が結構出ていた。実は私も、そのうちの一人である。
発達障害関連本にも、しばしばそういう記述が出てくる。
その一方で、覚えておかなければならないことをすぐに忘れてしまう。
自分でも、自分の変な記憶力に当惑してしまう。
「(嫌なことに限らず)何故こんなことを、今の今まで、この人は覚えているんだ? こんなこと、他の誰も覚えてなんかいないぞ」と、他の人(非発達障害者が多いと思われる)を惑わすことが、私にはちょくちょくある。

今回の記事では、「『嫌なことを忘れられない』のは悪いこと」と言い切れるのか? ということについて書く。

私の経験からは、「嫌なことを忘れたくても、なぜか忘れられない」と打ち明けた場合、周りの人からはネガティブな答えが返ってくるのがデフォルトと思われる。
「過去は消せないんだから、ウジウジしないで楽しまなきゃ損だよ。」
「嫌なことを忘れられるように努力してこなかったんでしょ。これからは努力してなおさなきゃダメにきまってるでしょ。」
「昔のことを、今さら蒸し返してどうするつもりなの。もう時効よ。」
という類の。
実際、発達障害関係のサイトやブログ等で、非発達障害者が発達障害者に対してその類のコメントをしているのを何度か見た。
それらのコメントに対して発達障害者が、「自分でも『忘れなきゃいけない』と思っている。しかし、何をどうすればうまくいくのか全然見通しが立たない状態だ。」という回答をしているのも、何度か見た。

私も、「嫌なことを忘れられるようにする方法」を知りたかった。しかし、対策を何も思いつかなかった。発達障害関連サイトやブログや発達障害関連本を読み漁った後、ある日突然、次の思いが頭に浮かんでしまった。
「ひょっとしたら、『嫌なことを忘れられない』のは、私なりのある種の努力の、証なのかもしれない。」という思いが。
「何をふざけたこと言っているのだ。忘れようと努力しなかったからこんなことになってるんだろ」と思われたかもしれない。しかし、「この思いが浮かんでからのほうが、浮かぶ前よりも暮らしやすい」ということが、私にとっての事実である。
では、「ある種の努力」とは何なのか? 以降これについて書いていくが、前置きが長くなってしまう。

発達障害系の人が「「周囲の状況把握が苦手」と、自分自身を認識しているケースはよくある。「状況把握が苦手」を更に詳しく見ていくと、「非言語系の情報(人の表情など)がわからない」「音声情報と視覚情報、どちらか一つだけだった場合に特に、うまく受信できないことがある」などといったことになる。

一つ、例をあげてみる。
小学校の掃除時間。児童は各自が周りの状況を見ながら掃除を進めていく。
「Xさんが、ここの部分を雑巾がけしている。だから私は、他の部分を掃除しよう」
「Yさんが一人で大変そうだから、手伝いに行こう」
「今日は体調が悪くて、あまり動きたくない。できるだけ反感を買わないように手を抜こう」
といったことを考えながら行動している。いちいち意識化はしないが。
しかも、これらは、「いちいち発言して動く」わけではないことが多い。事前の打ち合わせがあるというわけでもない。ぶっつけ本番の「無言の駆け引き」めいたものになっている場合が多い。ついでに言うと、「(その場にいるとは限らない)教師の意向」も忖度して動くことが要求されている。
周囲の状況判断がうまくできない場合、
「XさんやYさんのことまで、頭が回らない」
「何をどうすればよいのかわからなくて、立ち往生してしまう」
「箒の使い方を把握できず、文字通りに、四角い部屋を丸く掃いてしまう」
などといった事態となってしまう。下手をすると、「本人は、本人なりにまじめにやっている。しかし、周囲からはサボりだと思われてしまう」という事態になりかねない。
私も身に覚えがある。「帰りの会」で、人民裁判めいたことをされた経験もある。

ある種の努力。それは、「その場その場での状況認識をやっていく認知力が弱い」ことを、「過去のことを記憶する長期記憶で、少しでも補っていく」努力である。

  • 「自分以外の人は、どんなふうに感じてどんなふうに行動するのかという、パターン的知識」を、過去の経験から模索していく
  • 「パターン的知識に合わせて行動を組みかえる、自前の(←ここ重要)運用技術」を習得することを目指す
  • パターン的知識とその運用技術を習得するためには、本人自身による観察・思考・分析が必要

なお、ここであげた「パターン的知識」は、しばしば「本人自身の実感とは結びつかない」ものである。「違和感を覚えながらも、トラブル回避のためになんとか運用していく」必要が出てくることも、多々ある。
 こんな調子だから、「本当の社会性」と「パターン的知識とその運用」の差は歴然としている。「本当の社会性」を身につけるわけではなく、「パターン的知識とその運用」によってトラブルを回避する、というのが実情である。


「嫌なことを忘れたくても、なぜか忘れられない」のは、トラブル回避のための副作用めいたものなのかもしれない。
そして非発達障害者から、「本当の社会性には届かない、マニュアル的な冴えないこと」解釈されることもあるかもしれない。
しかし、私にとっては、「過去をなかなか忘れられない、ウジウジした奴。忘れられるように自分を改造できないようではダメ」という思いよりも、ずっと暮らしやすさに繋がっている。
「何だかんだ言いながらも、自分なりに努力してきたじゃないか」と思ってからのほうが暮らしやすい。

発達障害関連記事(特に育児系)では「『嫌なことを忘れられない』のは、好ましくないこと」とされているように、私には思える。
「嫌なことが1つでもあると、他の楽しかったことは全部無かったことになる。それは、発達障害の悪い特性である『白黒思考(0か100かで極端に物事を評価してしまう)』だね」
「切り替えが苦手なのは、発達障害の悪い特性だね」
といった類の評価が、発達障害者本人以外から(一方的に?)なされている。

発達障害の有無を問わず、「『嫌なことを忘れられない』のは悪いこと」という価値観が、世間一般の比較的多数を占めているのでは? と私には思える。
しかし、
「悪いこと」とは言い切れないのでは?
「忘れられない」の背後に、何か大切なものが隠れている場合もゼロではないのでは? ひょっとしたら、重要な問題提起につながる場合もありうるのでは?
という思いも、「嫌なことを忘れられない」ことに対して私は持っている。